我が参玄記

目次
■仏教、坐禅へのきっかけ
■インド旅行
■帰国、朽木へ移住
■仏教への道
■正師につく
■決着に向けて

■仏教、坐禅へのきっかけ


―― 修行を始めたきっかけはどのようなものだったのでしょうか。

小さい頃から非常に人間の死というものが怖かったんです。割と臆病だったんじゃないかと自分で思いますね。小学校の隣に忠霊塔がありましてね、そのそばで行われていた戦没者の法要が怖かったですね。それを見て怖かったという印象があります。私は貧しかったですけれども健康でしたし、身近に病人がいたこともないんですが。
小学校の低学年の頃、学校で掃除をしていると、学校の裏の踏切の方でものすごい爆発音がして、駆けつけました。到着すると、近所の魚屋のおじさんがオート三輪で走行中に列車と衝突をして、ガソリンに引火して大破していたんです。私が一番乗りでそこに到着しました。車はバラバラになって、魚屋のおじさんは踏切から離れた所で血を流して倒れていたんです。すでに亡くなられていて、その姿を間近に見たのが、初めて見たリアルな死の体験で、強烈に印象に残っています。近所の方がすぐに遺体にむしろをかけていました。
ただ、死に対する疑問はこの経験以前からあったように思います。死に対する思いがずっと底流としてありました。この師に対する疑問は親に聞いても誰に聞いても、納得いく返答が得られないことは想像できたので、誰にも聞かなかったですね。
もうひとつ、死に対する恐怖といえば、家から少し離れたところに横穴式住居跡があって、その穴の中に入って行くと上から押し潰されてしまうのではないかという恐怖感を、想像してしまいました。全然内向的だったわけではないんですけどね、むしろ外で飛び回って、元気に遊んでいる子どもでしたから。
こうした死に対する疑問は青年期になっても同じようにありました。どんなに生きがいをもって頑張っても、死によって全てが終わってしまうならば、何をやってもむなしいじゃないかという思いが、通奏低音のようにずっとありました。
哲学など様々な本を読んで、いろんなことを考えるようになったわけですが、その頃大きな問題だと思ったのが、水俣病の問題でした。人間が豊かさを求めて、工場を建てたり、山を開発したりした結果として、ああいう問題が起きましたからね。
私が生まれたところは千葉市の校外でしてね、房総丘陵の下総台地の南端の方なんですけれども、自然が豊かな場所だったんです。しかし、凄まじい勢いで宅地開発がされて、子どもの頃に遊んだ好きだった土地が、ことごとく全て破壊されてなくなってしまいました。
昔はとても綺麗な水がたくさん湧いていた泉があって、そこは大好きな場所だったんですけれども、それすら残されることなく、全て埋められてしまいまいました。地形さえとどめないほどで、これほど貧しい開発の仕方しかできないのかと、疑問を持ちました。
千葉には、チッソもありますが、当時、チッソの工場や厚生省の前で「怨」と書かれたむしろ旗を座り込んでいる被害者がテレビで流れておりました。成田では、戸村一作が委員長を務めた成田闘争もありましたね。戸村一作は彫刻家だったそうですけれども。
三里塚という場所は、作物を作って生きるなら、日本列島で最も適した場所のひとつです。会場に飛行場を作ることもできたはずですが、三里塚に成田空港をつくることになってしまって、反対派は小屋や鉄塔を建て抵抗していました。地元の主婦が糞尿をかぶって自分の身体を鉄塔に鎖で縛り付けている人もいました。これは熊本ですが、水俣病にも強い関心を持ちました。思春期にこうしたものを目にしていたせいか、反権力的な気持ちが生じたということはあったかもしれませんね。ですから、既成仏教に対しては、その枠に収まれない気持ちはあります。人というのは誰でも時代の刻印を押されながら成長していきますから、私が既成仏教から離れて、無宗教としてこういう形で禅堂をやっているというのは、そういう時代の影響をおそらく受けていると思います。

―― 当時の学生運動に参加していたような人たちも、どこかでそんな時代とも折り合いをつけてサラリーマンになるなどしていくわけですが、なぜ老師は仏教という道を歩まれたのでしょうか?

