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参禅の感想-10

T.Mさん 滋賀県在住 男性 60代 大学職員(専門は電気)
参禅記
私はかねてより坐禅にあこがれておりまして、正しく指導していただけるところを探しておりました。
インターネットで朽木學道舎を知り、ホームページを拝見して、その趣旨が願ってもないほどのことであり、また、近いところでもあり、大変有難くおもいました。
その後、師との手紙やメールでのやりとりがあり、一度お会い出来、昨年の五月の摂心に参加させていただくことが出来ました。
山里の初夏という素晴らしい環境の中で座っておりますと「野鳥のさえずる声」「風の音」「かじかの鳴き声」などが耳に入りこころを落ち着かせてくれました。
私は元来、粗忽であわて者なので、摂心の作法に戸惑いましたが、摂心を終わってみて、非常に落ち着いた心持になれたことを深く感謝しております。 本当に摂心に参加できて良かったとつくづくと思っています。
長い間、脈々と引き継がれてきた摂心というものの大切さが、よくわかりましたし。私自身が大切に思ってきたことへの確信を得ることもできました。と申しましても初心者です。
何もわからないままに、参加しましたが、極めて自然にわかりやすく指導して戴き、有難く思いました。
私が強く感じたことは、正しい指導を受け、自分自身で体験することが、 最も重要だということです。
(初めての摂心後の便りから)
合 掌 すっかりご無沙汰いたしております。お陰様で当方は元気に過ごしており、ありがとうございます。
五月の摂心は、とても大きく貴重な体験であり、毎日の生活に、みずみずしく活かされております。当然、端緒の体験としてではありますが。有り難うございます。
先生の方も、自然環境に大きな影響をお受けのようで、大変でございますね。
生き物との共存と云う現実は、決して生易しいことではないのですね。
国内外各地で、極端な気象現象を呈していて、とても「他所事」とは思えません。
七月の摂心のご案内を賜りまことに有り難うございます。
ご迷惑をおかけすることになるかも知れませんが、勤務との調整で例え1日でも2日でも参加させて戴ければ幸甚でございます。
7月10日ごろまでに電話連絡をさせて戴くことになると思いますが、どうかよろしくお願い申し上げます。
皆様によろしくお伝え戴ければなおさら幸甚でございます。
「四弘誓願文 」 のメールありがとうございます。「四弘誓願文」と「般若心経」には、いつもこころが洗われます。
ありがたいことでございます。
戴いたメールにしたためていただいたように、日程につきまして、或いは前後の滞在希望になるかも知れませんが、併せまして、よろしくお願い申し上げます。
合 掌

