参禅の感想-5

摂心体験談と禅フォーラムに参加して
2010年4月29日~5月5日までの灌仏会大摂心と5月、6月の南山城禅フォーラムに参加しました。
参加する前と参加後の自分が変わった訳ではないですが、生きていくのが随分「楽」になったようです。余分な要らない力(ほんとに余分で、要らない力!)が抜けるようになってきた…、というよりは、要らない力が入る自分に、その都度、よく気がつけるようになってきた…という方がぴったりくる表現でしょうか。
摂心に参加するまでは、心の荷物をあれこれ勝手に背負い込んで、押し潰されそうになって、汲々としていました。…とは、今だから言えることで、当時は「何故だかわからないけど、なんだか、苦しい!!どうしたらいいの??」という日々が、知らぬ間に長く続いていたようです。本人としては、ある意味、無自覚でした。
なんというのか、どうしようとも動かしようもない現実の事実に、ウンウン独り相撲をしていたような、はたまた、独り勝手に、いいの悪いの、好きの嫌いの、正しいの正しくないの、…etc.…etc.判断しては、心の内であれこれ言い募っては責め立てて、自家中毒していたような、そんな感じで過ごしていたようです。(これもやっぱり今だからわかることですが・苦笑)
何度も何度も坐ってみて、さて、今はどうなのか?
何故、今、「楽」なのか?
以前より、現実の事実に「降参する」?のが上手くなったのかもしれません。
或いは、不様であろうと何であろうと、自分の姿をそのままに受け止められるようになったのかもしれません。
現実は、何もなく、極めて深く静かに平和なのに、ひとり勝手に自分で自分を苦しくしているだけ…?!というのが、どうも私の苦しさの原因だったのかもしれないなぁ~…と認めるしかない体験を、「坐る」ことを通して教わったからかもしれません。
摂心の期間中は、坐る毎に様々な体験がありましたが、一番印象に残っているのは、6日目の早朝の出来事です。
その日は、早く目が覚めたので、そ~おっと二階から抜け出して、學道舎の前を流れる川の畔で、ひんやりとした、いい匂いの朝の空気に包まれて、せせらぎの音と河鹿蛙の啼き声に「きれいだなぁ~」とうっとり聞き惚れていました。
ふと、合掌して自分をまとめたくなり、しばらくそうしていましたが、突然、辺りの音の全てが、自分の中にドドォ~ッ!となだれ込んで来た!と思った次の瞬間、自分が斧でパカッと割られたような感じになって、突然、広い広い?世界?に投げ出されたような感じになりました。
あまりに異質な世界に、「えっ?!何コレ??」とびっくりした途端、あっという間にさっきまでの、音と自分、周りと自分が別々の世界に戻ってしまいました…。
ほんのほんの一瞬垣間見た、とても「広い広い」あの世界からすると、普段の自分は、自分勝手に作り上げた様々なもので、なんとまぁ、自分を小さく小さく閉じ込めて、窮屈にしてしまっているのだろう!!あの広い広いところから、なんだってまぁ、遥かに自分を隔ててしまっているのだろう!!…そんな風に感じてしまいました。
この体験から、今まで汲々としていたのは、なんのことはない、全て自分の作り事のせいではなかったのか…?と感じさせられてしまった訳です。
6月の禅フォーラムでも貴重な体験をさせて頂きました。
一炷目の中ほどでしょうか、「呼吸が勝手に呼吸をしている」という感じになり、身体のあちこちから、ふっ、ふっ、ふ~っと力という力が抜けていきました。抜けてみると、「え?!こんなにあちこち力が入っていたの?!」と驚きつつも、すっかり力の抜けたその心地よさに、しばし休んでいました。
何もしようとしなくても勝手に息がやって来て、勝手に息が去っていく。
なんだか不思議な感じでしたが、それは、本当に深い安らぎでした。
何もしようとしなくても、生命が勝手に生命を繋いでくれている。
自分は何も、何もしなくてもいい、ただ生かされている。
