ある青年僧の大悟、そしてその後の身心脱落

(※2016.11.6 「Ⅱ.その後」を追記)


私の参禅記

目次

Ⅰ.
学生時代
音楽
僧堂
独りで
飯高転石老師
朽木學道舎
提唱
独参
大多喜學道舎の接心から、その後
最後に この道を歩まれる方へ

Ⅱ.その後
転た悟れば転た忘れよ
この縁を生きる
夜坐の祈り
身心脱落
帰りつくところ
おわりに



Ⅰ.

学生時代

「一体なぜ、何のために人は生きるのか」
中学生ぐらいからだろうか、このことが疑問であった。幼少期や青年期に、誰しも一度は感じるような素朴な疑問だろう。大抵の人は、日常に埋没して、この疑問を忘れる。
身近な人が心の闇の中で苦しんでいるのを見ていたためか、いつもどこかに、この不思議な疑問があったように思う。

寺に生まれ育ったとはいえ、仏教にはまったく興味がなかった。むしろ、正月の法要に無理やり出頭させられるのが嫌で、トラウマだった。大学もわざわざ宗教色の無いところを選んだぐらいだった。

音楽

そんな中、音楽やギターと出会う。
とくに高校から大学の間は、全エネルギーを注いだ。

言葉そのものに非常に懐疑的であった。自分の感情を的確に表現できる言葉が、無かった。言葉にならない思いを楽器にぶつけ、無我夢中で演奏しているときだけ、なにか唯一の救いを感じていた。

学校にもろくに行かず、音楽漬けの日々。夜はアルバイトをして、お金はすべてバンドの活動費に充てた。

「なぜ、人は生まれてくるのか」
長い間、深い森の中を彷徨っているようだった。

また、師事していた先生にも、とても影響を受けた。ストイックな世界。深夜のセッションに通いつめ、やがて仲間も出来る。とても居心地が良かった。
この人たちと、命を燃やし尽くすような生き方がしたい。真剣にそう思った。

京都のブルーノートというライブハウスで、市川修さんというジャズピアニストに出会う。演奏が本当に素晴らしく、とても繊細でいて破天荒、人柄も含めて、私のジャズのイメージそのものの人であった。やがて、市川さんのバンドの前座として、ライブ出演することに決まった。

ますます楽器の練習に力が入る。一日10時間程度は、練習に費やしただろう。しかし、ライブを直前に、市川さんが突然亡くなった。

市川さんの葬儀は、キリスト教形式の音楽葬だった。京都では初めてのことだそうだ。生前縁のあったミュージシャンが集まり、棺の前で演奏を続ける。皆でアメージンググレイスを合唱する。
神父さんが、生前の市川さんの言葉として紹介された言葉がある。

「まるい心で音楽がしたい」

そして、いよいよ出棺の時。マーチ隊が「聖者の行進」を吹き鳴らしながら、棺を霊柩車まで導く。ついに霊柩車の前まできた棺を、ワッショイワッショイと担ぎ上げながらの拍手。全員泣いていた。私も泣いた。家に帰っても、一人でずっと泣いた。泣きながら楽器を弾いた。

「人が生きて死んでいく。喜び、苦しみ死んでいく。一体、これは何だ。」

その後、いよいよ狂ったように楽器に噛り付く日々。いつしか、音楽の仕事もいくらかお金を貰えるようになった。お粗末ながら、セミプロのようになっていた。プロになりたいわけでもなかったが、他には何も無かった。あらゆるエネルギーを、音楽につぎ込んだ。だんだん、ほとんど笑わなくなった。

しかし、それと並行して、家族の状態もいよいよ危なくなってきた。このままでは、身内の誰かに何があってもおかしくない、良からぬイメージが頭をよぎる。仏教にも、僧侶の仕事にも、興味はなかった。自分から音楽を引くと、何もない。葛藤。

「まるい心で音楽がしたい」頭の中で、その言葉がリフレインされる。

「まるい心」何かは分からないが、それが欲しい。

結局、最後はジャズマンが残した言葉で、修行に行く決心がつく。
この自分の抱えている問題の解決の糸口が、見つかるかも知れない。
そんなかすかな期待も、実際にはあった。

何にせよ、家族を守るためだ。とりあえず資格を取りに行こう。
そう割り切ることにした。

僧堂に行く二週間前まで、ライブを続ける。最後のライブ。見に来てくれた人は「鬼気迫る演奏だった」と言ってくれた。それまでの自分が終わった。

僧堂

僧堂の生活は、変な言い方だが、楽だった。もちろん、肉体的には大変な面も多少はあるにせよ、それまで自分が見て感じてきた人の生きる苦しみから見れば、本当に些細なことだった。
園頭(えんじゅう)という畑の係りを任されたときは、喜んでやっていた。音楽から離れて、何かを生み出す喜びに飢えていたのかもしれない。

だんだん仲間と笑えるようになった。身体をしっかり使う生活の心地良さも、学んだ。僧侶としての基本的常識を教えてもらった。行って良かったと、今でも思う。

仏教や禅の知識がゼロの状態で僧堂に入ったので、そもそも修行とは何を目的としているのか、最初は分らなかった。厳格なルールに従って生活し、沢山の公案をケーススタディのように学ばせ、禅的感性を身につけさせる。実感としてはそんなものだと受け取っていた。

禅的なものの見方、こんな時はこう判断する。直観で反応する。坊主らしく振舞う。だんだん分かったような気になる。石の上にも3年か、次第に所作も身に付き、それらしく振舞えるようになる。
ジャズマンが、坊さんになっていく。

公案が進めば、境涯が進むそうだ。この僧堂では、公案を数え終わるまで、20年くらいかかるという。さすがに、それは自分には出来ないと、素直に思った。しかし、公案の見解というものはさすがよく考えられていて、それまでの人生の経験に公案をあてはめたり、もしくは自分を追い詰め、ギリギリのところで見解を出したりすると、ピッタリといく。