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参禅の感想-5

摂心体験談と禅フォーラムに参加して
2010年4月29日~5月5日までの灌仏会大摂心と5月、6月の南山城禅フォーラムに参加しました。
参加する前と参加後の自分が変わった訳ではないですが、生きていくのが随分「楽」になったようです。余分な要らない力(ほんとに余分で、要らない力!)が抜けるようになってきた…、というよりは、要らない力が入る自分に、その都度、よく気がつけるようになってきた…という方がぴったりくる表現でしょうか。
摂心に参加するまでは、心の荷物をあれこれ勝手に背負い込んで、押し潰されそうになって、汲々としていました。…とは、今だから言えることで、当時は「何故だかわからないけど、なんだか、苦しい!!どうしたらいいの??」という日々が、知らぬ間に長く続いていたようです。本人としては、ある意味、無自覚でした。
なんというのか、どうしようとも動かしようもない現実の事実に、ウンウン独り相撲をしていたような、はたまた、独り勝手に、いいの悪いの、好きの嫌いの、正しいの正しくないの、…etc.…etc.判断しては、心の内であれこれ言い募っては責め立てて、自家中毒していたような、そんな感じで過ごしていたようです。(これもやっぱり今だからわかることですが・苦笑)
何度も何度も坐ってみて、さて、今はどうなのか?
何故、今、「楽」なのか?
以前より、現実の事実に「降参する」?のが上手くなったのかもしれません。
或いは、不様であろうと何であろうと、自分の姿をそのままに受け止められるようになったのかもしれません。
現実は、何もなく、極めて深く静かに平和なのに、ひとり勝手に自分で自分を苦しくしているだけ…?!というのが、どうも私の苦しさの原因だったのかもしれないなぁ~…と認めるしかない体験を、「坐る」ことを通して教わったからかもしれません。
摂心の期間中は、坐る毎に様々な体験がありましたが、一番印象に残っているのは、6日目の早朝の出来事です。
その日は、早く目が覚めたので、そ~おっと二階から抜け出して、學道舎の前を流れる川の畔で、ひんやりとした、いい匂いの朝の空気に包まれて、せせらぎの音と河鹿蛙の啼き声に「きれいだなぁ~」とうっとり聞き惚れていました。
ふと、合掌して自分をまとめたくなり、しばらくそうしていましたが、突然、辺りの音の全てが、自分の中にドドォ~ッ!となだれ込んで来た!と思った次の瞬間、自分が斧でパカッと割られたような感じになって、突然、広い広い?世界?に投げ出されたような感じになりました。
あまりに異質な世界に、「えっ?!何コレ??」とびっくりした途端、あっという間にさっきまでの、音と自分、周りと自分が別々の世界に戻ってしまいました…。
ほんのほんの一瞬垣間見た、とても「広い広い」あの世界からすると、普段の自分は、自分勝手に作り上げた様々なもので、なんとまぁ、自分を小さく小さく閉じ込めて、窮屈にしてしまっているのだろう!!あの広い広いところから、なんだってまぁ、遥かに自分を隔ててしまっているのだろう!!…そんな風に感じてしまいました。
この体験から、今まで汲々としていたのは、なんのことはない、全て自分の作り事のせいではなかったのか…?と感じさせられてしまった訳です。
6月の禅フォーラムでも貴重な体験をさせて頂きました。
一炷目の中ほどでしょうか、「呼吸が勝手に呼吸をしている」という感じになり、身体のあちこちから、ふっ、ふっ、ふ~っと力という力が抜けていきました。抜けてみると、「え?!こんなにあちこち力が入っていたの?!」と驚きつつも、すっかり力の抜けたその心地よさに、しばし休んでいました。
何もしようとしなくても勝手に息がやって来て、勝手に息が去っていく。
なんだか不思議な感じでしたが、それは、本当に深い安らぎでした。
何もしようとしなくても、生命が勝手に生命を繋いでくれている。
自分は何も、何もしなくてもいい、ただ生かされている。
「なんだぁ!自分は何もしなくてよかったんだぁ!」と気がつくと、ほんとにほんとに楽になりました。
ほんとうに、今まで、何をそんなに、「自分が」「自分が!」と何でも自分がしているつもりで、肩肘張って、目を吊り上げていたのでしょう?!(苦笑)
この体験では、「生きる」ことにおいて、自分は何もして来てはいなかった!!ということに強烈に気づかされました。
4月末から初めて参禅した自分が、安心して坐り、こうして貴重な体験を重ねられているのは、摂心やフォーラムで同じ時間を、ひたすら真摯に、共に坐って下さる方々があってこそ、そして老師はじめ諸先輩方の誠実に坐ってこられた時間の積み重なりがあってこそ、と感じます。
坐るのは、ひとり向き合うことなのですが、でも、様々あった体験は、ひとりでは、決して絶対に成し得ないことだったのを、ひしひしと感じます。
摂心期間中の日々の食事も、坐ることを支えてくれていました。
摂心から帰ってきて、「精進料理というのは、料理を作る者が、精魂こめて精進して作るところから精進料理という」という言葉に触れましたが、朽木學道舎で頂く食事は、正に、そういうものでした。
初めての参禅で、やはりどこか緊張している自分を、ほっとさせてくれたのは、手間ひまかけて作られた、心のこもったおいしいお料理の数々でした。夜に出していただく甘い手作りのお菓子も元気の素でした。
そして、坐ることだけに専念出来たのは、學道舎でもフォーラムでも、諸先輩方が、陰に日向に、細々とした様々な仕事をこなして下さっているからでした。
提唱でのお話や独参でのやり取りも、誤って「坐る」ことのないように、何度も何度も「坐る」ことの真髄を摑ませて下さろうとする老師の思いが伝わってきて、坐するときの大きな支えとなりました。
時々話して下さる、老師の修業時代の思い出話にもほっこり励まされました。こちらまで懐かしいような気持ちになり、親しみを感じるお話ばかりでした。
古人の方々の言葉を聴くことは、今この時代を共に生きている同輩達や先輩方との繋がりだけでなく、肉体としては会えずとも、「坐る」ということに打ち込んで来られた古の方達が連綿と受け継いでこられたものが伝わってきて、ず~っと、ず~っと伝わってきていることに、ただただ感動してしまいました。
摂心期間中、一緒に坐った方々とは、全く言葉を交わさないわけですが、それでも寝食を共にし、一炷一炷、貴重な時間を共に坐った間柄の方達に対して、私の中には、なんだか不思議な一体感が生まれていました。
最終日には、一緒に坐った方達も、學道舎の場に対してすらも、自分の身体の一部のような感じがして仕方がなかったです。三々五々、解散していく時には、自分の一部がプチン、プチン!とちぎり取られていくような、そんな感じさえしました。面白いですね~。
朽木學道舎や、南山城のお茶室を包んでくれている、山々に息づいている全ての生命にも「ありがとう」を伝えたいです。沢山の生命に包まれて、自然の中で、芯からほっと寛げました。
思いがけず、長くなってしまった感想文のお終いに、朽木學道舎とのご縁を繋いで下さり、物心両面に亘って援けて下さった上、摂心に快く送り出して下さった職場の方々に深く感謝したいと思います。
もしもここに勤めていなかったとしたら、朽木學道舎や坐禅とのご縁も、いまこの時に結ばれていなかったかもしれません。
本当に、安心して、気持ちよく坐らせてもらうことが出来ました。
行住坐臥、全てを「禅」にできる日を夢見つつ、今日も自分の実際の姿を逃げず隠さず、しっかり受け止めて行こうと思います。
みなさん、ありがとうございます。
そして、これからもよろしくお願い致します。
2010年7月10日 三日後からの小暑摂心参禅を前に
*この方にはさらに、秋分大接心後の体験があります。メニュー「摂心体験記」のサブメニュー「ある女性の初関透過」に繋がります。

