参禅の感想-7

M.Sさん 30代後半 女性ロンドン在住 映像関係(フリーランス)

 本屋やレコード屋に入って欲しかったものが思い出せず、ただ店内を徘徊して、出てきてしまうように、禅や精神的なものには前から興味はあったが、普段生活していると忘れてしまっていた。

 自分の精神が、あまりにも冬眠状態であるのに気づいたのは、ここ二、三年前の事で、以来ヨガを始めたりして、少し目覚めて来た今日この頃、次は何をしようと模索中でいたが、今回それは坐禅なのだ、と何故か決めていた。

 インターネットで調べると、大きなお寺や坐禅同好会はすぐ見つかったが、どれもあまりピンと来ない。しばらくねばって、やっと朽木學道舎のサイトを見つけた時、何か運命的なものを感じてしまった。

 老師のことを読んで、在家でこんな生き方をしている人がいるのだ、と感心。かっこいー。思い切ってメールを出してみた。それから一週間。門前払いをされたと思いつつ電話をかけると、老師は意外に気さくであった。いろいろお話ししてくださって、参禅のお許しが出る。

 前日
 
 午前中の新幹線で京都へ。心はカラッポで、特に大きな期待も不安もない。ピュアな気持ちで臨んでみたかったので、何の予習もなし。しかし、昨日、古本屋のレジで目に飛び込んできた、佐藤俊明著「禅のはなしー二つの月ー」という本を買ってしまった。

 冒頭の、道端の草を右か左か迷って食べられずに餓死してしまう驢馬とは、まさに私のことである。修証不二?悟るなんて大層な。私には一生以上かかります。老師へのメールには、今までテキトーに生きてきたので、精神の鍛錬をしてみたい、と書いた。

 湖西線に乗ってしばらく行くと、空一面は真っ白に曇り左手に迫る山にも雲が怪しく降りてきた。線路の右側ぎりぎりからは冷たい灰色の湖が果てしなく広がり、人っ子一人いないちょっと怖い風景。安曇川の駅でバス停を見つけると、ちょうどバスが出て行くところだった。

 次のバスまで約一時間。駅前の地図の前でボーッと立っていると、何故だかわからないけれど、涙があふれてきた。死んだばあちゃんの事も頭をかすめる。

 何だか懐かしい所に来たような気がした。空を見上げると、一面の雲がほんの少しだけ切れて、五秒間くらい陽がさした。Here comes the sun. 村役場でさらに小一時間バスを待つ。

 時間の流れがゆっくりしていく。ようやく小入谷についた頃には、もう日もとっぷり暮れていた。バス停(?)で老師のお出迎え。


 茅葺き屋根の古民家の中は、しーんとしていて懐かしいにおいがする。老師がお茶を出してくださり、何か訊かれたが、また突然涙が出てきて何も云えなかった。老師が「川で、カジカが鳴いていますね」とおっしゃった。

 しばらくその鳴き声を聞く。そして老師はすぐに私を道場に連れていき、坐禅の仕方を教えてくださった。黙って坐っていると落ち着いた。

接心一日目 晴

 まだ外は暗い静寂の中で坐禅する。初めての経験ながら何故か全てがしっくりくる。するべき事をしているというこの環境に満足。ゆっくり長く呼吸するのが結構難しい。

 ちょうどお腹がすいてきた頃に鐘が鳴り、粥座の時間。老師の見よう見まねで食事の「儀式」をする。何度も合掌しながら昔の人の簡素な生活を思う。お百姓さんが丹精込めて作ったご飯を、一粒残さず食べること。そのお米を実らせてくれる太陽を、お天日様と呼ぶこと。

 沈黙の中、一つ一つの動作や、三つのお椀が小さくふろしき包みになっている様、その全てがlovelyー素敵で愛らしいーと思う。

 無駄がなく簡素ながら、可愛い。タイに行った時人々がいつも「コプンカ(ありがとう)」と言って手をあわせていたのを思い出す。とても美しく炊けたお粥をひそかに感動しながら味わった。
 
 外に出て山を歩く。道端で動物の死骸を虫が食う。それはテンだと老師が教えてくださる。他にも小さい花や、木や草や蜘蛛、何千何万という生命が生きている。澄んだ空気を吸い、小川のせせらぎを聴いて、なんだか遊びにきたみたい。

 坐禅はとてもおもしろく、いろんな事が頭に浮かぶまま過ごす。私って煩悩バリバリ。老師は私の考えていることが分かるのかな?そのうち坐りながら眠ってしまう。

 お昼には山のごちそうが出る。このお米が老師自らの手によって作られたと知りまた感動。仮眠した後は、老師外出のため、独りでついたてに向かう。木の節をじっと見ていると、様々なものに見えてきて、アニメーションのように動き出すものもある。とてもentertainingである。あっという間に時が経つ。