なかなか面白いものだなとも、思い始めていた。そしてだんだんロジックが読めるようになっていたので、どんどん進んだ。
一年上の先輩も追い越していた。私のペースは、過去10年では最速なのだそうだ。坐禅の深まりも実感する。このまま修行を続ければ、自分の擬団を解決出来るかもしれない。
ただの資格取りのつもりが、いつしか己事究明になっていた。

真面目に修行していれば、公案に対しての疑問が生まれる。このまま公案を数えこなしていくことが、本当に修行なのだろうか。なにより、自分の疑問それが解決できなければ、どれだけ公案が透っても嘘だ。

この世界では、僧堂にいる年数が名刺代わりのようなものだ。長ければそれだけで、ある程度の尊敬を集めることが出来る。同夏(どうげ-同期の入門者)は、周りの人に認められるようになりたいから、もっと年数が欲しいという。長くいると、信者さんからも褒めそやされる。後輩も言うことを聞く。老師からも一目置かれる。

確かに心地よいと思う。しかし私には、なんだかそれが茶番に思えた。それより、自分の問題を解決したかった。そして同時に、家族のことも気になっていた。

坊主のくせに情けないと思われるだろうが、大変な状態の家族をほったらかしにしてまで、僧堂に長居しようとは、なかなか思えなかった。もう少し安心して僧堂にいられる状況であれば、その時の考え方も違っていたかもしれない。結局は、その人の縁だと思う。

自分の修行願望を捨てようと思って、僧堂を出ることにした。家族がもう限界だった。とりあえず自分に与えられた人生を、精一杯生きようと思った。修行の成就はきっと自分には縁が無いのだろうと、自分に言い聞かせた。

実は、ここから本格的に仏道に深く踏み入ることになる。縁というのは本当にどう繋がるか分らない。結局、どこにいても釈迦の掌の上で踊っているようなものなのか。

独りで

僧堂を出てからも、仕事をしながら独りで坐禅を続けていた。別に、真面目な禅僧らしく務めようと思っていたわけでもなく、ただ坐らないではいられなかった。しかし、独りで坐禅を続けるのもなんとも心細く、また、手応えもあまり感じられなかった。それでも、坐禅は辞めなかった。

2011年3月11日、東日本大震災

被災地に行く。
何も言葉がでなかった。

人の人生というのは、本当に儚い。自分もいつどうなるかなんて、分らない。この先、自分が社会になにか出来ることは無いか、真剣にそう思うようになる。介護の資格を取得するなどして、実際の現場に出る。家族の介護も出来るようになる。人が簡単に死んで、確実に老いていくことの現実を見る。

そんな中、印象的な出会いもあった。チベット仏教のパトル・リンポチェと、直接話す機会があった。日本の仰々しい僧侶とは違う、やわらかい雰囲気。包み込まれる。

リンポチェ曰く
「坊さんは、心の医者です」
「ああ、本当にそうだといいのに。」と、私も思った。

その後、多くの人との出会いを重ね、様々な活動を通して学ばせてもらったが、いつもどこか「仏教による救いって、結局あるのだろうか」という疑問が、引っかかっていたように思う。いずれはこのことに決着をつけないと、自分は何も出来ないだろうと感じ始めていたこともあって、仏教について積極的に学ぶようになる。

禅の語録や仏教関係の本を乱読し、大学の講義や勉強会にも顔を出した。
仕事柄、色々なお師家さんにも会って、直に話を聞くチャンスもあった。他宗派やテーラワーダ、チベット仏教、ティクナット・ハン、ラマナ・マハルシ、クリシュナムリティ、ヨガ、東洋医学。なんでも手を出した。

「何ものにも左右されない真実なんて、本当にあるのだろうか」

現在の公案の取り扱いに疑問を感じていたので、また僧堂に通参する気持ちにはなれなかった。臨済宗にも「悟りなんかない。」というお師家さんが結構おられる。悟りなんかないって、そんなに頼りないものなのか、いよいよ思いつめるようになっていった。

あるとき、原田雪渓老師の本と出会う。言葉が刺さる。直観的にこれだと感じる。間もなく朽木學道舎と飯高老師の存在を知った。居士の方だという。文章を読むと、非常に惹かれるものを感じる。

いちおう自分が臨済宗に属していることもあって、少しは考えた。通参してもきっと周りには理解されないだろう。調べてみると、かつて臨済宗の青野敬宗老師という方がいて、本当の決着をつけるために井上義衍老師(原田雪渓老師の参禅の師)の元に参じられたという。求道者としての真摯な姿勢に強い共感を覚える。もう気持ちを抑えることのほうが難しかった。

「本当のことを知りたい」

もう、それだけだった。
相見を願い出て、会いに行くことにした。

飯高転石老師

川沿いに車を走らせ、朽木に向う。
なぜだろう、山に入って行くことそれだけで、人の心を静かにさせる。やがて、茅葺の屋根が見えてくる。「朽木學道舎」と書かれた看板が見える。

玄関に近づくと
「どうぞ、お入りください。」と作務衣を来た男性が出てこられる。少し緊張する。

飯高老師は、物静かな中に力強さを秘めたような、たくましさを感じる方であった。今まで出会ってきたお師家さんとは雰囲気からして全く違う。何というか、構えのない自然体。演じていない。

挨拶も早々に、単刀直入に

「悟りって本当にあるのですか。」

穏やかな声で、それでいて力強い答えが返ってくる。

「それが無ければ、仏教なんていえませんよ。」

ああ、この人は本物だな。直感がそう教える。自分の疑問を次々にぶつけてみる。

「もちろん公案そのものに問題があるのではありません。現代の公案の取扱い方に問題があるのです。どうしてこんな風になってしまったのか。」

お茶を淹れて下さったのにも気がつかず、夢中で食らいつく。気が付けば2時間が過ぎていた。よし、この方しかないな。通参させていただけるよう、その場でお願いをする。

「余程のことが無い限り、誰であろうと参禅は引き受けています。全て法の人ですから。ここを始めて10年程ですが、あなたのような方が来られるとは思ってませんでたね。」

僧堂のように、修行している姿を誰に見せるわけでもない。誰に褒められるわけでもない。もちろん、宗門の中では認めらない。公案カリキュラムのように、修行が進んでいる気にさせてくれるような目安もない。いったい何年かかるのか、皆目、検討もつかない。