レイチェル・カーソンの「沈黙の春」という本があります。米国の環境運動に影響を与えた本です。農薬汚染で鳥の鳴き声が聞こえなくなってしまった状況を詩的に表現したタイトルです。日本の山野がずたずたにされていくのを目撃しながら、人間が豊かさを求め、結果的には、その豊かさの源泉である自然を破壊していくということに疑問を抱いたわけです。今、中国ではPM2.5が話題ですけれども、当時の日本も有機水銀を垂れ流すなど、ひどい状態でした。
人間は世界や自分をどう認識するかによって、どのように行動するかが決まっていくわけです。日本の近代化は西洋化であり、西洋の世界観、人間観というものを盲目的に受け入れ、東洋的な叡智をかなぐり捨ててしまった。西洋化を無前提で受け入れて、物質的な豊かさを求め、その負の側面が水俣なわけです。いい暮らしを求め、それが自分たちの命を脅かしているという、人間はここまで愚かなんだろうかと憂いましたね。
自然という言葉は、明治になってからnatureに対する訳語として使われるようになったわけですが、以前は「じねん」と読まれていました。「身心自然(じねん)に脱落して、本来の面目現前せん」(普勧坐禅儀)の「じねん」ですね。私の父も「じねん」という読み方をしていました。
人間という主体と、客体としての自然があると思いがちですが、しかし、人が酸素を吸って二酸化炭素を吐きながら活動し、植物はその二酸化炭素を吸って酸素を吐き出しながら光合成をして成長するのですから、本来ひとつなわけです。繋がりを離れることはできません。
何千年、あるいは何万年湧き続けてきた泉が、宅地開発で儲けるために埋めてしまう。もし、人間と自然がひとつであるという認識があれば、そんなことはできません。近代の二元論に根底的な誤りが潜んでいるという気持ちが、仏教につながったという部分があります。お釈迦様が悟りを開かれた時「有情非情同時浄土 草木国土悉皆成仏」と仰いました。”自分”だけが悟りを開いたというわけではなく、全てが同時に浄土、悟っているということです。自分と自然の間にどこにも境界線はないということなんです。当時の私は、仏教がそういうことを表現しているということを知りました。ですから、仏教の中に何かあるんじゃないかと思いました。
中でもなぜ禅だったのかといえば、いろんな本を読んでも、いろんな人に会っても、本当にどれが正しいのか、何を信じればよいか判断がつかないわけです。自分の中から出てくるものしかないんじゃないかと。「門より入るものは家珍にあらず」(無門関)という言葉があります。外から入ってくるものは決してその人の宝にはなりません。本当の宝というのは最初からあるものです。宗教的なイデオロギーやドグマに左右されず、坐禅をすることは、一切を手放していくことによって、否応なく自分の中に残っているもの、そのことを追及していくしかないんではないだろうか。それが坐禅だった、ということです。

■インド旅行

大学生の時にインドに旅行して、言いようもない豊かさみたいなものを感じました。当時、カルカッタと言えば貧困の代名詞で、確かにそういう側面もあります。しかし、旅しているとなんと豊かな国なんだろうと思うわけです。当時、マドラスという大都市の駅の構内で、人が死んでいたんですよ。インドでもそれは普通なことではありません。すると、たくさんの人が急いで歩く中、ときどきその遺体にお金を投げていく人がいるわけです。遺体の周りに小銭の輪ができていく。そうすると、誰かがそのお金を集めて、遺体を火葬場に持っていくわけです。人が死んでいるからといって大騒ぎすることもなく、自然に解決してしまうわけです。他にも、南インドの別の駅でのことですけれども、足を失った男が、木の板に小さなタイヤを取りつけた台車の上に乗って、両手にバンテージのようなものを巻いて、げんこつで地面を漕いで、通行人が溢れる中を走って行くわけですよ。その男の目が強烈な生命力で溢れているわけです。日本では社会福祉のありかたなど議論されていますけれど、そういったものを超越した爛々とした目の輝きですよ。人間が豊かであるということはどういうことなのかを考えながらの旅しました。
仏跡巡拝を目的に行ったわけではなかったんですけれども、それでも仏教は圧倒的に迫ってきましたね。焼き場で死体が焼かれているのを毎日見たり。ブッタガヤ、ラジキールなどに行きました。そして、ジョンソンという村から、ジャールコットという村へ向かう途中、チベット平原を見渡しながら一人で歩いている時に、ふっと思ったことがありました。結局、どんな所へ空間的に移動しても、どこへ行っても自分がついてくる。何も変わらない自分がついてくるわけです。何も解決がつかない自分です。日本で最初に宇宙に行った新聞記者の秋山さんがインタビューで「宇宙に行ってご自身に変化はありますか?」と聞かれて「何も変わりません」と答えたそうです。
現地で合流した友人の病気になり、日本に連れ戻さなければいけないということもあって、日本に帰ってきました。半年たらずの旅でした。元々は、陸路でヨーロッパまで行くつもりだったんですけどね。