「なんだぁ!自分は何もしなくてよかったんだぁ!」と気がつくと、ほんとにほんとに楽になりました。
ほんとうに、今まで、何をそんなに、「自分が」「自分が!」と何でも自分がしているつもりで、肩肘張って、目を吊り上げていたのでしょう?!(苦笑)
この体験では、「生きる」ことにおいて、自分は何もして来てはいなかった!!ということに強烈に気づかされました。
4月末から初めて参禅した自分が、安心して坐り、こうして貴重な体験を重ねられているのは、摂心やフォーラムで同じ時間を、ひたすら真摯に、共に坐って下さる方々があってこそ、そして老師はじめ諸先輩方の誠実に坐ってこられた時間の積み重なりがあってこそ、と感じます。
坐るのは、ひとり向き合うことなのですが、でも、様々あった体験は、ひとりでは、決して絶対に成し得ないことだったのを、ひしひしと感じます。
摂心期間中の日々の食事も、坐ることを支えてくれていました。
摂心から帰ってきて、「精進料理というのは、料理を作る者が、精魂こめて精進して作るところから精進料理という」という言葉に触れましたが、朽木學道舎で頂く食事は、正に、そういうものでした。
初めての参禅で、やはりどこか緊張している自分を、ほっとさせてくれたのは、手間ひまかけて作られた、心のこもったおいしいお料理の数々でした。夜に出していただく甘い手作りのお菓子も元気の素でした。
そして、坐ることだけに専念出来たのは、學道舎でもフォーラムでも、諸先輩方が、陰に日向に、細々とした様々な仕事をこなして下さっているからでした。
提唱でのお話や独参でのやり取りも、誤って「坐る」ことのないように、何度も何度も「坐る」ことの真髄を摑ませて下さろうとする老師の思いが伝わってきて、坐するときの大きな支えとなりました。
時々話して下さる、老師の修業時代の思い出話にもほっこり励まされました。こちらまで懐かしいような気持ちになり、親しみを感じるお話ばかりでした。
古人の方々の言葉を聴くことは、今この時代を共に生きている同輩達や先輩方との繋がりだけでなく、肉体としては会えずとも、「坐る」ということに打ち込んで来られた古の方達が連綿と受け継いでこられたものが伝わってきて、ず~っと、ず~っと伝わってきていることに、ただただ感動してしまいました。
摂心期間中、一緒に坐った方々とは、全く言葉を交わさないわけですが、それでも寝食を共にし、一炷一炷、貴重な時間を共に坐った間柄の方達に対して、私の中には、なんだか不思議な一体感が生まれていました。
最終日には、一緒に坐った方達も、學道舎の場に対してすらも、自分の身体の一部のような感じがして仕方がなかったです。三々五々、解散していく時には、自分の一部がプチン、プチン!とちぎり取られていくような、そんな感じさえしました。面白いですね~。
朽木學道舎や、南山城のお茶室を包んでくれている、山々に息づいている全ての生命にも「ありがとう」を伝えたいです。沢山の生命に包まれて、自然の中で、芯からほっと寛げました。
思いがけず、長くなってしまった感想文のお終いに、朽木學道舎とのご縁を繋いで下さり、物心両面に亘って援けて下さった上、摂心に快く送り出して下さった職場の方々に深く感謝したいと思います。
もしもここに勤めていなかったとしたら、朽木學道舎や坐禅とのご縁も、いまこの時に結ばれていなかったかもしれません。
本当に、安心して、気持ちよく坐らせてもらうことが出来ました。
行住坐臥、全てを「禅」にできる日を夢見つつ、今日も自分の実際の姿を逃げず隠さず、しっかり受け止めて行こうと思います。
みなさん、ありがとうございます。
そして、これからもよろしくお願い致します。
2010年7月10日 三日後からの小暑摂心参禅を前に
*この方にはさらに、秋分大接心後の体験があります。メニュー「摂心体験記」のサブメニュー「ある女性の初関透過」に繋がります。

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