一生参學の大事に決着をつける。ただそれだけだ。
果たして自分に出来るのか。でもそれがしたかった。

朽木學道舎

初めて朽木學道舎を訪れた時、いっぺんで好きになった。茅葺き屋根の古民家を改築した禅堂、目の前を流れる川、鳥や獣、虫の声が響く。この深い山の中にいるだけで、満たされていく。

全国各地から修行のために集う参禅者。年齢や職業も様々で僧侶もいる。臨済、曹洞だけではなく、他宗派からも来るそうだ。摂心の定員は、最大でも15人ほどが限界とか。

参禅者はみな、本当に真剣そのもので、顔つきが違う。専門道場ですら、なかなかこれほどの清浄な空気感にはならないだろう。修行はどこまでも自分の問題だ。しかし、修行する場所や共に集う仲間の力は、非常に大きい。

ダルマサンガの摂心では、一切の私語が禁じられているので、誰も一言も話さない。他の参禅者には摂心でしか会う機会がないが、不思議な連帯感を感じるようになる。

また、通参による摂心の良さは、日常を切り離した環境で、徹底して坐禅に打ち込めることだと思う。なりふり構わず坐禅が出来る。これほど有り難いことはない。それを受け入れてくれる老師がいて、場所があり、真剣にダルマを探求する仲間がいる。現代に理想的なサンガだと思う。

私の場合は、摂心に通うにしても仕事の都合上、日程の確保が難しく、やっとの思いで参加するも、せいぜい1泊か2泊が良いところだった。これはなかなか歯がゆい思いがした。仕事が忙しくなり、数か月空いてしまうこともあった。日常の坐禅すら出来ないほど、忙しい日も沢山あった。

こんなペースでは10年20年かかっても何にもならないのではと、そんな不安もあった。それでも仕事を続けながら朝晩坐禅をし、何とか時間を捻出して、摂心に通った。

他の参禅者の方もそれぞれ事情はみな異なる。一年に一度しか摂心に来られないような人もおられると聞いた。色々な事情を抱えながらも、自分の置かれた場所で精進され、やっとの思いで摂心に通っている人が、自分以外にもいる。このことも、大きな励みになった。

提唱

飯高老師の提唱は、本当に素晴らしい。
毎回、ほとんどアドリブで話されるそうだが、紡がれる言葉一つ一つが美しく、力強く、参禅者の心を揺さぶる。
臨済宗、曹洞宗という括りもなく、原始仏教やチベット仏教、時にはラマナ・マハルシまで登場する。自由自在。本当に法を説くということはこういうことだったのかと、毎回感動させられる。今まで、これほどの提唱・法話を聴くことはなかった。提唱を聴くことで、さらに修行のモチベーションが上がっていったように思う。

独参の指導法、只管打坐と公案

独参とは個人指導、法戦の場である。ここでの独参は、現在の臨済宗で行っているような公案カリキュラムは使用しない。基本的には、只管打坐を中心として、独参で参禅者の様子を見ていく。

こういった指導法は、井上義衍老師をはじめとして、原田雪渓老師からの家風のようだ。参禅者は、自分のいまの状態を正直に持っていき、疑問があれば些細な事でも質問するのが良いだろう。坐禅中、あるいは日常に起こる実に微弱な変化でも、丁寧にみていくことが大切だ。
老師も参禅者の様子を見て、ずばり見抜かれる。

もちろん、公案を軽ろんじるものではない。もし、自分にとって本当の公案に出会う機縁があれば、それに参じるのも良い方法だろう。しかし、形骸化したカリキュラムをなぞる様な取り組み方でなく、ただ一つの公案に対して徹底して取り組むことが大切だ。しかし歴史的に見ても、公案は後から作られたもので、あくまで只管打坐が、禅の修行の基本のようだ。この点については、明治大正昭和を通じて活躍された飯田トウイン老師(井上義衍老師の参禅の師)も、著書の中で言及されている。

何より本当の公案というのは、自分にとってどうしても捨て置けないような大擬団である。どれだけ忘れようとしても、湧き上がってくる疑問。それがその人にとっての本当の公案である。

その上で、もし古則公案を用いるにしても、公案が提起する問題が本当に自分のこととしてリアリティを持つならば、その公案は生きている。
「参は須らく、実参なるべし」である。

現在の臨済宗での公案の取り扱いはこれとは異なり、とにかく数を次々とこなして、先へ進めるのみになってしまっている。なかなか解けない時には、老師がヒントや答えを教えてくれることもあるかもしれない。それぞれの公案の進行状況や独参の内容まで公開して、雲水同士で競争させているような僧堂もあるように仄聞する。

雲水も自分の公案の進み具合が励みになるようだ。境涯が進んでいくような気持ちにはなれるだろう。そして順調に公案カリキュラムを最後まで終えると、大事了畢とされる。

白隠禅師本来の意図は、初関としてよく使用される無字や隻手、また他の公案でも良いが、まずは一つにじっくり取り組ませることが前提ではなかっただろうか。無字ひとつで決着をつけられた大森曹玄老師は有名だ。

もし、現在どこかで公案修行をされていて、何か疑問を持つようなことがあれば、一度真剣に考えてみる必要があるのではないだろうか。

そもそも、白隠禅師は正受老人の元でどんな御修行をなされたのだろうか。臨済禅師の御修行はどうだったであろうか。六祖慧能禅師や道元禅師など歴代の祖師方、そして、釈尊はどのようなお心で御修行されたのであろうか。

これから真剣に参禅する方に、あえて何か申し上げることがあるとすれば、法と修行に対しどこまでも誠実であるということが、とても大切な態度だということ。そして自分を誤魔化さないこと。なぜなら、参禅とは師に参ずるのではなく、己に参じるということだからだ。