■帰国、朽木へ移住

帰国後は、大学に戻って卒論に取り組みました。卒論では「宮沢賢治における近代と反近代」というタイトルでした。副題は「その思想的位相への一考察」だったかな。宮沢賢治は日本の近代と格闘した人です。卒論への取り組みは本当におもしろくて、数ヶ月間、寝る間も惜しんで勉強して書きました。あれほど知的に興奮した時間を持てたということは幸せでした。宮沢賢治は仏教ですからね。その後、宮沢賢治がもてはやされる時代を迎えますけれども、私が卒論に書いた頃は、日本の近代文学史に収まらない変わった童話作家、あるいは詩人ということで位置づけが確立していませんでした。今でも正当には理解されているとは思いませんけれども、それでも、世界的な存在になったことは間違いないでしょうね。外国にもたくさんの研究者がおりますからね。
当時の大学生は、先ほど仰っていたように、学生運動していた人たちもいつの間にか当たり前のようにスーツを着て、ネクタイをして面接試験に行くわけです。しかし、私はそういうことはできなかったんです。仕事はフリーでしていこうと思いましたから、学生時代に社会人と一緒にルポルタージュ研究会を作って、東中野にある新日本文学会にジャーナリストの鎌田慧さんを講師として呼んで話を聞いたり。フリーのルポライターになろうと思っていました。
その頃、社会に対する関心と、自分の内面に対する関心、両方があって、引き裂かれていたんですよ。それがなかなか解決できなかったのですが、三年間くらい、面白かった宮沢賢治の研究をもう少しやりたいということで、できるだけお金のかからない場所を選んで朽木の山に入り、生活のために山仕事を始めました。
大阪の尼崎、愛隣地区にも日雇いの仕事を探しに行きました。髪の毛を長くして後ろで縛っていて、いわゆるヒッピーですね。日雇いの仕事は現場仕事だからロングヘアーだと危ないと言うことで雇ってくれなかったんです。その時に「兄ちゃん、つまりあんたは、世のすね者だな」と言われました。自分としては、資本主義社会の歯車にはならない、体制には入らないと自分を固めて、理論武装はしっかりしているつもりだったんです。それが、日々食べるために働いてる人から見ると、単なる”すね者”という扱いになる。これ言われて、感動しましたね。感謝しています。山の仕事もきつかったですけれども、楽しかったです。
朽木は過疎の代名詞みたいな村でしたから、若者が一人で暮らし始めるということが、周りの人に理解できないわけです。公安警察もしょっちゅう来るんですよ。向こうも仕事ですから、普通に話をしていました。インドの旅の話とか、向こうにはハシシとかあるんですよとか講義をすると、感心してました。「ここではやってませんけどね」とか言ったりね(笑)
森を歩いたり、おじいさんに教わって炭焼きをしたり、日本の山村の暮らしというものを相当いろいろ勉強しました。やってくる鳥、生き物たちとかね。非常に楽しかったですね。

■仏教への道

当時の学生は非常に真面目で、様々な新興宗教のような物を学び、傾倒して、熱心にしゃべっていました。しかし私はそういったものを、全然受け付けませんでした。別に不信感があったというわけではないんですが、人から聞いたことを盲目的信じてということはできませんでした。これはずいぶん後になってのことなのですが、雪渓老師に独参の場で「お釈迦様だって本当のことを言ったかわからないじゃないか」と言われました。私は「確かにその通りですが、何かある、と思いました」と言ったところ、「それでいいんです」と仰っていました。仏教は二五〇〇年、連綿として時代や国境、民族を越えて今なお法を求めて修行している人がいるわけです。その歴史と人間を信頼したいんですよね。ですから、日の浅い新興宗教は全く関心ありませんでした。かといって、現代の日本の仏教の有り様を見れば、いわゆる葬式仏教、あるいは観光仏教になっているわけですけれども。そこで最初は、一人で座り始めたんですよ。
母親に作ってもらった坐布と、道元禅師の正法眼蔵と、宮沢賢治の全集一揃いを持って、山に入りましたからね、それは面白い日々でしたよね。日本の仏教は駄目でしたからね、お寺の門を叩くつもりはありませんでした。自分で修行していくつもりでいましたから。ところが向こうで、元々比叡山でお坊さんをしていて、大徳寺の僧堂に三年おられていた同世代の人と友達になりました。彼にいろんな話を聞いたりして。その人の知り合いで、小浜の仏国寺というお寺に滞在していたという人がわざわざ電話をくれました。のちに、この人は私の兄貴分のような存在になるんですけれども。その人が、在家でも一週間の摂心ができるお寺があって、世界中から参加しているという話を教えてくれました。そこで初めて、そういうお寺があるなら行ってみようという気になったんですよね。それが二十代の終わり頃でした。そして参加したのが、四月か五月の摂心でした。それまではひとりで本を読んで見よう見まねで坐禅をしていたんですよね。それが初めて摂心で。一日の終わりに、四弘誓願、菩薩の四つの誓いを
衆生無辺誓願度
煩悩無量誓願断
法門無尽誓願智
仏道無上誓願成
と、三回ゆっくりお唱えをしました。
ひとりでやっていた修行なんてほんとに遊びだったなっていう感じでしたね。摂心のスケジュールは今ここでやっているものと同じですけれども、やはりその、坐禅というものがなんて言っているかわからなくて、質問したら、怪訝な顔をされて、こんなことすら知らずに来たのかというような顔をされて。それでも親切に教えてくれましたけれども。
がんばって座っていたある日、摂心中だったか、摂心後だったか、お寺の墓地の砂利の中にツクシが生えているのを目にした時に、涙が止まらなくて。一体自分は何を見ていたんだろうってね。世界はこれほど美しかったのかとね。そういう体験もありました。
あとは、今の日本にこんなお寺があったのかとね。三十人くらいの実に多様な人が集まって。摂心というシステムの素晴らしさにも感動しましたね。ひとりで修行している時に、いつか摂心に行ってみたいという気持ちもあったんですよね。ですけれども、情報がないものですから、久松真一のご自身が悟った時の体験記とか読んで、主に臨済宗の体験記ですけれども、私は朝から晩まで座りっぱなしなものだと思っていたわけですよ。だから、自分でも座り続けてみて、でも三時間くらい座りっぱなしにしているとつらくなって、これではまだ摂心には行けないな、なんて思って。日本の仏教には、坐禅を非常に敷居を高く構えているところがあって、行ったら警策殴られるんじゃないかとかね。そうやって権威づけているところがあって。マスコミとかに掲載されるときは、警策が絵になりますからね。必ず、つきものでしょう、そういう絵が。ここではほとんど警策は使いませんけどね。全然そういうもんじゃないということを伝えていきたいですよね。元々警策なんでなかったわけですから。
そうやって摂心に通うようになって、山の仕事は時間のやりくりは自分でできますから、人の一・五倍位は仕事をして、時間とお金を作って、最初の頃は年三回くらい、後には全六回の摂心に行っていました。摂心の前日に山を越えて歩いて小浜の仏国寺に行って、一週間の接心に参加して、帰ってくるという生活を、四年位していましたかね。歩いて行けたのでお金がかからずありがたかったですね。小浜に友達もできて、接心後に珈琲館で会って話をするのが楽しかったです。摂心と移動で前後一日づつ加えて九日間、その頃上の息子が生まれていて、その九日間でも明らかにわかるくらい成長していて、諸行無常とはこういうことだなと思いました。

