大乗仏教の原像

大乗仏教の原像

ガンダーラ菩薩像(國學院大學所蔵)
紀元1~2世紀、シルクロードの要衝の地、現在のアフガニスタンとパキスタンに跨る地方で、ヘレニズム文化の影響を受け、菩薩の姿を彫刻することが始まり、仏教史上類のない石造彫刻群が生まれた。

大乗仏教の勃興が在家の仏教徒によって為されたという説を裏付けるかのように、この菩薩像は坐禅中の姿ながら、頭上に宝冠を着け、装身具で身を飾り、左手に宝瓶を下げて立ち、両手で説法印を組む。

勃興

初期の経典に「仏滅後五百年」という言葉があるが、およそ紀元前後の頃、ブッダダルマの衰退に危機感を抱いた少数の異端者たちによって興された「革新ー原点回帰」の運動が、大乗仏教であった。

ゴータマ・ブッダの入滅から100年くらいたった紀元前3世紀頃に行われた仏典結集の会議で、ヴァイシャリーの出家者たちが、戒律に関する10項目について、緩やかにすべきであると主張して対立、保守的な上座部と進歩的な大衆部に分裂した。(これを「根本分裂」と呼ぶ。)

それ以降も、教団は分裂を繰り返し、部派仏教(いわゆる小乗仏教)の時代に入る。
伝統的・保守的な部派では、教義の緻密な体系化という瑣末主義に陥り、しかも、男性の出家者を中心とした厳格な出家主義のもと、隠遁的な僧院仏教という傾向を強め、煩瑣な教理の研究と修行に明け暮れ、遂には民衆と遊離し、ほんらいの生命力を失うに至る。

部派仏教の中でも、カシュミールを中心とした西北インドで勢力を振るっていたのが説一切有部であったが、そこでは保守的・権威主義的な傾向をいっそう強め、在家や女性に対する差別が始まり、説一切有部の論書では、釈尊の言葉に仮託して、「私は人間ではない・・・ブッダである」「私をゴータマと呼ぶものは、激しい苦しみを受けるであろう」とまで語られるようになった。

現代でも同じであるが、組織の力学は教団維持のために働く。ほんらい、出家や在家、男女の別なく仏弟子を意味する「声聞」から在家や女性は排除され、小乗仏教の出家者のみをさす言葉に限定された。ここには、在家に対する出家の優位を図ろうとする意図が、明らかに見え隠れする。

同時に、彼らはブッダを人間からほど遠いものとするとともに、出家者の修行の困難さを強調する。家族を持ち、生業に従事する在家の者には、真の自己に目覚め「ブッダ」になることなど、とうてい及びもつかないものだと。

「歴劫修行」、つまり途方も無いほどのはるかな時間にわたって何度も生まれ変わり、大変な修行を重ね、はじめてブッダに近づくことが可能となる。しかし、近づくことができるだけで「ブッダ」になることはできず、ようやく阿羅漢果に達するのみだと。ましてや在家は、阿羅漢にすらなれないとされた。

紀元前後に興起した大乗仏教は、仏の教えを仏弟子として学ぶだけの小乗仏教の自利の修行に飽き足らず、ブッダと同じく菩薩行を修してブッダの覚りを得ること、人々に対して利他行を貫くことを理想とする、民衆の間から興起した運動であった。

その運動は、当時の形骸化した独善的な仏教のあり方に疑問をもち、ゴータマ・ブッダの教え帰ろうとした人々が、自らもゴータマ・ブッダの覚りを追体験することを目指し、みずから得られた「さとり」をゴータマ・ブッダに託して、大乗仏教経典を製作するところから始まった。おそらく、自ら「ブッダ」になったという自覚と使命感をもった人々が、当時の民衆の中にいたはずだ。そのような真摯な無名のブッダたちが経典を書き、内容的にも洗練深化し、弘めていったのだろう。

彼らは、ゴータマ・ブッダ強く慕い、禅定修行に励んだであろう。そして、同じ悟りの体験を得たはずである。そうすると、時空を超えた普遍のものである「悟り」の智慧は。ゴータマ・ブッダの修行時代から、ゴータマ・ブッダの心の深奥に内在していたことが、明確に知られたはずだ。

仏滅後間もなく、すでに過去七仏が説かれているという。つまり、ゴータマ・ブッダが悟った真理が普遍的なものであるならば、すでに過去にもゴータマ・ブッダと同じ悟りを得て、ブッダになった人があったに相違ないと考え、過去仏が説かれたのだ。