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ある女性の初関透過

*以下の文章は、2010年度「秋分大摂心」に参禅されました40代の女性からのお便りです。

文中にもありますように、都合で摂心4日目に下山されました。それでも、御本人は帰宅されてからも摂心を相続されていたようです。

 こうした体験を公表することは、間違えますと他の参禅者の邪魔をすることになりかねないことは、充分に承知しておりますが、既成宗門を中心とした禅が形骸化し、現代の混迷した社会に生きる人たちの自由と解放に繋がっていない状況の中で、ほんらいの禅がもっている素晴らしい可能性について理解して頂くために、御本人の了解のもとに、敢えて公表することにしました。

 「初関」を透過しただけでも、長い間抱えてこられた悲しみ、苦しみが一瞬にして氷解する様子が良く表現されております。誰よりも御本人が良く理解されておりますが、これで禅における修行がようやく本格的に始まったということです。

 禅の初学者が読む祖録の一つに「十牛図」がありますが、真の自己に目覚めるとは、八番目の円相によって表現されております「人牛倶忘」にしかありません。
 それまではすべて途中のものです。道元禅師が身心脱落された後に、「一毫の仏法もなし」と断言されておりますように、この「わたくしの心身」はもちろん、ダルマも仏教もすべて無くならなければないけません。伝統的な仏教の言葉で云えば「解脱」であります。

