Tag Archives: 座禅

普勧坐禅儀

原(たず)ぬるに、夫(そ)れ道本円通(どうもとえんづう)、争(いか)でか修証(しゅしょう)を仮(か)らん。

宗乗(しゅうじょう)自在、何ぞ功夫(くふう)を費(ついや)さん。

況んや全体逈(はる)かに塵埃(じんない)を出(い)づ、孰(たれ)か払拭(ほっしき)の手段を信ぜん。

大都(おおよそ)当処(とうじょ)を離れず、豈に修行の脚頭(きゃくとう)を用ふる者ならんや。

然(しか)れども、毫釐(ごうり)も差(しゃ)有れば、天地懸(はるか)に隔り、違順(いじゅん)纔(わず)かに起れば、紛然として心(しん)を(の)失す。

直饒(たとい)、会(え)に誇り、悟(ご)に豊かに、瞥地(べつち)の智通(ちつう)を獲(え)、道(どう)を得、心(しん)を(の)明らめて、衝天の志気(しいき)を挙(こ)し、入頭(にっとう)の辺量に逍遥すと雖も、幾(ほと)んど出身の活路を虧闕(きけつ)す。

矧(いわ)んや彼(か)の祇薗(ぎおん)の生知(しょうち)たる、端坐六年の蹤跡(しょうせき)見つべし。

少林の心印を伝(つた)ふる、面壁九歳(めんぺきくさい)の声名(しょうみょう)、尚ほ聞こゆ。

古聖(こしょう)、既に然り。

今人(こんじん)盍(なん)ぞ辦ぜざる。所以(ゆえ)に須(すべか)らく言(こと)を尋ね語を逐ふの解行(げぎょう)を休すべし。

須らく囘光返照(えこうへんしょう)の退歩を学すべし。

身心(しんじん)自然(じねん)に脱落して、本来の面目(めんもく)現前(げんぜん)せん。

恁麼(いんも)の事(じ)を得んと欲せば、急に恁麼の事(じ)を務(つと)めよ。

夫れ参禅は静室(じょうしつ)宜しく、飲飡(おんさん)[飲食(おんじき)]節あり、諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪(ぜんなく)を思はず、是非を管すること莫(なか)れ。

心意識の運転を停(や)め、念想観の測量(しきりょう)を止(や)めて、作仏を(と)図ること莫(なか)れ。

豈に坐臥に拘(かか)はらんや。尋常(よのつね)、坐処には厚く坐物(ざもつ)を(と)敷き、上に蒲団を用ふ。

或(あるい)は結跏趺坐、或は半跏趺坐。

謂はく、結跏趺坐は、先づ右の足を以て左の※(もも)の上に安じ、左の足を右の※(もも)の上に安ず。

半跏趺坐は、但(ただ)左の足を以て右の※(もも)を圧(お)すなり。

寛(ゆる)く衣帯(えたい)を繋(か)けて、斉整(せいせい)ならしむべし。

次に、右の手を左の足の上に安(あん)じ、左の掌(たなごころ)を右の掌の上に安ず。

兩(りょう)の大拇指(だいぼし)、面(むか)ひて相(あい)拄(さそ)ふ。

乃(すなわ)ち、正身端坐(しょうしんたんざ)して、左に側(そばだ)ち右に傾き、前に躬(くぐま)り後(しりえ)に仰ぐことを得ざれ。

耳と肩と対し、鼻と臍(ほぞ)と対せしめんことを要す。

舌、上の腭(あぎと)に掛けて、脣歯(しんし)相(あい)著け、目は須らく常に開くべし。

鼻息(びそく)、微かに通じ、身相(しんそう)既に調へて、欠気一息(かんきいっそく)し、左右搖振(ようしん)して、兀兀(ごつごつ)として坐定(ざじょう)して、箇(こ)の不思量底を思量せよ。