もしその気持ちがあれば、只管打坐も公案も結局、最後は一つのものになる。そして只管打坐に参じていても、あるところで必ず臨済宗の公案の意図するところや、『臨済録』などの語録の内容なども手に取るように理解出来るようになる。そもそもダルマそのものに臨済、曹洞などの違いがあるわけではない。
大切なのは手段ではなく、自分自身がダルマに目覚めることに他ならない。

独参の内容はあまり詳しくは書けないのだけれど、ここから私の参禅の様子を少し紹介させていただきたい。言葉に出来ない体験を言葉にすること自体が憚られるが、これから修行される方にとって多少なりとも励ましになれば幸いだ。

独参

僧堂でついた癖であろうか、目上の方に視線をぶつけることを、無意識に避けていた。ある時の独参中、どうしても伏し目がちであった私に、老師は

「わたくしの眼を見なさい」と言われた。

静かに視線を上げると、老師の真剣で厳しさ溢れる顔。射抜くように真っ直ぐに私を見つめる目。これほど強く、真っ直ぐな目を、かつて見たことは無かった。

「共に在る、ということが大切なのです。」

心底震えそうになった。正師だ。このとき確信した。長い偏参がやっと終わった思いだ。少し目頭が熱くなった。

そして老師は力強い口調で
「あなたの全てを捨てなさい。これだけはどうしてもというものこそ捨てなさい。」と。

短い接心を終え、日常に戻った。
あの言葉が、脳裏にずっと引っかかっていた。

(捨てるといっても、何を捨てればよいのか。特に執着しているモノも思いつかないし。あとはもう・・・。)

数週間、悶々と過ごした。まさに生きた公案だった。本山でいつものように仕事をしていて、ふと子供時代を思い出した。

(子供の頃、まさかこれほど仏教に苦しめられるとは思ってなかったな。あの頃、ここはただの遊び場だったのに。)

そして法堂を見上げた瞬間、法堂はもう私の知っている法堂ではなかった。

「法堂は法堂でなく、法堂であった。」

法堂の伽藍(お寺の建物)も木も、道端の石ころも人も、それぞれが只、そのまま存在していた。特別なものなど何もなく、そして全てが特別であった。
全てに価値をつけられない、あるがままの世界。

翌月の接心に参加し、独参でこのことを告げた。
老師はしばらく黙って、何も言われなかった。
やがて口を開き、静かにこう言われた。

「非常に大切なところです。正しい功夫を相続していれば必ず透らなければいけないところです。

しかしそれを掴まず、忘れなさい。そして頑張って修行を続けなさい。」

大多喜學道舎の接心から、その後

一月は、大多喜の道場に参禅させていただくことにした。
ちょうど仕事の連休がとれたからだ。電車を乗り継ぎ、片道7時間の道のり。大多喜學道舎もまた、眼前に山が広がり、川に囲まれた素晴らしい場所にあった。
真新しい禅堂、昼間は陽の光にあふれた明るい食堂や宿泊部屋、本当に恵まれた環境で坐禅に没頭できた。

今回も、全日程の参禅はかなわない。三日後にはまた長い時間をかけて京都に戻り、仕事をしなければならない。秋から正月までの仕事も忙しく、ここ数か月、まともに休んだ記憶がない。しかし、得難い法縁のおかげで修行できることの有り難さを感じる。疲れ以上の充実感。

それにこのところ、坐禅をして確かな手ごたえのようなものを実感し始めていた。ようやく、功夫の要訣を身体で理解し始めていた。そうなると、徐々に坐禅をしていない時の坐禅が出来るようになる。仕事中などでも、無意識の中で常に功夫をしているようになる。
だんだん「歩歩是道場」(ほほこれどうじょう)になる。

接心の途中で帰らなければいけない私のために、下山前に老師が特別に独参の時間を設けて下さった。こんなお心遣いが、本当に有り難い。

「自分にとってどれだけ素晴らしいような体験が起こったとしても、またそれが悪いような体験であっても、一切掴まないように。全て捨てていくように。」

こうアドヴァイスをいただいて、帰る。

帰りの電車の中でも、ひたすら功夫三昧。気がつくと、電車を乗り間違え、反対方向に。結局、指定席がとれずに立つはめに。なんだか目茶苦茶になっていく自分が情けなくて、笑いたくなる。

なんとか京都に帰り着き、翌日の早朝から、仕事が始まる。本山の仕事や自坊の作務。夕方から時間が空いたので、坐禅。接心の延長のつもりで坐る。1炷1炷、全力で坐るも、疲れからか、気持ちが少し落ち着かない。

その日の夜、また1炷を坐り終え、なんだかもう経行をするのも面倒になり、そのまま足を組み換える。坐禅に入ろうとしたその刹那、身体が世界に溶け、全て丸ごと消え失せる。

只驚く。世界もこの身体も何も無い。
「無い」も無い。無の根源。意識だけが鮮明。外の道路を車が走っていたのだろう、自分の身体の中を、車が走っている。

1時間近く続いただろうか。徐々に感覚が戻ってくる。
全ての存在がありありと存在感を増し、そのまま互いに溶け合っている。
翌朝、鳥が自分の中で鳴いている。境内の中の橋を渡ると、下を流れる川が自分を抜けていく。

「こんなにもこの世界は豊かだったんだ。」

その二日後、坐禅中に意識が途切れる。はっと我に返ったとき、自分がいない。拍子抜けする。自分を見ていた「人」がいない。
周りを見ても、どこにもカタマリがない。自分も世界も縁そのもの、ただ一つ。
思いは思いのまま、意が意を扱おうとしない。坐る、立って歩く、手を動かす。それで終わっている。何も「自分」の知るところではない。全存在がすでに満ち足りている。何も求めようがない。

やっと自分に会えた。無位の真人。このとき、確信する。

老師とのメールのやり取り

「転た悟れば、転た捨てよ」

最後に この道を歩まれる方へ

最近は巷では禅ブームらしく、どこのお寺でも坐禅会が開かれている。大衆化の波に乗り、雑誌やTVなどで盛んに坐禅の宣伝をしているお寺も多い。この傾向は、今後も続くだろう。束の間の癒しや気分転換を求めて坐禅をすることも決して悪いことではない。それを契機に、さらに関心を持って下さる方も出てこられるかと思う。もちろん、寺院側の事情も同じ立場として理解できる。

