参禅の感想-4

Dさん 男性 30代 京都市 禅宗僧侶
五日間有難うございました。
老師並びに奥様、食事、参禅環境のお世話有難うございました。真心のある御もてな しが身に沁み込んできたように感じています。 熱心な参禅者の方々には、その姿勢、菩提心に、感動、励まされ、よい刺激を受 けることが出来ました。厚く感謝しています。
箇条書きですみませんが、以下に印象に残っていることをテーマごとに日記風に述べ てみたいと思います。
・自然環境の素晴らしさ
日本的な創造性、懐かしさ漂う茅葺屋根の禅堂とその周りの素晴らしい自然環境の中で、しばらく自己に親しむ生活から遠ざかっていた自分を振り返ることができた。無意識に自然的な生活に戻りたい、帰りたいという要求がずっと働いていたのだと思う。

 坐禅と坐禅の合間、近くの神社まで20分ぐらいの道程、童心のようになって雪の中を踏みしめた時、「ほっと自分に帰っているという感覚」が甦ってきました。なんだか、針畑川の「源流」を訪ねることは、日本人の源流、精神の源流、自分というものの源流と繋がっている気がした。


・自然ということ
 独参で今の自分の精神状態を述べた時、自分の口から「自然体でいたいという感じが自分の中にあります。人を見ても、世の中を見ても、皆そういう思いがあるように思います。日本人には、自然というものが心の情景にあるというか、素朴な自然観があると思います。

けど、『自然で居たい』ということに囚われると、自然ではいられないというか、『自然をよし』(たぶん自然主義のようなことを言いた かったのだと思う)とするのは本当の自然じゃないというか、だから自然には生きられないというか。それもまた、自然という言葉に振り回されているような・・・」というような事を言った。

 老師は「只管打坐も同じ事です。只が残っているうちは只ではないのです」と。また、「自然というのは後から名付けた名前です。そういう状態があるわけではないのです。自然不可得ですよ」と云った。「自然不可得」の響きが、胸に飛び込んできた。

 そう云えば、食事をした部屋の壁の額には「no nature」というゲーリー・スナイダーの詩があった。そうだ、ここ(朽木學道舎)へ来る前のメールのやり取りで、「山や川と共に坐ってごらんなさい」と老師からメールを頂いたのだった。


・大地性
 此処に来て「大地性」ということについても触れられたように思う。やはり「大地から離れて、人は生きられない」。「大地に在る」という生活。「大地の上に大地と共に生きる」、鈴木大拙のいう「大地的霊性」の自覚が、「大地性」を失った現代の人々の無意識に、それを要請しているようなものがあるのだろうと感じる。

 もっと昔の日本人はもっとおおらかで、たくましかったのだと思う。老師は「今のお寺には、たくましさがないように感じます」と言った。まったくそうであり、自分もその中の一人だと思った。一日目に「そんなに眉間にシワを寄せ、小さく坐らないでドッシリと大地に任せて、もっと大きく坐りなさい」と云われたのを思い出す。


・専門の禅道場との比較について
 この禅堂では、自分自身の自主性を重んじてくれる。それはある意味、厳しいことである。規則に拠って、人の命令に従って行動する方が楽なこともあるからだ。自分は禅宗の専門道場で何年間か修行させてもらった身なので、伝統や形式、制度や規矩(規則)の必要性、重要性も感じてはいるが、上の人からの命令によってやらされているという思いがずっとあったと思う。

 どうしても、先輩方の云う「させて頂く」という思いが起らない自分に悩んだこともあった。そんなこと、いつのまにか忘れてしまったが…


 今朝、TV番組で禅寺の参禅風景が映されていたが、ずっと係りの僧侶が、参禅者の人たちを睨みっぱなしだった(笑)。正座も崩さしてもらえず、ただ我慢する生活を強いられて一泊して家に帰っていく。それなりに禅寺の厳しさも体験し、一日我慢できた自分に満足できるだろうが、なんだか「この体験を活かして実生活も・・・」だけでは寂しいような気持ちだ。
 本当の厳しさ、優しさとは何だろうか。あれでは、いかにも禅寺は特別な修行をする処であり、人を寄せ付けないというイメージを作ってしまい、禅マニアしか行かなくなるではないかと危惧する(笑)。初めて坐禅する方に、痛さや厳しさを植え込み、高尚?な話をして、遠ざけてしまうという現状に違和感を感じたことがある。

 また、僧侶側においても、大きな修行道場の摂心では、部署や持ち場によってはとても忙しく、一度も一週間坐り通したということがない状態のまま、1年後、二年後に、自坊(自分のお寺)に戻って、住職の仕事に就くという修行僧がほとんどです。


 お寺で精神を鍛えるのが目的ではありませんが、摂心による「靜中の工夫」(基礎)なしに、いきなり「動中の工夫」(応用)に向わなければならないのは、実践生活、精神生活上大変なことだと思います。

 私自身も料理当番や、参禅者のお世話係りの時、自身で坐禅できないことを悔やみ、与えられた仕事に徹せられなかったことがありました。「菩提心」の大事さを今更ながら思います。


・これから
 ここしばらく、坐というものから離れた生活をしていて、最近、「坐りたい」という気持ちが強く起こってきた。この禅堂で5日間、みっちり坐らしていただくことができ感謝しています。これからも、「坐りぬく」まで「坐りたい」という気持ちを大切 に参禅して行きたいと思っています。
 参禅中、『肯心みずから許す』いう言葉を頂きました。それは、「自分で自分を許すということ」。カウンセリングでは「人に受け入れられて、初めて自分を受け入れら れる」ということを云いますが、「人に許される、受け入れられる」ということを超えた「自分で自分を許す」という道があるということを知りました。

さらに、独参で 「最後は、許すも許されるもないんですよ」と老師に言われてしまいましたが・・・


 私の参禅は始まったばかりです。     合掌

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