―― 無常というと、どうしてもネガティブなものとして捉えがちですが、本来ネガティブもポジティブもないですよね。

諸行無常というと平家物語のようにもの悲しいものとして捉えられていますけれども、本来自然のダイナミズム、移り変わりですよね。人間が勝手に悲しいものと捉えていますけれども、人間の価値観を離れた、存在の単純な事実ですから。
雪渓老師がよくこういう話をしていました。ダルマ、法という時は、さんずいに去ると書きますが、漢民族はダルマに法という時を当てたわけですけれども、水が高いところから低いところに流れるということは、イスラムを信じていようが、キリスト教を信じていようが、誰にとっても変わらず、存在の事実そのものなわけですよ。そのことに目覚めることが、仏教の最大の眼目であるわけですよね。そのためにこそ、坐禅をするわけですよ。自我の迷執といいますけれども、いつの間にか人間が成長する中で、いつの間にか自分というものをつかむことによって、客観、客体という世界ができて、壁ができるわけです。自意識が作り上げた幻想なんですよ、主体と客体の境界線というのはね。その事が二元論を生み出しているわけですよ。下手をすると、自我を満足させるためだけに人は生き始めてしまう。そこに非常に大きな誤りがあるということですよね。皮膚によって区切られた内側を自分の存在の全てという考え方で基本的にはいいわけですけれども、ただ、肺があって、口があって、呼吸があって、木があって、太陽があって、この連続性がどこかで切れてしまったら、私という生命は成り立たないわけですよね。つまり、この命というのは宇宙的な広がりの中でしか、存在し得ないわけですよ。人間の意識も宇宙的な存在なわけです。それをいつの間にか、成長する過程の中で、自我の確立なんてものがあって、それは確かに必ず一度は通らなければいけないことですけれども、今度はそれが自分自身をがんじがらめに縛ってしまう。世界の本来の有りよう、真実の有りようから目を閉ざしてしまうっていうことになってしまうわけです。自我がつくりだす、自他の境界線という幻想は、本来は元々ないものですから、手放せば、元から宇宙と一体になって躍動している自由で平和で生き生きとした自分に返らざるを得ないんです。そのために近道といいますか、それが坐禅なわけです。
お釈迦様が七日七晩、菩提樹の木の下で坐禅されてね、八日目の未明に暁の明星、金星を目にした瞬間に、自己を忘ずる、自意識が死んだわけです。真の自己に目覚められたわけです。それをそのまま素直に受けがって同じように取り組むのが仏教ですから、禅をするから禅宗というわけではありません。お釈迦様は残念ながらお題目を唱えたわけじゃないし、お念仏を唱えたわけじゃないし、阿字観とかそんなことをされたわけじゃないんですよ。あくまでご自分の呼吸を徹底的にみることによって自己を忘ずるということですね。
道元禅師も、禅宗と名乗ったり、あるいは曹洞宗など宗名を名乗ったりする人間は悪魔の一味だ、と非常に強い言葉で戒めています。正伝の仏法があるだけなんだと。強いて言えば、仏心宗だと。今のお坊さんも飯を食っていかなければいけないでしょうし、家族を養っていかなければいけないだろうから、非難するつもりはないですけれどもね。私は、仕事の話もそうですけれども、本音と建前を上手く使い分けて生きていくことができないんですよね。

―― 現代日本の大乗に対する批判はありますが、各宗派の開祖と呼ばれる人たちは、当時の農民など大衆をみて、坐禅を教えるというアプローチではなく、様々な方便を用いて救済を試みたのではないかと考えたことがあります。それが後におかしなことにつながっていった原因だったとしても、当時の開祖の優しさのあるアプローチとしてわからなくもない気がします。このあたりに対する老師のお考えをお聞かせ下さい。