 参禅者が初関を透過することができれば、禅の修行についての迷いは無くなります。正しい坐禅を相続して行けば、必ず自意識の根が切れる(切れた分だけ自由で伸びやかな本来の自分に近づく)こうした体験があるということを知って頂きたいと思います。


老師へ
合掌
おはようございます。
「秋分大摂心」も今日で最終日ですね。
先に帰りましたが、皆さんと一緒に坐っているつもりで、この3日間を過ごしていました。
 今朝、暁天坐を終えて、しばらくして日課となっている、飼い猫を階段で遊ばせるために玄関を開けて、外に出ました。(家は団地の5階なので、階段の踊り場からは周辺がよく見渡せます) 家の周りは、T市の外れのためか、変電所や、ゴミ焼却場がすぐ近くにあります。変電所に近いため、周りは鉄塔だらけ。
 空はいつも沢山の鉄塔と電線に遮られています。 今までは、それが嫌で嫌でたまらなかったのですが、今朝、夜明け前の澄み切った空の中の鉄塔を見たとき、なんというのでしょうか、「只這是」(ただこのとおり)としか言いようのない見え方で、鉄塔が見えてしまいました。
 今まで、何を見ていたのでしょうか?何も見てはいなかったのだなぁ…とつくづく思いました。 それから、何回か鉄塔を見てみるのですが、やはり、鉄塔は鉄塔として、只あるがまま。醜いものでも、忌むべきものでもなくなってしまっていました。
 今までは、自分にとって嫌なものなので、風景の中から、切り取って見てしまっていたのだと思います。 初めて、「只這是」で見えたとき、鉄塔を、美しいとさえ、感じました。なんだか、とても優雅に佇んでいる様にすら見えました。

 びっくりしてしまって、何度も何度も見るのですが、やはり、すっかり、力も抜けたような様子で、ただ立っている鉄塔たちが存在しているのです。

 もうひとつ、びっくりしたことは、鏡を(鏡の中の自分を)見るのが嫌ではなくなっていることでした。 鉄塔が鉄塔として見えた後、炊事場の横の鏡に、ふっと目が止まりました。 鏡の中には、私が映っていました。とても静かな気持ちで見ることが出来ました。そんな風に自分を見たのは初めてのことでした。

 「私ってこんな顔をしていたんだ…」 とても冷静に見ることが出来ました。今までは、鏡で自分を映して見るのがあまり好きではなく、 今朝のように、ただただそのまま自分を見ることが出来たのは、初めてでした。 心だけ参加していたような、後半の3日間も、坐禅のうちに数えてもらっていたのでしょうか。そんな今朝の出来事でした。


 そして、最後にもう一つ。20年前に、とても大きな悲しみを得ましたが、ずーっと、ずーっと、いまだにまるで、昨日のことのように苦しかったのですが、それが、今朝のその二つの出来事の後、思い返してみても、胸の痛みも、悲しみも、今までのように苦しくはなくなってしまっていました。 以前、老師が教えてくださったように、これが、「空ぜられる」ということなんでしょうか? なんだか、不思議な感じですが、とても、楽になりました。 秋分大摂心、本当にありがとうございました。                                    M  拝
老師へ
もうすぐ職場に着きますが、今朝の鉄塔は、私にとっては、2回目の斧に当たる出来事だったのかもしれません。
あのあと、いろんな物が目に入ってきて、こんなに様々なものが存在していたの!?…というビックリと、
様々なものが均等に見えていると言ったらいいのか、今まで嫌だったものが目に入っても嫌な感じではなく、
反対に、好きだったものが目に入っても、それだけが飛び切り目立って見える訳でもなく、
なんだか当たり前のものが当たり前に見えているような…
今まで、薄皮一枚通して見ていたような、その薄皮が剥がれてしまったような
なんかいつもと違う感じで
でも、当たり前で…
なんか不思議な感じです。
老師、本当にありがとうございます。
今回は、しみじみうれしいです。
そしてありがたい気持ちでいっぱいです。
九拝