不思量底(ふしりょうてい)、如何(いかん)が思量せん。非思量。此れ乃ち坐禅の要術なり。

所謂(いわゆる)坐禅は、習禅には非ず。

唯、是れ安楽の法門なり。

菩提を究尽(ぐうじん)するの修證(しゅしょう)なり。

公案現成(こうあんげんじょう)、籮籠(らろう)未だ到らず。

若(も)し此の意を得ば、龍の水を得たるが如く、虎の山に靠(よ)るに似たり。

當(まさ)に知るべし、正法(しょうぼう)自(おのずか)ら現前し、昏散(こんさん)先づ撲落(ぼくらく)することを。

若し坐より起(た)たば、徐々として身を動かし、安祥(あんしょう)として起つべし。

卒暴(そつぼう)なるべからず。

嘗て観る、超凡越聖(ちょうぼんおつしょう)、坐脱立亡(ざだつりゅうぼう)も、此の力に一任することを。

況んや復た指竿針鎚(しかんしんつい)を拈(ねん)ずるの転機、払拳棒喝(ほっけんぼうかつ)を挙(こ)するの証契(しょうかい)も、未(いま)だ是れ思量分別の能く解(げ)する所にあらず。

豈に神通修証(じんずうしゅしょう)の能く知る所とせんや。

声色(しょうしき)の外(ほか)の威儀たるべし。

那(なん)ぞ知見の前(さき)の軌則(きそく)に非ざる者ならんや。

然(しか)れば則ち、上智下愚を論ぜず、利人鈍者を簡(えら)ぶこと莫(な)かれ。

専一(せんいつ)に功夫(くふう)せば、正に是れ辦道なり。

修証(しゅしょう)は自(おの)づから染汙(せんな)せず、趣向更に是れ平常(びょうじょう)なる者なり。

凡(およ)そ夫れ、自界他方、西天東地(さいてんとうち)、等しく仏印(ぶつちん)を持(じ)し、一(もっぱ)ら宗風(しゅうふう)を擅(ほしいまま)にす。

唯、打坐(たざ)を務めて、兀地(ごっち)に礙(さ)へらる。

万別千差(ばんべつせんしゃ)と謂ふと雖も、祗管(しかん)に参禅辦道すべし。

何ぞ自家(じけ)の坐牀(ざしょう)を抛卻(ほうきゃく)して、謾(みだ)りに他国の塵境に去来せん。

若し一歩を錯(あやま)らば、当面に蹉過(しゃか)す。

既に人身(にんしん)の機要を得たり、虚しく光陰を度(わた)ること莫(な)かれ。

仏道の要機を保任(ほにん)す、誰(たれ)か浪(みだ)り石火を楽しまん。

加以(しかのみならず)、形質(ぎょうしつ)は(た)草露の如く、運命は電光に似たり。倐忽(しくこつ)として便(すなわ)ち空(くう)じ、須臾(しゅゆ)に即ち失(しっ)す。

冀(こいねが)はくは其れ参学の高流(こうる)、久しく摸象(もぞう)に習つて、真龍を怪しむこと勿(なか)れ。

直指(じきし)端的の道(どう)に精進し、絶学無為の人を尊貴し、仏々(ぶつぶつ)の菩提に合沓(がっとう)し、祖々の三昧(ざんまい)を嫡嗣(てきし)せよ。

久しく恁麼(いんも)なることを為さば、須(すべか)らく是れ恁麼なるべし。

宝蔵自(おのずか)ら開けて、受用(じゅよう)如意(にょい)ならん。

Tagged , , , , , , , , , | 普勧坐禅儀 はコメントを受け付けていません。

ある女性の初関透過

*以下の文章は、2010年度「秋分大摂心」に参禅されました40代の女性からのお便りです。

文中にもありますように、都合で摂心4日目に下山されました。それでも、御本人は帰宅されてからも摂心を相続されていたようです。

 こうした体験を公表することは、間違えますと他の参禅者の邪魔をすることになりかねないことは、充分に承知しておりますが、既成宗門を中心とした禅が形骸化し、現代の混迷した社会に生きる人たちの自由と解放に繋がっていない状況の中で、ほんらいの禅がもっている素晴らしい可能性について理解して頂くために、御本人の了解のもとに、敢えて公表することにしました。