しかし、真剣にこの道を志すような方にとっては、その熱意が本物であればあるほど、危険を孕んでいる。何も分らないまま、一生懸命やるうちに全くとんでもない方向に行く恐れがある。

私も飯高老師に出会うまでの長い間、深い森の中を地図もコンパスも持たずに駆けずり回っているようだった。老師に出会えたことは、本当に私にとっての転機だった。この道だけは、正師についてほしいと思う。

現在、老師は滋賀と千葉の道場を往復しながら、接心をされている。ダルマサンガには全国から参禅者が集う。ここでは出家や在家の区別、年齢や性別も一切問題にならない。これまで何人かの外国の方も来られたそうだ。みんな真摯にダルマを探求する人たちばかりだ。

もし、関心をもっておられる方がいたら、最初の一歩を踏み出してほしい。最初の一歩を踏み出せば、きっと縁は繋がると思う。私も随分遠回りしたけれど、結果的にこれで良かったと思う。これまでの縁にも感謝している。
そして出来れば禅宗の方々、特に臨済宗の若手には一歩を踏み出す勇気を出してほしい。

今年は臨済宗では栄西禅師の800年大遠忌、2年後には臨済禅師・白隠禅師の大遠忌法要が厳修される予定だ。報恩接心もそれぞれ執り行われる。多額の資金を投入し、大変立派なものになるはずだ。宗門も盛んに宣伝するだろう。私も宗門の中にいて、普段から開山様や歴代の祖師方の徳を慕い、お勤めさせていただいている。来たる大遠忌にも、携わることになるだろう。

しかし、敢えて私は自分に問いたいと思う。

「報恩とは、一体何だろうか」と。

私が妙心寺の報恩接心に参加した際に参じた、ある老師の言葉が忘れられない。この言葉を紹介して、私の参禅記を終わりにしたい。

「このことだけは覚えておきなさい。世の中には本物と偽物がある。偽物は数が多く、派手で目立つ。本物は少なくてなかなか表に出ず、目立たない。あなたはこの意味がわかりますか。そしてあなたたちには本物になってほしいのです。ただそれだけです。」

チリン。

2014年2月
合掌





Ⅱ.その後

1.転た悟れば転た忘れよ

「禅の修行には終わりがある。決定的な決着が必ずつく。」飯高老師にそう言われ、そう信じていたので大悟してからの修行自体に迷いはなかった。
でもどうしても大悟したという、法を知ったという「人」が残る。「知ったもの」に引っかかる。どれだけ捨てたと思っていても無意識に握っている。悟りも迷いのうち。「大悟して楽になった」ということについ腰をかけたくなる。悟ってしまったがために、特別な存在になった気になる人もいるんじゃないだろうか。だから、ここで修行が止まってしまう人が大勢いるらしい。原田雪渓老師の言葉にも「悟っただけの人ならいくらでもいる」と。インターネットに飛び交う様々な情報を見ればそれも頷ける。ある意味で危うい一面もあるように思う。
邪師は与え正師は奪うという。老師もいつもただ「それも忘れて下さい」「一切を捨ててください」「残念ながら近道はありません、ただ愚直に坐に徹するだけです」こう仰るだけ。何度もそう云われているうちに結局徹底して坐る以外の道はないのだと自然と腹が決まっていく。おかげで様々な変化や体験で手応えこそ感じていたけれど、大悟だ小悟だと数えて浮かれた気持ちにもなれなかった。もともと自分を誤魔化せない性格だということもあるのかもしれない。でも修行するうえできっと大切なことだ。
たとえ師匠から見性大悟を許されても、自分で自分を許せないうちは誰に認められても同じこと。正師に出会うまで遍参が必要なこともある。古人もそうやって自分に厳しく修行してきた。いや、それほどまでに切実だったのだ。
この修行が最終的にはどこに向かうのか。疑問もあったし老師に質問をしたこともあったが、結局は自分がそうなってみないと分からない。だから結局は自分で納得出来るまで「転た悟れば転た忘れよ」で、どこまでも修行を相続するしかない。

2.この縁を生きる

相変わらず接心はせいぜい一泊二泊がほとんどで、それも自坊と本山の仕事に追われながら、僅かに空いた時間をやり繰りしての参加。真の決着だなんてまだほど遠いように感じていた。
ちょうどその頃は仕事や家庭での責任や負担が急に増える時期だった。それでもなんとか毎日の坐禅は欠かさないよう心掛けた。体力、気力ともにギリギリの毎日が続き、体重も随分減った。実際体調を崩しがちな時期もあったが、坐禅を相続することで自分を保てていたようだ。禅喜法悦というのだろうか。苦しい時ほど、功夫の力に救われていると実感すること幾度で、それは時に深い喜びすら感じさせるものだった。
修行するうえで、仕事のことも家族のことも放りださないということは最初に決めていた。でも本来はこういうシガラミから逃れるための出家なのだろうと思う。出家の意義の一番の理由は、そのほうが修行に都合が良いということだと思う。
臨済宗のある老師にこんな話をされた。その方の就いた師匠は、お寺に自分の家族がある事情で困って訪ねてきたのに追い払ったそうだ。それが出家者としての正しい振る舞いらしい。真の出家者は故郷と縁を切り、親の葬儀にも出ないそうだ。その方はそのことを自分のことのように、なんとも誇らしげに言っていおられた。ご自身も在家から出家された方だ。どうだ、お前たち世襲坊主には真似できないだろう、ということだと思う。
「正しい振る舞い」ってなんだろうか。それは人に誇るようなものなのだろうか。自分の家族は「一切衆生」に含まれないのだろうか。世に忌み嫌われる世襲坊主には理解出来ないことなのかもしれない。けれど、もし身近な人、それも苦しんでいる人を蔑ろにすることが「正しい」のであれば、私には出家の美学なんか正直どうでもよいこと。私は一切を引き受けることを選ぶ。執着することと大切にすることとは違う。自立して生きるということは、自分の縁を丸ごと引き受けることだと思っている。目の前の人が苦しんでいるならば共に在ろう。
自身の修行の在り様や生き方が間違っていないのなら、本当にあらゆる人が同じ道を歩めるという指針になる。その確信もあった。誰でもやれば出来る、誰でも救われる。これからの禅はそんな道であってほしい。いや、そうならないといけない。やるだけやって道半ばで死ぬのなら、それでいい。誰かに尊敬されるために修行してるわけでもない。誰に謗られようと、自分の信じた生き方をしたい。この縁を、自分自身を生きたい。
この姿勢が修行を純熟させるのを大いに助けたように思う。自己に参ずることこそが禅の修行なのだから。それになにより、正直に生きたほうが楽だ。