気根、能力、おかれている条件がありますね。仰るように鎌倉時代に日本独自の展開を遂げたというのは、当時の民衆のおかれている状況があったと思うんですよね。禅は聖道門(しょうどうもん。自力。反対語 浄土門、他力)と言いますけれども、確かに厳しい。誰にでもできるものではありません。ですから、本来仏教は実践としての宗教ですが、信仰によって救われるということもあっておかしくはありません。ですけれども、突き詰めれば、中心がなければ信じることもできないじゃないですか。ですから、お寺の子として生まれて悩んでいる人もいます。本当の安心には、その中心が必要で、ですから大乗の僧侶の方の中にもここへ来て修行されている方もいて、見性される方もいます。そういう方には、期待しています。
臨済宗は白隠禅師から始まる方の流れにあるわけですけど、白隠禅師の師匠だった方は正受老人という方でね、信州の飯山にお母さんを養いながら隠れ住んでいたような方で、白隠禅師によって有名になりました。正受老人の師匠という方は、江戸に居られた至道無難禅師という方。こうした方々は、お坊さんの位でいうと一番低かったそうです。京都には今でも立派な本山とかありますけど、そういう所に法が伝わったということはあまりないんですよね。きらびやかな世界にはこういったことは伝わりづらいんじゃないですかね。
私のようなね、権威も何もない、まして在家の人間ですからね、このダルマサンガで修行したからといって誰かが感心してくれるわけでもない。こういうところに、伝統的な仏教の宗派の専門僧堂で修行したようなお坊さんが来るというのは、その時点で余程余計なものは落ちてるんですよ。ほんとに謙虚な方じゃなければ来ませんよ。先日来た方も、修行の進みは早いですよね。たとえば今の臨済宗のシステムは硬直化していますから、最低でも十二、三年、長いところで十七、八年、ずっと公案体系をやっていかなければいけません。じゃあ、それをやったからといってその人がほんとにわかっているかといったら、甚だ疑問なわけです。公案の解釈をするというところで終わってしまっているわけですよね。臨済宗における御師家さんというのは、そういう我慢をしたご褒美です、言ってみればね。もし、私のところに来て最後まで決着がついたとしても、臨済宗の中にいたら老師にはなれないわけですよ。ほんとに悟りを開いた人間が師家になれなくて、形の上でやった人間が師家という立場になる。臨済宗の独参のやりとりというのは、公案のやりとりだけですからね。その中で一字一句間違えたらだめ。かつては、公案体系が、修行者が真の自己に目覚めるということに直結していたはずなんですよ。それがいつの間にか、形骸化してしまって。眼が開いたら誰でも来なさいと、法を求める人に門を開くはずなんですよ。ですけれども、受け入れる人はまずいませんよね。そこにいる雲水だけを相手にしている。在家の人を対象にした坐禅会をやっても、独参はまずありません。自信がなければできないことですからね。
組織というのは後継者を作らざるを得ないわけです。ですから、必ず形骸化するんです。ただ、たとえ形骸化してしまっていても、組織を利用して法を伝えるという方法もあるんですよ、その方が楽ですからね。私は反体制的な感じでやっていますけれど。雪渓老師との最後の方のやりとりで言えば、決着が着いたすぐ後は、そのままでもいいし、つまりはこの在家のままでもいいし、出家してもいいし、時代に即応して法を説いていって下さい、ということを言われましたけれども、しばらくしてから、結局出家を勧められました。雪渓老師にしてみても、やはり出家でなければいろいろ難しいと思っていたという所はあったんじゃないですかね。雪渓老師には「あなた、お坊さん嫌いでしょうから」と言われて困ったことがありましたね。「いや、いや、そんなことはないです」と。

―― 雪渓老師は相手の考えていることをさっと察するの上手ですからね。

そんな話、一切したことなかったのに、もうわかってるんです。参りました(笑) まあ、嫌いということはないんですが、私とは縁がないという感じですね。最近大乗仏教の勃興というものに興味があって、調べたり考えたりしています。まだ定説はなく、論叢の渦中のようです。そんな中でも、大乗仏教の発展は在家が支えていたということは間違いないようです。悟りを求め修行する人たちを菩薩といいますね、ボーディ・サットヴァ。お坊さんの恰好をしている菩薩像というのは、地蔵菩薩だけなんですよ。観世音菩薩、普賢菩薩、みんな豪華なアクセサリーを身にまとうなど在家の人の恰好をしているわけですよね。そういた菩薩の比率からいっても、修行者の多くは在家だったことが伺えます。禅堂によくおかれる文殊菩薩も在家の恰好です。それが後に、僧形(そうぎょう)文殊菩薩なんてお坊さんの恰好をした仏像があとから作られています。
現代の仏教は敵詩的な展開の中で細分化が進み、蛸壺化、些末化が進んでいます。ほんとに細かい違いをつつくことに明け暮れてしまい、本質を見失っている。修行して真の自己に目覚める、そのことによって自由と安らぎというものを得るというね、その本来の有り様が解らなくなってしまっている。だからこそ、そのことに問題意識を持った在家の人たちが作り上げてきたのではないかと。大乗の最初に成立したのが般若経典群で、智慧と空について触れられています。これは当時の在家の人たちが、原点や本質への回帰という部分があるのではないでしょうか。
それから、維摩経(ゆいまきょう。ヴィマラキールティ・ニルデーシャ・スートラ)というものがありますね。維摩詰(ヴィマラキールティ)という長者にはモデルがいたらしいですけれども。居士である維摩のところに、お釈迦様のお弟子さんが行ってやり込められてしまうというエピソードがあります。もし、お坊さんが中心だったら、こうした経典は成り立ちません。自分たちの沽券に関わりますから。こうしたことから見ると、大乗仏教というのは、在家が中心になって担った仏教だと思ってるんですよね。そもそも、現代の日本のお坊さんは、ほとんど在家的ですよね。曹洞宗には寺庭(じてい)という言葉があるんです。結婚すると、家庭と言いますね。お坊さんが結婚しなければ、家庭というものは成立しません。そこで、お寺では家族のことを寺庭といったり、家族のことを寺族といったりします。そんな無理しなくていいと思いますけどね。