*次の文章は、秋分摂心からほぼ4ヵ月後の、神戸「楽の森禅フォーラム」での体験について書かれたもの。
こんばんわ。
今、A尼とKちゃんと、Tさんに
メールを出し終わりました。
(トリが老師です・笑)
Kちゃんは、2月3月も摂心なのですね~
A尼もお仕事再開されたんですね~!

さて昨日、禅フォーラムで坐って、耳が変わったみたいです。

きっかけはシャッターの音。

いつも聞いているビルのシャッターが閉まる音を、あんなふうに聴いたのは初めてだったかも。

素晴らしいオーケストラの交響曲みたいに、とんでもなくきれいでした~

で、今朝からは、耳が「ふし穴」になったみたいです。


昨日、シャッターの音が轟いた時、
聞いているうち、
「音」だけになったみたいでした。
音が止むまで音だけだったみたいです。
(あとで、そうだったらしいと言葉になりました)
音についての思い出話ですが、
夏だったか、摂心中に
ヒグラシの声が自分の中で鳴り響いて、
(というか、自分が無かった??)
参禅者の方の感想の中にも
同じような出来事が綴られていたなぁ~、
こんな感じのことなのかなぁ~
とか、思ったことがありました。
昨日の出来事は、
それより更に圧倒的な感じでした。
音だけでしたね~…
いつもは、シャッターの音は
すぐに「うるさいなぁ~」という思いに飛んでしまうし、
階段を行き来する人の音とか、
道行く人の大きな話し声とかにも
坐っている時は、やはりどうしても
うっすらと「うるさいなぁ~」という思いに行きやすかったのですが、
昨日のシャッター以降の諸々の
物音、話し声は、なんにも思わなくなりました。
「あ、音がしてる…」
くらいの感じで、ただそのまま聞くことが出来て、
とても、楽になりました。
どんな音にもひっかからなくなったというか、
カタマリの自分がないというか…
どの音も、むしろ、愛おしいような、
どの音も、ある種、美しくて、
「いつもこんなに豊かな音に包まれて
暮らしているのか~」
って、感動して、うれしくて、
胸がジ~ンとして、なんか、
ちょこっと泣いてしまいました。
音というものを、今までは
こんなに自分勝手に価値付けて
自分の中に止めてひっかかっていたのかぁ~!!
と、びっくりしました。
(価値付けたために引っかかっていたわけですよね…)
昨日のシャッター以降は、
音が、
右の耳から、左の耳へ、
ただ頭部の中を通過していっている感じ、
音が通り抜けることで
頭の中をスースーと掃除してるみたいです。
スースーしてます。
今まで知らないな~…この変な?感じ。
昼頃までスースーが激しかったですが、
だんだん落ち着いてきました。
でも、もう、今までの聞き方とは変わってしまったようです。
音にもこんなにも、好き嫌いの価値付けを
していたんですね~
びっくりします。
いやはや、どんだけ、
自我は「仕事」熱心なんでしょう!苦笑
今朝の坐禅中、今までは気がつかなかった、
遠~くの電車の音にも気がついて、
こんな音も、ほんとは、ここまで届いていたんだな~
と、またまた感動してしてしまいました。
そして、「鼻息かすかに通ず」という感じの
極めて静かな呼吸をしていたようです。
初めてだと思います。
老師が呼吸についてお話してくださることは、
今までは、「そんな息もあるのか~」と
頭では、知っていても、「どんななのかな~?」
という世界でしたが、今朝は、少しだけ体験できたようです。
あんなに静かな息があるのですね~…
ほんとに、呼吸してないみたいな…
ふと思ったのですが、私は、
鉄塔で、目を開いて?もらい、
シャッターに耳を開いて?もらい、
次は鼻か?(その次は喉?)
なんか冗談みたいな、この展開…
風邪薬でもあるまいし~…
でも、そんな風に、ひとつひとつ、
価値付けのお仕事に励んでいる器官が
お仕事から外れていくのも面白いですね~…
それと、鉄塔とか、シャッターとか、
きっかけに鉄がらみが多いのは
我が父上が鉄の仕事をしてたからでしょうか~・笑
次は何によって、何が外れていくのやら~?・笑
それはさておき、
ただただコツコツ坐るのみ、ですね。
なんで、こんなに飽きないのか
ほんとに不思議ですね~
1チュウ、1チュウ、
いつも違う「旅」みたいで、
飽きません。
では、明日からの摂心、
よい時間となりますように。
合掌

