参禅の感想-2

Hさん 男性 30代前半 ドイツ フライブルク在住

参禅の動機

 私は西洋哲学の研究をはじめて8年になりますが、数年前から、これまでまったく気が付かずにいた、哲学と仏教のつながりが少しずつ見えてまいりました。その後、仏教とくに禅を自分なりに勉強しながら、実際にフライブルクのある禅グループの坐禅会にも、定期的に参加するようになりました。

 禅のみならず仏教では一般にそうでしょうが、教えを単に知識として勉強するのではなく、実践つまり修行がそこに伴わなければまったく不十分だという考えがあってのことです。

 そんななか、昨年の12月に日本に帰った折、東京のあるお寺で集中坐禅会に参加する機会がありました。ところがその指導のあまりの厳しさ、策礼の激しさに、心身ともに耐えられず、途中で脱落せざるを得ませんでした。

 その時は自分の意気込みの甘さを悔いて、今後どのように坐禅に関わっていったら良いかと悩みもしました。その後ドイツに戻ってからも細々と坐禅を続けていましたが、そんななか、偶然にも朽木學道舎のホームページに出会いました。

 老師の活動や理念について拝読させていただき感銘を受け、そこになにか言い知れぬご縁を感じて、今年(2006年)11月末に7日間の独摂心をさせていただいた次第です。

 【摂心

 摂心中は毎日、独参の時間を設けていただきました。お話の中で印象的だったのは、坐禅における「呼吸」の大切さでした。酸素を取り込み、二酸化炭素を吐くという一見単純な活動に、私たちの生命は支えられており、またそのなかに自然全体とのつながりがあらわれている。

 これまでの参禅では無字の公案が課されましたが、今回こうした呼吸の出入りに意識を集中し、呼吸に成り切ろうとする「随息観」に、初めて取り組みました。まず指摘されたことは、自分の呼吸の「粗さ」でした。

 これまでひたすら気合を入れて無に成り切ろうとする坐禅をしてきた結果、体に余計な力が入っていただけでなく、あまりにも呼吸をないがしろにしていたことに気づかされました。

あたかも針に糸を通すように綿密な呼吸を心掛けて、音や気配すらも出さない位に細やかな呼吸を練っていくように、と老師は注意されました。摂心の最初は、姿勢を保つことや呼吸を調えることに腐心していましたが、4日目を過ぎた頃から体も呼吸も安定しはじめ、同時に呼吸に意識を置くことが容易になってきました。

不思議なことに、こうなると楽れるようになってきます。もちろん体の節々も痛くなっているのですが、それも丁度いい緊張感をもたらしてくれました。摂心5日目になると、かなり深い集中が可能になってきました。

 おそらくそれと関係があるのでしょうが、ある時、呼吸に集中するあまり、突然呼吸の音が聞こえなくなって、静寂のなか、世界と自分の時間がピタッと止まってしまったかのような不思議な経験がありました。

 また、休憩中外に出たときのことですが、ふと見上げると、川岸に立っていた木々の色、形、模様のなかに、瞬間自分の意識がすーっと引き込まれていくような現象も経験しました。

 老師は、大切なことは「正受する」こと、つまり自我を介在させることなく、ものごとを正しく受け取ること・ありのままに受け取ることだとおっしゃっていましたが、坐禅をひたすら続けることで、意識が世界に対して何らかの判断を加える以前に立ち帰り、主観と客観の分離が成立する以前の、ものそのものがありのままに受け取られる場に立ち会うことができる、ということが分かったように思えます。

摂心を終えて

 7日間、これほどまで集中的に坐り続けたことは、私にとって初めての経験でした。坐禅、とくに呼吸の仕方、呼吸への集中の仕方が、この摂心を通じてかなり身についたのではないかと感じています。摂心前に老師からいただいたメールの中で、「できれば7日間坐り続けるように」と言われていました。

今回の参禅で、今後坐禅を進めていくうえでの基礎ができたように思えます。しかし、独参のときに老師がおっしゃった「坐禅をすることは何ら特別なことではありません」という言葉は印象的でした。

 いたずらに厳しさだけを振りかざして、これが坐禅なのだとして、それが何か高尚なことであるかのように考える風潮や、そうしたことが禅を必要としている多くの人々を遠ざけてしまっている現状を嘆いておられました。

 尋常でない厳しさ、苦行を通じて見性を得たとしても、それでは見性した「私」が残ってしまい、こんどは「悟り」の経験に縛られ、自由を失う危険があること、見性や悟りどころか、禅や仏教の跡形も残らなくなるよう「熟すまで待つ」姿勢が大切だということには、大変共感しています。

 釈尊が「苦行によっては悟れない」とお気付きになり山を降りたことには、やはり大きな意味があったのだと感じます。坐禅をすることは何ら特別なことではなく、それどころか世間の目から見ればなんと無駄なこと、愚かなことに見えるかもしれません。しかし、「愚かさに徹する愚者こそが賢者になる」、老師のこの言葉に深く考えさせられています。

 かつての禅の世界では、修行者が優れた師を求めて諸方を訪ね歩くことが行われていると聞きますが、坐禅を進めていく上で、自分にあった見識のある指導者が本当に不可欠であると感じます。何といっても、人は「決して一人では悟ることができない」のですから。

 今回は冬支度でお忙しいにもかかわらず、独摂心の場を設けてくださり、心より感謝申し上げます。ありがとうございました。

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