 「初関」を透過しただけでも、長い間抱えてこられた悲しみ、苦しみが一瞬にして氷解する様子が良く表現されております。誰よりも御本人が良く理解されておりますが、これで禅における修行がようやく本格的に始まったということです。

 禅の初学者が読む祖録の一つに「十牛図」がありますが、真の自己に目覚めるとは、八番目の円相によって表現されております「人牛倶忘」にしかありません。
 それまではすべて途中のものです。道元禅師が身心脱落された後に、「一毫の仏法もなし」と断言されておりますように、この「わたくしの心身」はもちろん、ダルマも仏教もすべて無くならなければないけません。伝統的な仏教の言葉で云えば「解脱」であります。

 参禅者が初関を透過することができれば、禅の修行についての迷いは無くなります。正しい坐禅を相続して行けば、必ず自意識の根が切れる(切れた分だけ自由で伸びやかな本来の自分に近づく)こうした体験があるということを知って頂きたいと思います。


老師へ
合掌
おはようございます。
「秋分大摂心」も今日で最終日ですね。
先に帰りましたが、皆さんと一緒に坐っているつもりで、この3日間を過ごしていました。
 今朝、暁天坐を終えて、しばらくして日課となっている、飼い猫を階段で遊ばせるために玄関を開けて、外に出ました。(家は団地の5階なので、階段の踊り場からは周辺がよく見渡せます) 家の周りは、T市の外れのためか、変電所や、ゴミ焼却場がすぐ近くにあります。変電所に近いため、周りは鉄塔だらけ。
 空はいつも沢山の鉄塔と電線に遮られています。 今までは、それが嫌で嫌でたまらなかったのですが、今朝、夜明け前の澄み切った空の中の鉄塔を見たとき、なんというのでしょうか、「只這是」(ただこのとおり)としか言いようのない見え方で、鉄塔が見えてしまいました。
 今まで、何を見ていたのでしょうか?何も見てはいなかったのだなぁ…とつくづく思いました。 それから、何回か鉄塔を見てみるのですが、やはり、鉄塔は鉄塔として、只あるがまま。醜いものでも、忌むべきものでもなくなってしまっていました。
 今までは、自分にとって嫌なものなので、風景の中から、切り取って見てしまっていたのだと思います。 初めて、「只這是」で見えたとき、鉄塔を、美しいとさえ、感じました。なんだか、とても優雅に佇んでいる様にすら見えました。

 びっくりしてしまって、何度も何度も見るのですが、やはり、すっかり、力も抜けたような様子で、ただ立っている鉄塔たちが存在しているのです。

 もうひとつ、びっくりしたことは、鏡を(鏡の中の自分を)見るのが嫌ではなくなっていることでした。 鉄塔が鉄塔として見えた後、炊事場の横の鏡に、ふっと目が止まりました。 鏡の中には、私が映っていました。とても静かな気持ちで見ることが出来ました。そんな風に自分を見たのは初めてのことでした。

 「私ってこんな顔をしていたんだ…」 とても冷静に見ることが出来ました。今までは、鏡で自分を映して見るのがあまり好きではなく、 今朝のように、ただただそのまま自分を見ることが出来たのは、初めてでした。 心だけ参加していたような、後半の3日間も、坐禅のうちに数えてもらっていたのでしょうか。そんな今朝の出来事でした。