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参禅の感想-1

 

Nさん 女性 30歳 岡山県在住 公務員
坐禅体験
 昨年の11月、かねてから訪れたいと思っていた芦生の森に、友人が行くと聞き、願ってもない良い機会なので、同行させてもらうことにしました。
 友人は、坐禅をするために1週間程度滞在する予定で、NPOの活動で琵琶湖のヨシの復元のために使う、柴束を作る作業もするとのこと。また、その禅堂の老師が、大変山に詳しい方で、山仕事のプロであるとともに森林の生態や、芦生の森の文化や歴史にも詳しく、森の案内もされているとのこと。摂心が始まる前に、老師の時間があえば芦生の森を案内していただけるかもしれないということで、最初は、芦生の森に惹かれて禅堂を訪れました。
 お言葉に甘えて禅堂に2泊させていただき、老師に芦生の森を案内していただきました。芦生の森は思っていたとおり素晴らしかったのですが、それにも増して、禅堂の環境と老師ご本人の人柄や思想、森林についての深い知識に感激しました。大学で森林を専門に勉強して、現在も森林に関わる仕事をしている私は、いったい今まで何を学んできたのだろうと、反省してしまいました。
 これまで、特に坐禅に関心があったわけではない私が坐禅に興味を持ったのは、その友人から、坐禅中に「自分の内側でセミが鳴いてる」ように感じたという体験について聞き、自然とそんな深いつながりを感じることができるのかと、びっくりしたことが最初のきっかけでした。
 興味を持ってからも、坐禅をしたいという気持ちはわいてこなかったのですが、ここ数年、健康なのに体が何か気持ち悪く、少し心身のバランスが崩れていたことと、3月に30歳の節目を迎えたこともあり、このままではいけないと漠然と感じていたときに、GWに接心があると友人から連絡をもらいました。直感的にこれだ!と思い、仕事も休む段取りをつけ、坐禅についての予備知識のほとんどないまま、1週間の接心に、飛び込みました。
 作法など、最初は老師から教わったり、見よう見まねで、戸惑いましたが、不安はありませんでした。ひたすら老師の言葉を守るよう心がけ、理解できるよう努力しました。最初の4日間はとにかく足が痛くて、よく座れませんでしたが、5日目の早朝には、胸の底から喜びがわき上がってきて、目に映るものがすべてのものがキラキラと鮮明に見えだしました。「真の自己」に出会えたかどうかはわかりませんが、旅をしたり、本を読んだり、映画を見たりしたのではとうてい得られない、今まで味わったことのない感動でした。
 接心のあと、日常生活に戻りましたが、呼吸に意識を傾けることで、心が乱れたり、不安を感じたりすることを軽減できるようになったり、食事の大切さを意識するようになりました。
 初めての接心でしたが、とても大切なものを得られた気がします。ただ、まだまだほんの入り口で、自然との深いつながりを感じられるまでは至っていないし、自分の中で整理できていないことが多いので、出来るだけ時間をつくって参禅したいと思います。