同時にそれはゴータマ・ブッダのみならず、すべての人びとに心の奥にも同様に、悟りの智慧が存在していることが体得される。その智慧は、ゴータマ・ブッダが成就した「悟り」そのものと寸分の違いもないもの。初期大乗仏教の担い手たちは、このことを確証するとともに、あらゆる人びとに伝えようとして、大乗仏典を編み出した。

ただ、ここで注意しなければならないことは、大乗の菩薩たちは、それまでの仏教をすべて否定したのではない。彼らは、自分たちこそがゴータマ・ブッダの真意を体現しているという深い自覚のもと、それまでの教理のことばを換骨奪胎し、新しい経典を創作したということだ。

最初期に成立した大乗経典が、なぜ般若経典群でるのかは、以上のようなことから明らかである。「般若」(はんにゃ,prajñā,プラジュニャー)とは、ゴータマ・ブッダが菩提樹下で悟られた智慧のこと。ことに、大乗仏教が起こってからは、般若は大乗仏教の特質を示す意味で用いられ、分別的な「智」に対し、諸法の実相である空と相応する無分別の「慧」とされる。

「釈尊の悟りの真実である般若の意味を世間に広めようとしたからです。その理由は、大乗仏教に先立つアビダルマ仏教で般若の真の意味が失われたと考えたからであろうと思います。」

平川 彰「仏教入門」p7

 

そもそも、大乗(Mahā(偉大な) yāna(乗り物))という語は、「般若経」の中にで初めて表れ、摩訶衍(まかえん)と音写される。一般的に大乗仏教の運動は、『般若経』を編纂し、護持した教団が中心となって興起したものと考えられている。

大乗仏教の興起を担ったものがどのような人たちなのか、いまだ定説はないが、わたくしは在家者が中心なり、それに真摯に法を求める少数の出家者が連帯したのではないかと考えている。学者は文献がなければ何も言えないが、例えば、大乗仏教の時代になり作られるようになった仏教彫刻を見れば、それは明らかだ。

今日、菩薩像して伝わっているガンダーラやマートゥーラの菩薩像は、そのほとんど有髪であり、足や腕、耳には装身具をまとっている。当時の有力な在家者をモデルとしたものに違いない。出家の姿をしているのは、わたくしの勉強不足かもしれないが、地蔵菩薩のみだ。今なお、禅堂では智慧を象徴する「文殊菩薩」をお祀りすることになっているが、「僧形文殊菩薩像」というのは、いかにも苦しい。

比較的初期の代表的な大乗経典である華厳経に登場する善財童子は、五十三人の善知識を訪ねて求法の旅を続ける。そこには、さまざまな階級の老若男女が登場する。

 

「一口でいえば、その時代すでに、仏教があらゆる階層の人たちの間に弘まっていたということでしょう。それからもうひとつは、大乗経典が専門の出家者だけでなしに、在家の人たちの中にも修行して深い悟りを得ていた人たちがいたことを示していると思いますね。そうした人たちの中には女性もあれば、階級の低い人もあったんだということでしょう。」
平川彰「大乗仏教」p119-20

 

また、法華経の中に登場する「常不軽菩薩」は、大乗仏教の勃興期に彼らが置かれた状況を現している。初期の菩薩たちは、多くの社会的な迫害や非難を受けたであろうことが想像される。六波羅蜜の中で「忍辱」(耐え忍ぶ)ことが修行の徳目として強調されるのも、そのような背景を抜きにしては考えられない。

 

*大乗仏教における在家の復権

初期仏教において、在家の地位は決して低く見られることはなく、男女はもちろん、出家在家の間にも差別はなかった。大乗仏教は、小乗仏教の時代に低められた在家の地位を復権させるものでもあった。

植木雅俊氏は、このことを最古の経典「スッタニパータ」に遡って検証している。以下、氏の見解を見てみたい。

「最古の経典と言われる「スッタニパータ」の偈(詩)の部分はアショーカ王以前、つまり部派分裂以前にまとめられたものである。そこには、在家を出家と同等に扱った表現がある一方で、在家を低く見る出家優位の考えの萌芽も見られる。

その変化のあらましをたどってみると、詩の中でも古いとされる134偈には、

「目覚めた人(ブッダ)を謗り、あるいはその仏陀の遍歴行者(paribbajam)や在家(gahattham)の弟子(savakam,仏弟子)を謗る人、その人を賤しい人であると知りなさい」