3.夜坐の祈り

大悟以後、私にとって大きな転機となったのは年末の朽木での接心だった。

明日には仕事のために帰らないといけない。たった2泊でも今年最後の接心、余力を残さず接心を終えたいと思っていた。許された時間を徹底的に油断なく過ごす。朝起きて眠りに落ちるまで、絶対に一呼吸たりとも疎かにしたくない。
「祈り尽くすこと、懺悔し尽すこと。それこそが坐禅なんです」
老師の提唱の言葉が強く響いて残っていた。
気が付くと今までの自分の人生を振り返っていた。
考えてみると、よくもまあ多くの人を傷つけ憎んできたものだと思う。常に周りと一生懸命戦っていた。でも心の奥底には深い悲しみや逃れようのない孤独感。気が付かなかったのか。いや、見ないようにしていただけだ。生きることは儚い。すべて流れ去ってしまう。
もう、この自我の存在自体が悲しかった。
一切皆苦。
ごめんなさい。
只懺悔した。
何かにすがるように何度も何度も。
ふと、家族の顔を思い出した。
友人、仕事で会う人、檀家さん、親しい人、苦手な人、喧嘩別れした人。
今まで出会ってきた色々な人の顔を思い出した。
その人達すべての人の幸せを祈りたくなった。
不思議な気持ちだった。でもそれはとても自然な行為だった。
自分の目の前の人から悲しみが一つでも減りますよう。
顔も知らないのに、これから出会うだろう人達の幸せを祈った。
世界に笑顔がひとつでも増えますよう。
自分を尽くして、ただ祈った。
涙でぐしゃぐしゃだった。頭から毛布をかぶったまま泣いていた。坐禅もへちまもなく、その夜はただ座布団の上で泣いていた。壊れてしまったように。
涙も枯れ果てた深夜。夜坐を始めて数時間が過ぎていただろう。他の参禅者の方も休まれて、気が付くと周囲には誰もいなくなっていた。顔を洗いに行くと、庵さんがまだ起きて仕事をされていた。いつも誰よりも遅くまで起きて仕事をして参禅者を支えてくださってるんだと知ってなんとも心に沁みた。かたじけなさを感じつつまた気を取り直して坐禅に戻った。
その夜は徹宵で坐るつもりが、途中で気を失ったように坐禅をしながら寝てしまっていた。開静の少し前、寒さと足の痛みで目が覚めた。

翌朝、うつろな目をしたまま老師と茶礼。そしてバスに揺られて帰る。今までなら「帰り道も功夫を途切れさせず」などとやっていたが、もうそんなつもりにもなれない。完全に燃え尽きていた。ただぼんやりと美しい雪景色を眺める。
(帰ったら早々に仕事だ。今夜は除夜の鐘もつかないと。正月は元旦から毎日仕事。メールも溜まってるから返さないと。ああ、それにしても疲れたな。)
安曇川駅にバスが着いた。
バスを降りてしばらくしてケータイを落としたことに気づいた。バスはもう行った後だった。
やれやれと落胆しつつ駅のホームに上がると、鳥の声にはっと気が付く。(その鳥の声の正体はスピーカーからの自然音だった。)
周囲の音とひとつになっている。見える景色が変わっている。いや、この景色はどこかで知っている。そういえば子供の頃、世界はこう見えていた気がする。原風景とでもいうのだろうか。懐かしさすら感じる。当たり前のことが当たり前にある世界。
「功夫なき功夫、つまり功夫する人がいない」老師の言葉を思い出していた。たしかに「人」がいないまま、功夫をしようにもすでに功夫の中に溶けているから功夫も出来ない。
そうか、これだと思ったが、半日するとまたその世界が閉じていった。決着はまだだ。それも自分でわかる。
老師から只管打坐をしながら並行して参究するようにと出された公案がある。その公案は臨済宗の室内でもさすが難透とされるだけあって、それまではまるで雲をつかむようだった。その公案がまさに今の自分の問題として迫ってきた。古人が残した公案にいま命が宿る。
自分を尽くしてやれば、必ずやっただけのことはあるという確かな手応えもあった。
そのことがあってから、心が不思議なほど軽くなった。
老師は「修行すればするほど、その人の個性が開かれ心は軽やかになるものだ。」とよく仰ってた。
そして坐禅や修行に対しての変な執着が無くなっていった。なぜならもう何をやってても坐禅功夫になっていたから。坐禅の中で功夫をするのではない。功夫の中で行住坐臥の生活。
それまでは坐禅をしていないと気が済まないようになっていた。どこか修行に脅かされていたのだと思う。それがこの出来事で抜け落ちたようだ。自分が開かれてより自由になっていく。より軽やかに、より伸びやかに。そして縁に転じられにくくなる。どこにいても主体性を発揮出来る。