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質疑応答

質問1 朽木學道舎とはどんな場所ですか。

答え 基本的には禅堂です。

ダルマそのものには出家も在家もありませんが、主として一般の方が本格的に坐禅を実践できるような場として開かれました。坐禅をして精神的な安定を得るというだけなら、どこでもいいわけです。

しかしそれではヨーガがいつの間にか健康や美容のためのものになってしまったと同じように、禅も単なる精神安定剤の代わりになってしまいます。

いまでは宗門の専門僧堂も、そのほとんどが寺院の後継者養成を目的とした、僧になるための修行の場所ですね。

それが良いのか悪いのかあげつらうつもりはありませんが、禅の本来の目的は人間が真の自己に目覚めることによって実存的な苦悩から解放されることです。

朽木學道舎はそのことのみを目的としている場所です。ですからここには難しい細かい規則はありません。ダルマを探究しようとする本人の主体性こそが大切です。

質問2 ではなぜ禅センターとか、朽木禅堂とかの名称にしないのですか。

答え 最初にズバリと言いますが、もともと禅などというものはありません。

現代においてはあたかも禅という何か特別な修行をして、禅に特有な結果がもたらされるというような解釈が一般的ですね。

日本で禅の修行をした外国の方がよく日本の禅は禅臭さ過ぎると言いますが、それに気付くということは大事なことです。禅の本質を理解し始めた証拠ですから。

禅だけではなく、仏教とは自分自身とこの宇宙の存在の本質に目覚めることです。

それは何か新たに獲得されるものではないのです。

わたしたちは日常としてその本質を生きているのですが、自我が自分の存在のすべてであるという思い込みよって、それを自覚することができないのです。

チベット仏教の喩えを借りれば、自我とはもともと青空のように広大な意識の中にできた瘡蓋のようなものです。坐禅をすることでその瘡蓋は自然に脱落して、本来の自分に帰るのです。

われわれの身体を構成している物質が、この宇宙ができたときの物質と同じものであることは、今では子供でも知っている訳ですが、身体が宇宙的なものであるように、意識もまた宇宙より小さいということはないのです。

禅が何か特別なものであるというように誤解されている日本の現状を踏まえて、あえて禅という言葉を使わずに朽木學道舎と命名しました。

さらに言えば、自己を探究することがいままでのように個のなかに閉じられていてはならないのです。

道は歩く人が多くなって初めて道たり得るのです。ですから活動案内にありますように、ダルマを中心として環境や教育の問題を考えるワークショップや研究会なども行うのもそのためです。

質問3 舎主もお坊さんではなく在家のようですが、それも何か理由があるのでしょうか。

答え まず、わたくしはダルマを探究すべく修行してまいりましたが、お坊さんになるための修行はしておりませんし、関心もなかったということです。

現代の日本の社会では出家と言えば、まず何宗のお坊さんかということが問題になりますが、それは仏教の本質には何ら関係のないことです。

日本の仏教は様々な宗派に分裂しているばかりでなく、お坊さんの多くも葬式や法事をその中心的な仕事としているのが現状です。

そうしたことも大切なことですし、別に批判すべきことではないのです。

日本の社会がそれ以外のことを仏教に求めてこなかった結果ですから。 しかし、そうした状況のなかで、自己に目覚めるための実践の場としては、いわゆる既成仏教とは直接的な関係を持たない在家の立場の方が純粋であり得るわけです。

質問4 それでは、いわゆる新興宗教の一つと考えていいのでしょうか。

答え そうではありません。

わたくし自身は曹洞宗や臨済宗の禅堂で坐ってきましたし、インドの日蓮宗寺院でお題目さえ唱えたことがあります。

そのなかで曹洞宗の老師に指導を仰ぎました。もっともその老師も宗派の枠からは自由な方で公案も使いました。

そうした意味で、朽木學道舎は禅の伝統に深く根ざしているわけです。

禅の修行の段階を十枚の絵によって表現した「十牛図」というものがありますが、修行を終えて街に出ていく最後の段階を説明する文章の中に「前賢の途轍に背き」とあります。

ダルマは人が手を付けられるようなものではありませんが、それを伝えようとする社会や人間は、時代とともに変化するものです。

敢えて先人の歩んだ道に背くということが必要になるのです。そのようにして禅は創造的な生命力を保ってきたのです。

禅を学問的に研究したり文化的に取り扱うことも、それはそれで大切なことでしょうが、しかしそれだけではいつも過去に向き合っているばかりで、未来を創造して行く力にはなり得ません。