といった釈尊の言葉が見られる。

ここでは、遍歴行者という言葉で示された出家者と、在家者が、ともに等しく「ブッダの教えを聞く人」、すなわち仏弟子と見なされている。仏弟子とは「仏の教えを聞く人」のことで、「声聞」と漢訳された。それは、本来は在家と出家をともに含んでいたのである。

在家者(grhastha)という語は、第90偈にも見られる。その直前の第89偈において、釈尊はます、「ずうずうしくて、傲慢で、しかも偽りをたくらみ、自制心がなく、おしゃべりでありながら、いかにも誓戒を守っているかのごとく、真面目そうに振る舞う出家修行者」のことを「道を汚す者」と述べた上で、第90偈において、

 

「智慧を具えた聖なる弟子である在家者は、彼ら(道を汚す出家者)のことを洞察していて、「彼らは、すべてそのようなものだ」と知っているので、以上のように見ても、その人の信仰がなくなることはないのだ」

 

「道を汚す出家者の言動を見ても少しも紛動されることもなく、自らの信仰を見失うこともない在家者のことを、「智慧を具えた聖なる弟子」と言っていることは注目すべきである。

植木「維摩経」解説 p637

 

では、大乗仏教では「出家」を、どのように考えていたのだろうか。

初期の大乗経典を代表する「維摩経」に、出家のあるべき姿が説かれている。

 

「出家することは無為であり、無為には功徳もなければ称賛もないのだ・・・出家ということは・・・他人を害することがなく、悪い法と混じり合うことのないものであり、外道を打ち破るものであり、言葉によって概念を設定すること(仮名)を超越するものであり、泥沼における橋であり、世間的な執着がなく、我がものという執着を離れていて、受納することがなく、執着を離れていて・・・自分の心を凝視し、他者の心を守っていて、(禅定による)心の静止に随順しており、あらゆる面において非難されるべきではないものである。これが、出家と云われるのだ。このように出家するところの人たち、それらの人たちが立派に出家した人たちなのである。」

 

また、出家することを両親が許してくれないという者に対しては、

「この上ない正しい覚り(阿耨多羅三藐三菩提)に向けて心を発し、修行によって完成するがよい。あなたたちにとって、それこそが出家することであり、それが具足戒を受けることであろう」

これは、それまでの小乗の出家の在り方を根本から覆すものである。それによると、受戒の儀式や、頭を丸め、袈裟を着るという形式よりも、「この上なく正しい完全な覚りに向けて心を発す」ことこそが問われるというのだ。
さらに、維摩居士とゴータマ・ブッダの息子であるラーフラの問答には、

「そうです。きみたちが無上の悟りを求める心を発したなら、それがすなわち出家なのです。それがすなわち戒律を身に受けることなのです。」とある。つまり、出家とは家族や家庭を捨てる、とっいった形式のことではなく、何より菩提心を発することであり、在家であっても出家たり得ることが主張される。

「覚り(bodhi)を得ることが確定しているもの(sattva) という意味で、小乗仏教徒が使っていた「菩薩」(bodhi-sattva)という言葉を換骨奪胎し、「覚りを求める人」と読み替え、出家や在家の区別も性別や階級も関係なく、覚りを求めるものはだれでも菩薩であり、六波羅蜜の修行によれば、すべての菩薩がブッダの智慧を得ることができるとした。

「ブッダ」ほんらいの教えが、少数の特別な集団の独占物から、普遍的なほんらいの「ブッダダルマ」の道へと解放されたのだといっても良いであろう。つまりそれは、ブッダの悟った自由と平和の教えを、自らのみのこととせず、より多くの人々に伝え、共に道を歩もうと決意することに他ならない。

大乗仏教におけるサンガー現前サンガと四方サンガ

大乗仏教では現前サンガは結ばなかった。菩薩ガナは、きわめて枠組みのゆるい開放された集団であった。
組織論として、なぜそのような有りようを撰んだかといえば、それまで小乗のサンガが分裂を繰り返し形骸化していく弊害を見ていたからに違いない。

大乗仏教の菩薩たちは、この根源的宗教共同体の一員として生きることを目指したがゆえに、却って現前サンガを否定したのではないだろうか。

 

仏立像(ガンダーラ、1-2世紀)。東京国立博物館蔵。

錯覚なのかも知れないが、この仏像の右足が少し前に出ているように見える。

立像であることの意味ー大乗仏教。

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