■正師につく

―― 多くの方が、ひとりで坐禅に取り組み修行に励んでいるという現状がありますが、このことについてどうお考えでしょうか。

それで修行を成すのは不可能でしょうね。たとえるなら、羅針盤も海図も持たずに太平洋に漕ぎ出すようなものです。心は広大です。そこに宇宙がすっぽり入っていますから。私自身、ひとりで始めて、その後師について思ったのは、余程の天才でもない限り、ひとりでは不可能だと思いました。
道元禅師も学道用心集の中で、正しい師につかなければ修行はしない方がいいとはっきりと書かれています。危険なことなんですよね。人間、怖い物は自然に避けますね。しかし、修行ではともすれば素晴らしいもの、素晴らしい境地が出てきます。そっちに行っちゃいますよね。そこに落とし穴があるんです。素晴らしいものがあるということは、素晴らしくないものが残っているんですけどね。
摂心は一週間、新聞やネットなどはもちろん、私語もせず、外からの情報を全部遮断して、ただ座り続ける。その情況では、外からの刺激に誘導されやすくなる。その意味でも、きちんとした師が必要です。

―― 今、法を求める人たちの多くは素直で、正しい海図を示されれば、つまりこの人が正師ということがわかればきちんと修行に取り組めると思います。ただ、どの人が正師かわからないから踏み出せず、家で本を読んで取り組んでいる人が多いと思います。

たくさんの真面目なお坊さん、真面目な修行者に会いましたけどね、でもやっぱり真の法を説いてくれる師に会うのは難しい。たとえば、その人に人間的な魅力があるとその人について行きたいと思いますよね、じゃあそれで正解かというとそうではない。その人の個性としての魅力と、悟っているか否かは別ですからね。そこに怖さがある。悟っていない者に、どの人が悟っているかを見極めることはできないんですよね。

―― 悟っていなければ正しい師を見つけることはできない。しかし、悟るためには正しい師を見つけなければならない。どうすればよいでしょうか。

それはやっぱり自分の直感みたいなものを信じるしかないでしょうね。解ってなくても、それ風のことを人は言えますからね。そんな人たくさんいますからね。ひとつ見極めるポイントがあるとするなら、直接その人に会いに行って、その人が、自分の作った枠の中に入れさせようとする、あるいは枠を与えようとするというのは違うでしょうね。あと、いかにもそれ風だというのは、怪しいですよね。本当のことというのは、もっと普通でさり気ないもんです。

―― 怪しい人ほど、初心者の心をつかむのが上手いですからね。

私も上手いですけどね(笑) 決着がついた後、朽木で禅堂始めるまでに、五、六年かかりましたかね。それは悟後の修行ということあるんですけれども。お金なかったですから、宮大工と二人だけで家を改築したんですが、その大工が口が悪くて。「猿でもあんたより学習能力があるぞ」とか言われながら、作業していました。そんな頃、あのオウム事件が起きました。ものすごいショックでしたね。あれほどのショックはなかったですね。
「無事是貴人(ぶじこれきじん)」という言葉があります。何事も無い人が最も貴い人だということですね。「稲妻に悟らぬ人の貴さよ」という言葉もあります。「雷鳴を聞いて悟った、解脱した」なんていう人がいつの時代にもいましたが、そういう人はうさんくさいわけです。悟り尽くして本当に悟りのないことを知るということなんです。だって本来誰でも”この通り”なんですから。そこに還ったら悟りなんてものは消えるんです。分かりやすい例えを使うなら、病があるから健康が欲しいわけですよ。やっと病が癒えて、健康になったとしますよね。その人が殊更に、私は健康です、健康ですといいますか。ただ、あるがままに自由に安らかに生きているだけですよ。それだけなんですよ。悟って誇るべきものなどなんにもないんです。ただ自分はそれに気がついただけのこと。だからこそ、全ての人に開かれているんです。法を求めている人は誰でもいらっしゃいって言えるんです。
如何にもそれ風な恰好したり、如何にもそれ風なことを言っている人は気をつけた方がいいでしょうね。
私はありがたかったですね。そんなに探して探してというわけでなく、自分の直感に導かれて最後に雪渓老師の所に行って。最初にお世話になった老師も立派な方でしたけどね、何か偉すぎてね。ちょっとつらかったんです。ちょっとしたことで対立して、最後はっきり言いましたね、「私は老師様のような人にはとてもなれませんし、なりたくもありません」と言ってしまいましたね。その老師は、老師という尊称に”様”をつけないといけなかったんです。老師でいいじゃないって思って、老師と呼ぶと「こいつなんなんだよ」みたいな顔するんですよ。私は、ここで老師と呼ばれていますけどね。摂心が終わればみな友達のように接する位ですからね。先生といういい方もありますが、アメリカでは悟ってないけど指導の一部を担う人を先生というんですね。
ある人が摂心に来て「なんとお呼びすればいいですか、飯高さんでいいですか」というから「ああ、構いません」と言ったんですが、最初の独参を終えたら老師様と呼ぶようになっていました。その人には、当分老師様と呼ばせておこうかなと思いましたけどね(笑) 初期の仏典には釈尊のことをゴータマさんと表記しているものもあるそうなんですよ。しかし時代と共にどんどん権威づけられて、祭り上げられて、臨済宗など、老師は天皇みたい偉いですからね。