 初めての独参。老師と一対一で向かい合わせにすわるのは緊張する。しかも、私は世間をナメているので、敬語もろくに喋れない。しばし沈黙。老師が、私が不思議とここにこうしているのは何かの縁で、私は永い間坐ってきた人であるとおっしゃった。

 そう言われて少しも違和感がない。ふうんやっぱり、とさえ思う。涙が出たのもそういう訳?これを帰依するというのでしょうか。どんな因縁でここに来たのか、ちょっと気になる。本当の自分を見つけなさい。こころとは、そして仏とは?

 老師は、風邪でだいぶ辛そうだ。何かお手伝いしたいが、やらせてもらえない。「禅のはなし」にあった、道元禅師の一話を思い出す。天童山景徳寺にて修行中、猛暑の中、作務をしていた高齢の老師を助けようとすると、その老師、用典座は「佗は是れ吾にあらず」と答えたという。キビシイ。

 修行を実行に移すのにこんなに時間がかかったのは、一度始めたら終わりがないと、どこかでわかっていたから。私は本当に怠け者なのである。

二日目 強風、雨

 夜明け前から風がすごい。坐るのにもなれてきて、呼吸も長めになってきた。粥座のあと仮眠をしたが、午前中半ばでまた眠くなる。せっかく坐禅しにきたのに眠ってしまうのはもったいない。

 雨で外に歩きにも行かれない。独参でその事を話すと、眠くなったり意識が朦朧とするならばなりきれば良し、私は「眼の人」なので、見えてくるものに気を取られずに、こころの眼で呼吸を見つめるようにと言われる。

 ただ坐っているだけだったが、老師は熱心に坐っているとおっしゃる。かなり長いこと正座をして、脚が痛い。お昼に老師が黒米にマーガリンをつけて食される。

 また仮眠すると、その後はいい感じで坐り続けられた。静寂の中で、意識が冴えてくる。午後最初の坐禅で、四肢の感覚がなくなり、指先と足先だけが感じられるようになる。

 身体が固まって変だけど心地よく、意識も朦朧から恍惚へという感じ。組んだ手が右と左の肘くらいの所に一組ずつ、合計三組位あるような感じは、千手観音を連想させる。こんなに美味しいごちそうを毎日食べて、寝て坐って呼吸するだけでいいという幸せ。

三日目 雨のち曇りちょっと晴 満月

 早朝寒く、シャキッとする。薄暗い中で坐るのがよい感じ。しばらくするとまた睡魔に襲われ合間に外を歩いてみたりする。しかしこんなにも眠くなるものか。老師が三日目くらいに辛くなりますよ、と 云われたが本当だ。

 お昼は豪華に柏餅まで出る。そういえば今日は五月五日であった。雨が止んだので散歩に出て仮眠時間がなくなり、午後やっぱり眠ってしまう。冷たい水で顔を洗ってみたが、効き目は小。気がつくとまた食事。食べてばかりで何だか悔しい。

 独参の話題は、私の常々感じている喪失感や、時として鬱になること、仕事や人生において師と呼べる人がいまだかつていない事など。それとは別に「精神鍛錬」のためここに来たと思っていたけれど、けっこう関係があるのかもしれない。今まで偉そうに自分は無宗教だと信じていたが、西洋で生活しているうちに、選べと云われたら、やっぱり仏教なのだなと、思うようになっていた。

 「無宗教」の私は、第三者の精神分析医に悩みを話し、両親の生い立ちまで分析される。自分でも分析する癖がついてしまったのか、他人に相談する事もなくなって、けっこう自己完結してしまう今日この頃。

 言いたい事をうまく言えずにいると、老師は私の一言から話を広げ、個人的な事まで、いろいろと興味深いお話をしてくださった。そのお言葉は、禅という宗教に基づいているのであろうが、その枠をはるかに超えて、私に響いてきた。

 私のこれから進んでいく道はこれのような気もするが、しかし宗教というものには、まだ違和感と抵抗がある。
自らの光を拠り所とするというその原理は、果たしていわゆる宗教とは対極に位置するのでは? 私のこだわり過ぎ? 理神論が仮面をかぶった無神論である、とはこういう事なのか??