4.身心脱落

大多喜での接心。この接心を境に仕事が更に忙しくなる。当分接心から遠ざかることになるかもしれないと、老師にも相談していた。
「一心生ぜざれば萬法に咎無し、あなたは自分で問題を作っているんです」
と老師。
私の様子をみて言いたくなったそうだ。
一度は修行から自由になれたはずなのに、接心ということでまだどこか構えが残っていた。
またモヤモヤ考えはじめた。
「何か」を「わたし」が為そうとすること自体が道に背いているということは理においてもよく分かる。「成りきる」にも「成りきる」という意識が沿う。「成りきらせている人」が残る。しかし功夫をするというスタートに立たなければどうにもならない。そもそも一体「誰が」功夫しているというのだろう。
色々考えた挙句、結局為す術もなく一切を投げ出してしまった。諦めた。坐禅も修行もやめてしまった。
法界定印が崩れても、坐相が崩れても、何が起きてもそのまま。
ただこのものが坐蒲の上にあった。
それからどうなったのか、その晩の坐禅中の様子はあまり記憶に残っていない。最後の夜は何も特別なこともなく、時間だけが過ぎていった。
他の皆さんも一生懸命坐っているのを見てとても素晴らしい光景だと思ったことは覚えている。体調を崩しながらも懸命に坐っている方もおられたので、日本中の坊さんにも見せてやりたいと思った。
翌日、朝からとても落ち着いていて、午前中も淡々と過ぎていった。
下山前に、最後の斎座の席に着く。
柝が鳴り、応量器を広げお経を詠む。
今まで何度も繰り返してきたことだが、何かが違う。
自分の身体が世界に溶けたようにひとつになっている。自分の身体が自分のものでないようだ。周囲の様子が鮮明に見える。「自分」が声を出しているという感覚なしに、いつも通りのお経を詠んでいる。体が行為者無しに自在に動いているような。
一時的なものだろう、そう思った。老師が最後の独参で「あなたは決着をつけてからの方が大変だろうから急がないほうが良いですよ」そう仰ってたのがどこかで気になっていたのかもしれない。
帰りの電車の時刻が数分後に迫っている。下山前の茶礼ので挨拶もそこそこに学道舎を飛び出した。リュックを背負って駅に向かう。線路沿いに歩きながら、見える山々の風景をみて思わず感嘆の声をあげた。ものの存在感が違う。空が広く、足取りも軽い。子供の頃に見ていた原風景。やけに懐かしいこの不思議な感覚。安曇川駅のホームで気付いた通りだ。
電車の中で景色を眺めているとなぜか勝手に涙が出てきた。誰が泣いているのだろう。帰り路はイヤフォンでお気に入りの音楽を聴いた。
道中で次第に「自分」が戻ってきたような感覚があった。やっぱり一時的なものだったのだろうと自分を一応納得させた。
そんなモヤモヤした思いを抱えながらもようやく家にたどり着き、居間に入るとそこには母がいた。
「一週間ほとんど誰ともしゃべらんかったし、さみしかったで」
病気の母が弱弱しく言う。
目の前の母が私になっていた。母は私だった。私が悲しみを訴えかけている。思わず泣きそうになる。修行だなんだと長い間自分のことで精一杯だったことが申し訳なく思えた。
久しぶりに母の肩を揉んでやった。10数年ぶりくらいか。「あんた手冷たい」と言われた。
父や妹や犬も自分だった。
テレビも机も障子も自分だった。
窓から外を見る、外の景色が自分だった。そして自分の中に自分がいない。私は虚空だった。

涙が溢れだしてくる。全身が震えた。
やばい、どうやらこれは止められそうにない。
急いで自分の部屋に戻った。

「もう独りじゃない、ずっと独りじゃなかった」涙腺が崩壊した。声をあげて泣いた。

机の上に原田雪渓老師の本が置いてある。井上義衍老師や飯田トウ隠老師の本も並んでる。修行中、何度も何度も読み返した本。
「ありがとうございました。本当にありがとうございました。」

泣きながら震える手で老師にメールを打つ。

その夜は全く寝れなかった。
翌朝、本堂でお経を詠んだ。いつも詠んでいる『白隠禅師坐禅和讃』。途中から涙で詠めなくなってしまう。
母を連れて近所の川沿いを散歩した。
今まで何も見えてなかったのかと思うほど、ものがどこまでも鮮明に見える。存在のすべてが、なにもかもが眩しい。
この意識の中に世界が丸々すっぽり入っている。空も山も川も月も太陽も。夜中に雪が降っていた。漆黒の空から白い雪が音もなく降る。自分が降っている。とてつもなく荘厳な景色だった。それを包む鏡のような意識。乾坤只一人、宇宙にはこの意識たったひとつしかない。
家に帰ってからガットギターを鳴らした。ほら、自分が鳴っている。音が自分。
「丸い心で音楽がしたい」
誰かの言葉が胸に蘇る。また泣けた。
毎日泣いてばかり。何かにつけて涙が勝手に溢れてくる。ずっとこの世界に生きていたのに気付かなかったのだ。
人を見ると、その人が個我の世界に閉じ込められて、それぞれの苦しみや不安を抱えているのが分かる。皆それぞれ自我の織りなす夢を見ているのがわかる。
もうこれでいいんだと思っていたが、気づくと完全に目の前のものと同化し意識も前後際断され、一瞬記憶喪失のようになったりすることがある。右を見て左を見たら、もう右の世界が死んでいる。そこにいた人も記憶も消えて無くなる。
脱落した世界にいれば、仏のままいられたら、ある意味何の苦もないかもしれない。自分しかいないのだから。でも、戻らないといけない。人は人として生きなければいけない。帰らないといけない。意識がそう云っている。
大多喜から帰ってからずっとこのような状態でありながら、たまに「人」に戻ろうとする時間が一日の中に何度かあった。一定時間戻ろうとするが、結局消える。圧倒的なダルマの現実に「人」がかき消されるようだった。そのような状態で仏界と人間界を何度か往復していた。
どうやって戻ればいいのか分からないので、半ば開き直っていた。

5.帰りつくところ

接心から帰って三日目。
その夜はなんとなくお釈迦様のことを考えていた。
なんとなくスッタ二パータをパラパラめくった。すぐにまた本棚にしまった。
寝床についてもどこか気持ちが落ち着かず、スマホをとり、またなんとなくお釈迦様の言葉を調べようとした。
たまたま涅槃図の画像を見つけた。完全に忘れていたがその日は涅槃会だった。

