参禅の感想-12

20代男性 現在、求職中

 摂心に伺ってから、早くも一ヶ月が経ちました。初めての参禅で勝手も分からず、色々ご迷惑をお掛けしました。お世話になり、ありがとうございました。

 仕事を探しているところなので、面接の日などと重ならずに、次回の摂心もいけるようであれば、またメールで連絡させて頂きます。

あれから毎日、少なくとも線香1本くらいの時間は、できる限り坐るようにしています。

 以前、ヨーガを習っていた時は、どうしても無理のかかる努力が必要で、毎日、継続するのができなかったのですが、何も期待せず、呼吸を見つめ、ただ静かに坐ることは、それほど無理なく続けられるようです。

 大きな変化はありませんが、坐っているときの重心が、より据わるようになり、体がぶれなくなり、寝ている間の夢が、リアルになった気がします。日常生活に戻るとやはり色々ありますが、毎日、坐禅をする時間は取りたいと思っています。
 参禅の感想を送ります。それでは失礼します。

 参禅に至った動機

 2、3年前、インターネット上で朽木學道舎の存在を知りました。インド思想の本などを読んでいたこともあり、禅には十代のころからから、漠然とした関心がありました。

 在家の方がされている、無宗派の禅堂という特殊な場所で、ホームページに禅について書かれている内容が、よく読んでいたインド思想の本に似た響きを感じたこと、また「風と森の学校」という活動もされていることに興味を感じたのですが、禅という日常触れる機会のないものに対して、やはり敷居が高いと感じて、参禅に行こうとまでは思わずにいました。

生きる上で、哲学や宗教、特にインド思想や仏教というものについて考えるのは好きでしたが、実際に特定の宗教を信じたりすることには、今も非常に抵抗があります。ただ、どれだけ本を読み考えても、それだけでは言語的理解の域を出ないということも、いつも感じていました。

そんなことを考えつつ、仕事に追われる毎日を送っていましたが、その生活の中で生きることに対する疑問が抑えきれなくなり、それまでの仕事を辞め、これからどのように生きていくか、次への展望が見出せずにいた為、一度参禅に行ってみようと思いました。

参禅してみて

06年1月30日から2月5日までの7日間の摂心に参加しました。
朽木學道舎の周辺は山に囲まれ、雪が深く、とても静かな場所でした。

1月29日夕方、學道舎に入り、翌30日から5日まで、他の参禅者との私語はすべて禁止され、摂心では挨拶も必要ありません。1回に40分の坐禅をして20分の休憩、それを朝5時に起きて2回、粥座(朝食)の後3回、斎座(昼食)の後3回、薬石(夕食)の後3回行います。

昼食前のには、提唱(坐禅したまま、今回は碧巌録からの逸話を聞きました)、夕食後に独参(師家の元に一人で行き、自分の坐禅について疑問に思ったことなどを聞いて確認する)、一日の最後に「四弘誓願文」を全員で唱えます。

それ以外の回は足を組み、姿勢を正し、静かな細く長い呼吸をして、そこに作為を加えず、呼吸だけを意識して、衝立を前にひたすら坐りました。

坐禅している間、いろんな思考がめぐってきますが、それを邪魔にせず、相手にせず、訪れては去って行くままにしておき、そのやってくる思考を掴んだり、のぞき込んではいけないということでした。そのほとんどは些細な独り言のようなもので、その回が終わると忘れてしまいますが、中には快不快な様々な鮮明なイメージや、忘れていた記憶なども、呼び起こされました。坐禅の間は、思考を起こるがままにさせつつ、ただ呼吸を意識している、それだけをやっていた気がします。

師家は摂心の間、何度も呼吸の重要性を話されました。呼吸という、意識的にもでき、また意識で完全に支配できない無意識的に続いているもの。人が酸素を吸い、二酸化炭素を吐き、植物が光合成をして二酸化炭素を吸収し酸素を作る、呼吸の中に思考とは別の、肉体の、生命のサイクルがあり、ただ呼吸そのものになりきることが重要である、そういうことを言われたと思います。

3日位経過して、坐禅している間は感じないのですが、その後の食事の時などに、呼吸と食事の動作一つ一つに自然に意識が留まり、心が静まり落着きを感じるようになりました。それまでは食事の作法を間違えないか、自分だけ食べ終わるのが遅れないかなど、周りを伺ってばかりいましたが、そのように心が彷徨い出ることなく、「今、ここ」に落ち着いているという感覚がありました。その落着きの感覚こそ、いつもここではないどこかに、探していたものであるように思いました。ここではないどこかなど、求められないと分かりつつ、それをいつもどこかに求めていた気がします。

食事はなるべく音を立てないようにして頂きます。食事の作法に則り、食器を並べ、食事をよそってもらい、食べ終わった後は、お湯と沢庵で食器をきれいにします。食事の前後に、何度も合掌があります。そのようにして食事を頂くと、食事もまた、呼吸と同じく、非常に重要なものだと感じました。食べ物によって自分の命が繋がっていることを、不思議と強く感じました。