四日目 霧のち快晴

 早朝、5度位だったが、もっと寒く感じた。 晴れてきたので外に出ると、草っ原の草一面に朝露がついてあまりにも美しく、しばし立ち尽くし、小さい花などを観賞。気温が上がってきて、地面から霧の立ち上る光景を眺める。

 全ての窓が開けられ、道場に埃が舞っているのを見た時、衝動に駆られ掃き掃除をして爽快感を味わってしまう。そのあと初めて、老師にパシッと警策をいただく。けっこう痛いのね。

 独参。こころとは何かというのが、まだわかりません。魂とは何かと訊かれ、人が生まれる時そこから持ってきて、死ぬとまたそこに戻るようなもの、と答えると、老師は「日本人だねえ」と笑いながらおっしゃった。今思うと、それは魂というより生命?

 そろそろ、もう明日で終わりになって、ここを去らなければならない時が来る、という事が頭をよぎる。ここにいつまでもいられたらいいなあ。人は同時に何カ所にもいられない。

 カムチャツカの少年がキリンの夢を見ているとき メキシコの娘は朝もやの中でバスを待っている。これからどう生きていくべきか。いろいろ思いふけってしまう。人の苦しみにあふれた世の中で、こんなに贅沢なことをしている自分は、確かに恵まれている。

 ただ坐るだけで、何も要らない。こんな生活もいいかも。私はこれでもけっこう厭世的なところがあり、出家でもして世のしがらみを断ち切れば楽になるのではないかと考えたこともある。

 現世では、lust for life、あまり生きる意欲がないことが、悩みの種にもなっていて、それだから人が世の中で成し遂げることができなくて、何か、自分はちょっと変なのだと思っていた。このような自分と日常生活の折り合いを、どうつけるのか。

五日目 日本晴

 目覚める時とても寒く、一瞬気がゆるみ、布団のぬくっとした感じにやられてしまう。着替え終わる頃には、老師がもうお線香を焚いておられたが、目を覚まさねばと思い、急いで顔を洗いにいくと、やっぱり、ちょっと遅れてしまった。

 二度目の警策をいただく。外の天候や調光の仕方で微妙に変わる、道場内の自然光がすばらしい。坐りながら、あーもうおしまいになるんだなあ、と寂しくなるが、だからこそ過去でも未来でもない、ただ「今」この時を生きようと呼吸する。

 最後の独参では、感極まるという感じでまたものが言えなくなり、顔も引きつる。今言うなら、訳も分からず突然やって来たこんな人間を引き受けるばかりか、こんなにすばらしい経験をさせてくださって、いろんなお話をしてくださり、食事から何からお世話してくださり、理解とご支援を与えてくださって、誠にありがとうございました。

 お身体の具合がすぐれないにも拘らず、ずっと一緒に坐ってくださったことも、私が最後までやり通すのに、どんなに励みになったことかわかりません。

 たったの五日間でしたが、この経験が、私の今後の人生を変えることは必至です。これから修行をつづけ、いつかは老師のお手伝いができる位になりたいと思います。i sit because no because、本当ですね。

 今までの、ご褒美のような四弘誓願と茶礼をして終了。五日間着た着物と袴から洋服に着替えると、今まで、タイムスリップしていたような気がした。その間に味わった生活は、蛇口をひねれば水が出ること以外は、百年以上前から、殆ど変わっていないのだろう。そして今、その生活をこよなく愛している自分がいた。坐禅にハマってしまったようです。

ここで一句。

After the long and hard rain,

full moon behind the pale vail.

And in the morning i saw

a million pieces of crystal

sparkling in the brightest sun,

and a spring mist

rising above the meadows

up into the blue sky blue.


(06年02月9日の便りから)

接心終了後東京に戻るといつも、明るいニュースが流れています。

紀子さまが、ご懐妊だとか。この度もまことにおめでたい事ですね。

今回も大変お世話になりました。

初めて他の参禅者の方と一緒で「普通の禅堂」ではこうするのかという事が少しわかりました。

提唱もはじめてでしたが、興味深いお話が聞かれ、午前中の眠気が覚めるので、毎日、楽しみな時間になりました。

それでもやはり少人数で、私たちはなんて恵まれているのだろうと思いました。

飯高転石師家に出逢えたことは、私の一生の宝物だと、接心を重ねる毎に感じます。

師家もお疲れのところ、送って下さり有り難うございました。帰りは無事に戻られましたか?

今日の東京は雲一つない陽気で、空気も春一歩手前のにおいがしていました。

また雪山の静寂に取って代わってコンクリートと街の音に囲まれ、朽木での生活も過ぎてしまえばあっという間で今となっては夢のようです。missing it already….

そちらのお天気はいかがですか?

ひとり籠って仕事をするには最高の環境だと思いますが、ちょっと寂しそうですね。

クマさんやや雪女には、くれぐれも気をつけて、ご自愛ください。

ここで一句。

「雪布団 肩に積もりし 大接心」

合掌

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