独参について

ekadanpizu独参とは
 

 独参は、坐禪の中で感じたこと、疑問に思った事等を老師に尋ね、正しい工夫が出来ているかどうかを、確認する場所です。分からないことや、疑問を持っていたりすると、坐禅の妨げになります。

  今回、肉親の死という、人間の避けがたい悲しみを抱えて、参禪に来られた方がいたからでしょうか、悩みを抱えていても、坐る時の妨げになりますので、そうした荷物を下ろす意味で、悩みを持たれている方は、独参の場でその荷物を下ろしていってください、と老師は独参の前に話されました。

独参は、今回新しく建てられた独参用の建物で行われました。この独参の建物も、老師と参禪者の手によって基礎の段階から建築したものです。 老師がその独参の建物から鈴を鳴らすと、参禪者が一人ずつ、禅堂の土間においてある鐘を二回叩いて、独参へ向かいます。 独参から戻られた女性の参禪者の方が涙を啜られていました。 参禪者の方も様々な思いを抱えて、参禪されているものと思います。

独参の作法は、入り口で一拝、老師の前で一拝、終わりに一拝、五体倒地で額を床に付けて礼拝します。本来は三拝ずつですが、時間がかかる為一拝ずつということになっています。

独参の室内でのことは、人に話しても、聞いてもいけません。

独参は、摂心の中でも非常に重要なものです。

独参の場でのやりとりは、参禪者一人一人に即したものであり、人によって全く違った指導の方法を取り得るために、独参の室内での話は、自分と他人の独参を比較して坐禪の邪魔にならないように、決して人に話しても、聞いてもいけないことになっていますが、独参の雰囲気については、紹介しても構わないとのことでしたので、ここで少し述べさせていただきます。

老師の前で礼拝を済ませた後、姿勢と呼吸を整え、自分の坐禅の方法、随息観であれば、随息観(数息観に参じていれば、数息観)に参じております、といいます。  独参の場は単なる言葉のやりとりの場ではありません。そこで伝わるのはむしろ言葉ではないものです。

礼拝を済ませ、姿勢と呼吸を整え、目を上げ老師の目を見た途端、空気の密度が変わっていくのを感じます。その空気の密度が、自分の意識に浸透していき、自分の中から言葉が閉め出されていくのを感じます。

独参に向かうにあたって、今日の坐禪で感じたこと、疑問に思ったことを考えていくのですが、坐禪によって定が深まっていると、口を開いてもその空気の密度の中に、言葉が音になる前に消えてしまうように感じます。

頭に言葉があっても、なかなか言葉を出すことが出来ません。非常に時間がかかることがあります。 その空気の密度の前に、言葉、そして言葉を基にした言語認識、思考というものがあまりに表層であり、限界があるかを感じます。かなりの困難を感じながら、自分の坐禪についていくつかのことを述べます。

そのことについて、老師からいくつかの指摘と話があります。 独参は短く終わる時もあれば、長く何も話さないままの時もあります。坐禪が深まってくるほど、その沈黙がいかなるものであるか、伝わってくるものであるように思います。

以上は朽木学道舎摂心会7日間坐禅体験記より

 

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