禅が単なる物好きの趣味や飯の種にしか過ぎないものであるのならば、それで仕方ありません。

しかし、今日の環境破壊や教育の荒廃、人間の自己喪失などが進行する状況のなかでそうであってはならないのです。存在の事実に目覚めることによって、新たなる人間観や世界観を構築しなければなりません。

真に禅を生きた祖師はこう言っております。「宇宙すべてが、自己の身体である」と。

ですから朽木學道舎は新興宗教などとはもっとも遠いものです。

むしろ在家仏教徒の革命運動であった大乗仏教の原像に近いものであり、禅がたくまし生命力を持っていた中国唐代の、薬山や趙州の禅堂のような存在でありたいと念願しているのです。

質問5 坐禅とはそれほどのものなのでしょうか。いったいどれくらい坐ったら、いわゆる悟りを開けるのでしょうか。

答え わたくしがお世話になった老師があるとき独参の場で「お釈迦さまだって本当のことを言ったかどうか分からんじゃないか」と言われたことがあります。

仏教の原点が釈尊の菩提樹の下での坐禅と暁の明星を機縁としての目覚め、その結果としての智慧の開発であることは何人も認めざるを得ないでしょう。

何も坐るだけが坐禅ではありません。歩くことも仕事をすることも坐禅です。しかし地球の鉛直線に脊梁骨を合わせて、呼吸と意識を整え坐るというのが坐禅の基本であるのは言うまでもありません。

この単純な行為がいかに素晴らしいものであるかは、経験したものにしかわかりません。

白隠禅師も「坐禅和讃」のなかで「それ摩訶衍の禅定は賞嘆するに余りあり、布施や持戒諸波羅蜜 念仏懺悔修行等 その品多き諸善行 皆この中に帰するなり」と言っておられますが、それが決して大袈裟なことではないことが分かります。ただ真の指導者のもとで、無理のない正しい坐禅をすることが大切です。

どれくらい坐禅すればという質問ですが、それは自我という瘡蓋が個性によって違うように、あまり意味のある質問ではありません。

しかし何度も申し上げているように、誰でも本質的にはダルマそのものです。柿が秋に熟して、自然に枝から離れて落ちるように、正しい坐禅を相続して行けば、必ず本来の自己に帰り着きます。他にどこにも行きようがないのです。

わたくしも諸方に参禅したおりに、自己に目覚めることなど必要ないかのように、ただいたずらに長時間の坐禅をするだけであったり、あるいは見性を急ぐあまり、青い柿を無理矢理もぎ取るようなことも見聞してまいりましたが、ほんとうに必要なことは、熟すまで持続するということです。

それには正しい指導者に参禅し、ダルマについて聞くことが必須です。指導者がいなければ、天才でもないかぎりこの道を正しく歩むことはできません。そうでなければ、止めておいたほうが無難です。

見性、悟りということは確かに必要なことです。しかし、それは本来の自己に目覚めることであって、何も特別の人間になったり、超能力を獲得することではありません。

目覚めた後には必要ないことです。例えば病気の人が薬を飲んで健康を取り戻したとします。健康な人に薬はいらないばかりか、害毒にさえなります。健康な人は、自分が健康であることを意識しません。

こうしたことは、それを経験した者にしかわかりません。難しいのは悟りを開くことより、むしろそれを忘れることです。

誰でもようやく達成した結果にしがみつくのは人情ですが、その間違いを指摘してくれる人は容易にはおりません。

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