以前、永平寺の修業の様子をテレビで見て、禅堂で出る精進料理というと、ほんの少ししか出ないのだろうと思っていましたが、品数も量も充分な、大変おいしい精進料理を頂きました。お代わりもできましたが、僕には多すぎて、御飯一杯の量を減らしてもらわなければならないほどでした。本来は腹七分(で合っていたでしょうか)ですが、一日中、坐禅を行う摂心は体力勝負なので、必要充分な量を取ってください、ということでした。

一日のほとんどを坐って過ごしたので、一週間は早く感じられました。最後の独参だったか、師家から言われた道元禅師の言葉「仏道を習うとは自己を習うなり。自己を習うとは自己を忘るるなり」という言葉が、印象に残りました。

 「あなたが、これからどこの禅堂で、どんな師の元で学ぶにしても、仏道を習う、坐禅を組むことは、自己を習うことであり、あなたの本来の自己は既に悟った存在で、その本来の自己に参じている、自分自身に参じている、ということをことを忘れないでください」というようなことを言われました。本来の自己がどういうものなのか、分かっているわけでもないのですが、その言葉は、何か自分の中にストンと入る感じがしました。


仕事も辞めたところで、何か生きる上でのヒントだけでもつかめれば、という思いでしたが、そういう意味では、気付きは確かにありました。真摯に取り組めば何か気付くものがあると思います。また何か小さなことでも気付くものがあると、継続して取り組んでいこうと思うものだと思います。

今回、初めての摂心はそんな感想を持ちました。

2006年4月18日、独接心を終えて

携帯メールから失礼します。お世話になりました。

大阪の道路は入り組んでいて抜けるのがほんとに大変でした。しかも要らない所で曲がってしまい、迷いに迷いかなり焦りましたが、無事フェリーに乗りました。今出航待ちです。

本当にありがとうございました。今日は本当にいい天気で、山に囲まれた空気のきれいな所で、川の流れる音を聞き、そしてあの縁側に座っていると、人間本来の、心と体に沿った暮らしというのは、こういうものなのかなと、しみじみ思いました。また沖縄からメールさせて頂きます。

無事ガラス工房に着きました。沖縄北部で朽木學道舎に負けず劣らずひと気の離れた場所にあります。海と空と山だけがふんだんにあります。静かさでは米軍の飛行機がたまに飛ぶので負けますが。もし実際にやってみたことが思うようでなくても、禅の修行と変わらないと思って頑張ります。またたまにメールします。失礼します。

2006年9月1日

ご無沙汰しております。お元気ですか。
今日(もう昨日になりますね)福井に帰ってきました。

ちょうど一月前程から、宿で一緒になった大阪芸大でデザインを学んでいる韓国人の留学生と一緒に、旅をしていました。

 当初、一月かけてキャンプしながら、久米島から島々を南下し、西表島の密林を縦断しようという計画でしたが、五日間程滞在した久米島から、一旦那覇へ戻り、宮古、石垣と行く予定が、台風の影響でフェリーが欠航になり、予定を変え島々を北上しながら、最終的に屋久島に行くことにし、与論島に行ったのですが、屋久島へは一旦鹿児島へ行かない限り船がないとのことで、また予定を変更し、与論島から那覇へ戻り、そこから偶然、臨時便で一本だけ出ていた屋久島行きの船に乗り、屋久島をめぐり登山をし、山を縦走してきました。

老師も屋久島で御覧になったと思うのですが、樹齢数千年の屋久杉の姿は、その大きさも佇まいも、僕の想像力を遥かに超えて、存在していました。

 

 山の中は全てが苔で覆われ、そこらじゅう荒々しく倒れた巨木の上に、更に大木が縦横無尽に根を張り、そびえていて、まるで自然が作った戦場跡か廃墟のようでもあり、またその死と破壊の中に、まさに人間の尺度を超えた命がたぎっているようで、どこからが生なのか、どこまでが死なのか、そのように分けること自体が無意味であるようにも思えた光景でした。


また屋久島の山上から、山々の頂きに巨石がごろごろと転がっている姿を見た時は、本当に何ものかの意志があって、そのように配置したのではないかと、まるで神々が遊ぶ為に作った庭のように思えました。自然が作り出した光景をなぜ美しいと感じるのか、そこにはからいがあるかのようにまで自分が感じるのが不思議でした。日本庭園はこのような自然を模しているのだなと感じました。

予期しないこともたくさん起きたり、旅の間、ほとんどテント泊であったり、かなりハードな旅でしたが、今まで経験したことのない面白い旅でした。

表層的な日常生活の中で、相変わらず今この自分に不満を持ち、今ここではないどこかに心は希望を求め、目を遠くにやり今生きていることをないがしろにしてしまっている気がします。それでは本当にどれだけ生きたところで、同じことの繰返しであるように思います。心を決め、老師の元で参禅を継続させて頂きたいと思います。よろしくお願い致します。

弟が、學道舎から返信が来て、とてもよいアドバイスをもらったと喜んでいました。ありがとうございました。

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