―― 一方、指導ですから、関係をしっかりしないといけないという部分もありますよね。

そうなんですよね。誰でも受け入れていますから、多様な人が来ますからね。そのあたりをしっかりしないと、伝わるものが伝わりませんから。
長い間伝えられてきた、禅堂のシステムというのは、人間の経験の集積で構築されています。その合理性はよほど修行した人でないとわからないんです。ちなみに、軍隊が、潜水艦や兵舎でなど、狭い空間で効率良く生活する仕組みを、禅のシステムから学んだそうです。そのため、戦争を賛美した禅僧がたくさんいたわけです。その影響で、戦後の知識人の中には禅のような宗教的なものを嫌った人がいたそうです。 それくらい合理的な訳ですから、時代に合わせてとか、宗教的だからといって、簡単に変えるとか排するというのも難しいんです。例えば、クリシュナムルティが好きだという人がいますが、彼に方法論はないんですね。彼の境地に感心したところで、自分は一向に変わらないわけです。
最後の摂心は1992年だったと思うんですが、自分で禅堂を持つ際に、雪渓老師に挨拶をしに言ったんです。お寺から布団などを頂いたこともあって。その時に、やり方を変えない方がいいとアドバイスを受けました。雪渓老師が若い頃、三重県の赤目四十八滝の近くのお寺にいた際に、いろいろな改革に取り組んだそうなんですね。その時、周りからあまり変えない方がいいって言われたそうなんです。ですから、ここもお経の時間は少ないですが、発心寺と同じですね。一柱40分、私語なし。警策はほとんど使いませんね。井上義衍老師も仰るように、皆坐りたいから来るわけですからね。中途半端な所で妥協しないということが大切です。坐禅してたら、見性体験は普通にあるわけです。

■決着に向けて

―― 多くの人は、修行をして、見性体験、小悟、大悟というものを得てしまうと、そこでいいかなと思ってしまう、満足してしまう人もいます。老師はなぜ、最後まで突き詰めようとされたのでしょうか。

白隠禅師の有名な言葉で「大悟十八遍、小悟その数を知らず」というものがあります。雪渓老師から「小悟、大悟というのは途中のものであって、悟りというのは一回しかないですよ」と聞いていました。あと、私が恵愛する飯田欓隠老師という人がいます。井上義衍老師がつかれたという人ですね。臨済、曹洞、明治、大正、昭和を通じて最大の人ではないかと思います。飯田欓隠老師は「終わり初物」と書いていました。そういうことを学んでいたということはひとつありますね。もうひとつは、五、六回は大悟というか、悟りの体験は経験しましたね。ですけれどもね、その直後はこれでいいんだと思うんですよ。やったと思うんです。でもしばらくすると、前もこういうことがあった。ということは、まだ先があるかもしれないと思うわけですよね。雪渓老師が上手い例えを使っていました。タオルを一滴もでないというくらい徹底的に絞る。それをタオル掛けにかけておくと、下の方に水が集まってきて雫が落ちる。まだだめだと思ってまた絞る。それを掛けてもまた雫が落ちる。それの繰り返しなんだと言っていましたね。その通りだなぁと思いました。
道元禅師は「身心脱落し来たる」、天童如浄禅師の所に行かれて、「一生参学の大事ここに終わりぬ」と言いました。参学とは参禅することですね、それがここではっきりここで終わったといったんです。明確な終わりというものがあるわけです。自覚できるんですよ。
悟ったということを知っている私がいつも残っているわけですよ。悟りの目撃者、悟りの認識者がそこに残っている。悟りを自覚している自分だけが、悟りの外側にいるんです。そうである限りはどこまでいっても切りがないんですよ。道元禅師は見性という言葉はほとんど使っていないんです。見性という言葉には、この”私”が見性したという二元論を予想させるんですよね。だから、そういう言葉を使われなかったと思うんです。人とは何かといったら、だいたい心と体で示しますね。身心によって成り立っていると思っていますよね。それが脱落するというんですね。では、心と体が抜け落ちたら、一体何が残るんですか。心と体がなかったら、道元禅師は誰なんですか。心身がある限りは、生老病死という根本苦から自由になれないのは当たり前のことじゃないですか。この体は、どんなに健康であっても、無常の嵐の前に為す術もありませんよ。この心と身体にとらわれている限りは、絶対解決が着かないですよ。翻って、心身脱落してしまえば、この私がいないわけですから、悟っている私がいないわけですから、悟りもなくなるんですよ。ですから、自分で自分に手の付けようがないんです。またあるかも知れないということがないんです。もう悟りを開く主体がないわけですから。それ程、終わりっていうのは明確ではっきりしているものなんです。