あれ、
スマホのタッチパネルの反応がいつになく悪い。
こんなことは今までなかったのだけど。
仕方がない。
もう諦めて寝ようかと無造作に枕元に置いたその瞬間

<ブツン>

頭の中で何かが切れる音がした。あるいはそんな感触。目の前が真っ暗になり、そのまま気を失って蒲団の上にうつぶせに倒れこんだ。

意識が戻る。
はっと、上体を起こす。
(死んだ!?)
でも生きてるらしい。本気で死んだのかと思った。おそらく一瞬の事だった。
何が起きたのか自分でも分からない。ただ意識の座が定まっている。自分が自分に落ち着いている。そして、そのまま眠った。久しぶりにゆっくりと眠ることが出来た。

翌朝、目が覚める。意識の状態も昨夜と変わらない。やはり非常に落ち着いている。
人間に戻っていることがやっと理解できた。良かった、戻れたようだ。ただ以前と何かが違う。世界は開かれている。

それから2日が過ぎた。人としての日常に帰れたように思った。いい加減これで大丈夫だろうと思ったが、またどうしてか疑問がよぎる。祖師方が身心脱落後も修行を続けられたというのはどういうことだろう。
たとえば、正受老人は至道無難禅師に参じてわずか一年半、二十歳のときに大事了畢。その後十余年師のもとで修行されたらしい。その後も正受庵でひたすら修行を続け、七十歳にして、ここ五,六年やっと正念相続が出来るようになってきたというような言葉を残されている。
「正念相続」
只管打坐であろうと、公案であろうと最後は同じ。禅の修行は結局この一本道しかない。只純一無雑に事にあたる。実感としてもそうだった。
老師から最後には「功夫も坐禅も禅も仏教も一切全てがなくなる」と聞いていた。今どうだろう。
「正念相続」
その語を意識の中で反芻し、功夫を試みる。

功夫なき功夫

すると、本当に何もかもが綺麗になくなった。
人として当たり前の世界が当たり前にあって、感じることや考えることもすべて同じようにある。でも自分を遮るものがない。自覚はあるのに認識がない。私はいるのに人がいない。今しかないのに今もない。昨日も明日も今日もない。そのものそれ、只這是。
言葉を尽くしても届かない。あえて言うなら、禅も仏教も知らなかった頃の元の自分に帰ったということだ。眼横鼻直。
あぁ、なんて広大な旅をしてきたんだろう。旅の途中で様々な景色を見てきたけれど、本当にたどり着いたゴールはなんとスタート地点だったようなものだった。どこにも探しにいく必要なんてなかった。盤珪禅師の云った通り一切の事が不生のままで調っていたのだから。この生命が、この個性が、これそのものが、最初から全てダルマの顕現だった。もう只自分自身を生ききるしかないじゃないか。誰にも騙されない。
誰だったか中国の祖師が決着がついて呵呵大笑したという話を聞いたことがある。それを思い出してか、自分もつい笑ってしまった。
一生参学の大事がここに終わる。
禅もない、悟りもないというのに、そこには深い感謝だけがただ残った。

6.おわりに

もし、今あなたの心に深い悲しみがあって一人で苦しんでいるなら、なにかを大切にしたいと思う純粋な気持ちがあるのなら、そして世間に押し付けられた価値観に振り回されず自分の人生を本当に生きたいと切に願うのなら。
純粋で真面目な人ほど問題意識は深く、そして優しい人ほど背負う悲しみも大きくなるものです。しかし、その人生の苦と正面から向き合った人だけに訪れる、自らを解放へ導くための真の学びがあります。お釈迦様や道元禅師をはじめ、過去の無数のブッダ達もそうだったのだと思います。それぞれ時代や国は違えども、自分を誤魔化すことなくどこまでも真っ直ぐに生きた人たちです。

老師のある日の提唱の言葉は私にとっての一転語になりました。
「この修行は自分のためだけじゃない、周りの人のために、世界の平和のためにやることなんです。国によって異なる宗教や文化、あらゆる違いを認めたうえで、我々はダルマによってひとつに繋がることが出来る。人が人としての尊厳に目覚め、自立し、そして世界を平和にしていくために、後世までダルマを伝えていかなければならない。戦争を終わらせるためにも人類は目覚めないといけない。これは人類がこの先何世紀かかってもやるべき課題なんです。ですから修行をする人にはその自覚をもってやってほしいのです。この修行が自分だけでなく人を救うんです。」

この混迷した現代においてこそ、禅の本来の力を発揮すべきです。ダルマサンガにはその禅の生命があります。大力量の正師がいます。ダルマを真摯に探究する素晴らしい仲間がいます。そして山々の大自然があなたを包み応援してくれます。
周知の通り日本仏教界の現状を変えるのはとても難しいでしょう。ですが宗門がどれほど形骸化しようとも、この真理は変わりません。この現代においてもダルマを体現する事実があるということ。人の心に救いはあるということ。そして、本当に誰もがそれを成し得るということ。道を求めている人にどうかこのことが届いてほしいと願っています。道を行くうえで困難なことにも出会うかと思います。ですが、本気で求めている人には必ず道は開けます。どこにいても何をしていても修行は出来ますし、もうすでに誰もが法の人なのですから。この参禅記もなにかの参考やきっかけになれば幸いです。
本来の自己に目覚めるということ。それは途方もなく大きな愛を知ることです。我々が共にあるということの事実を知るということです。ひとりでも多くの方が目覚めることこそ、これから人類が自然と共存しながら心豊かな世界を創造していくための力となります。あなたが目覚め、自身の縁に従い懸命に生きることがそのまま全存在を照らす光となります。私もとても非力(かつ涙脆いよう)ですがダルマのために尽力したいと思います。
全ては共に在ります
あなたの幸せと仏道の成就を心よりお祈りして


合掌
2015年5月 記




















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