- 心身脱落の直後は、実生活はきちんとできるものなのですか?

三、四日、何を見ても泣けて泣けて。なんと勝手な思い違いをしてね、生きてきたんだろうと思いましたね。
山仕事していた小屋みたいな家で暮らしていて。なんとなく寂しかったですけどね。自分の居場所がどこにもないという感じでしたかね。ひとりで修行していて。秋の夕暮れでしたけれども、仕事から帰って、ビール飲みながら、大音響でボブ・デュランのライク・ア・ローリング・ストーンをライブCDで聴いていました。その中で、
How do you feel ?
no direction home ?
という歌詞があるんですね。「どんな気分だい、ひとりぼっちで、帰るあてもない」といった意味ですけれど。それを聴いた瞬間に、かすかに残っていた自意識が切れたんですね。突然自分と世界の境界線が全部なくなってしまって。塊が一切なくなってしまって。ほんとにびっくりしてね。
それまで何遍もいろいろな体験があって、理においては解るわけですよね、全て。でも、どこか自由さがないというかね。唐の時代の禅僧の語録を読んでいると、もっとおおらかで自由なんですよね。あとでわかることなんですけど、悟ると今度は悟りに括られてしまうわけです。自分は悟っているということに縛られてしまうんです。自分があるから。悟りがあるから。心身脱落というのは、そういうものが一切なくなることなんです。本当に底が抜けるという感じですね。あれほど劇的なことはなかったですね。
飯田欓隠老師が公案禅に疑問を持って最後、岐阜県、美濃の虎渓山で、坐禅中にね、「天地融合す」と言いました。自分と世界を隔てた境界線というものは幻想なんです。それが全部落ちるんですよ。なんだこんな当たり前のことだ、これが普通だったんじゃないかっていうね。なんという思い違い、なんという夢を見ていたんだと思いましたね。笑いもあった、喜びもあった、けどまぁ泣けて泣けてね。私なりにいろいろ苦労もしてきて、親の期待にも応えてこなかったりしたというのもありましたけど、結局、どこかで認められたいという気持ちがあったんですね。もちろんそれが原動力になった部分はあるんですが、最後はそれがあったらだめですね。
それから一、二週間後くらいに、雪渓老師の所に独参をして。前へ出た途端に、滂沱(ぼうだ)の涙です。ただただ泣くしかなかったです。雪渓老師が「肯心自ら許す、これが一番大事です」と仰いました。冷暖自知ですね。ただ「この公案をやって下さい、これを通ったら許します」ということで。初めて公案を与えられたので戸惑っていたら、「心配しないでいいです、必ず通りますから」と言われてね。次の独参の際に、公案に答えたら、それまで何遍も独参してきてますけれども、初めて雪渓老師が一言も発せずに、ただこう大きくうなずいて、鈴を取ってね。一番短い独参でしたね。その次の独参で「答えはあれでよかったでしょうか」と聞いたら、「よいです。ただ、まだ何かこう隧道(ずいどう)の中に入っているような気がして」と仰るんですね。トンネルですね。私はもう「肯心自ら許す」で気にしてなかったんですが、雪渓老師がそう仰るんだから、もうひとがんばりしようと思って、その接心中に、何かこう抜けた感じはちょっとして、その次の独参で「在家のままでもいいし、出家してもいいし、現代に即応して、法を説いていって下さい」と仰いました。私は、師家になりたいと言ったことはないんですけれどもね。1989年のことでしたね。その年に天安門があって、ベルリンの壁が崩壊したのでよく覚えていますね。自分と世界を隔てた自意識壁が全部抜け落ちて、本来人間の有り様というのはこういう存在だったんだっていうことですよね。ここにしか本当の平和はないんです。涅槃寂静というのは、絶対平和ということですよね。生と死の対立を超え、ひとつもんなんだっていうね。仏教では平等といってますけどね。平等とは元々仏教の言葉ですからね。平等だけがあって差別がないということも、差別だけがあって平等がないということもないわけです。この二つが円融しているわけです。しかし、近代の世界観では差別しかないわけですよ。平等がないわけです。人間の有り様を超えるためには、経済の面で言えばベーシック・インカムですし、環境問題で言えばディープ・エコロジーなわけです。そういう関心の元に、現代に相応しい法の伝え方をしていきたいと思っています。


二〇一四年一月二九日 千葉県大多喜にて








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