 そして、最後にもう一つ。20年前に、とても大きな悲しみを得ましたが、ずーっと、ずーっと、いまだにまるで、昨日のことのように苦しかったのですが、それが、今朝のその二つの出来事の後、思い返してみても、胸の痛みも、悲しみも、今までのように苦しくはなくなってしまっていました。 以前、老師が教えてくださったように、これが、「空ぜられる」ということなんでしょうか? なんだか、不思議な感じですが、とても、楽になりました。 秋分大摂心、本当にありがとうございました。                                    M  拝
老師へ
もうすぐ職場に着きますが、今朝の鉄塔は、私にとっては、2回目の斧に当たる出来事だったのかもしれません。
あのあと、いろんな物が目に入ってきて、こんなに様々なものが存在していたの!?…というビックリと、
様々なものが均等に見えていると言ったらいいのか、今まで嫌だったものが目に入っても嫌な感じではなく、
反対に、好きだったものが目に入っても、それだけが飛び切り目立って見える訳でもなく、
なんだか当たり前のものが当たり前に見えているような…
今まで、薄皮一枚通して見ていたような、その薄皮が剥がれてしまったような
なんかいつもと違う感じで
でも、当たり前で…
なんか不思議な感じです。
老師、本当にありがとうございます。
今回は、しみじみうれしいです。
そしてありがたい気持ちでいっぱいです。
九拝

*次の文章は、秋分摂心からほぼ4ヵ月後の、神戸「楽の森禅フォーラム」での体験について書かれたもの。
こんばんわ。
今、A尼とKちゃんと、Tさんに
メールを出し終わりました。
(トリが老師です・笑)
Kちゃんは、2月3月も摂心なのですね~
A尼もお仕事再開されたんですね~!

さて昨日、禅フォーラムで坐って、耳が変わったみたいです。

きっかけはシャッターの音。

いつも聞いているビルのシャッターが閉まる音を、あんなふうに聴いたのは初めてだったかも。

素晴らしいオーケストラの交響曲みたいに、とんでもなくきれいでした~

で、今朝からは、耳が「ふし穴」になったみたいです。


昨日、シャッターの音が轟いた時、
聞いているうち、
「音」だけになったみたいでした。
音が止むまで音だけだったみたいです。
(あとで、そうだったらしいと言葉になりました)
音についての思い出話ですが、
夏だったか、摂心中に
ヒグラシの声が自分の中で鳴り響いて、
(というか、自分が無かった??)
参禅者の方の感想の中にも
同じような出来事が綴られていたなぁ~、
こんな感じのことなのかなぁ~
とか、思ったことがありました。
昨日の出来事は、
それより更に圧倒的な感じでした。
音だけでしたね~…
いつもは、シャッターの音は
すぐに「うるさいなぁ~」という思いに飛んでしまうし、
階段を行き来する人の音とか、
道行く人の大きな話し声とかにも
坐っている時は、やはりどうしても
うっすらと「うるさいなぁ~」という思いに行きやすかったのですが、
昨日のシャッター以降の諸々の
物音、話し声は、なんにも思わなくなりました。
「あ、音がしてる…」
くらいの感じで、ただそのまま聞くことが出来て、
とても、楽になりました。
どんな音にもひっかからなくなったというか、
カタマリの自分がないというか…
どの音も、むしろ、愛おしいような、
どの音も、ある種、美しくて、
「いつもこんなに豊かな音に包まれて
暮らしているのか~」
って、感動して、うれしくて、
胸がジ~ンとして、なんか、
ちょこっと泣いてしまいました。
音というものを、今までは
こんなに自分勝手に価値付けて
自分の中に止めてひっかかっていたのかぁ~!!
と、びっくりしました。
(価値付けたために引っかかっていたわけですよね…)
昨日のシャッター以降は、
音が、
右の耳から、左の耳へ、
ただ頭部の中を通過していっている感じ、
音が通り抜けることで
頭の中をスースーと掃除してるみたいです。
スースーしてます。
今まで知らないな~…この変な?感じ。
昼頃までスースーが激しかったですが、
だんだん落ち着いてきました。
でも、もう、今までの聞き方とは変わってしまったようです。
音にもこんなにも、好き嫌いの価値付けを
していたんですね~
びっくりします。
いやはや、どんだけ、
自我は「仕事」熱心なんでしょう!苦笑
今朝の坐禅中、今までは気がつかなかった、
遠~くの電車の音にも気がついて、
こんな音も、ほんとは、ここまで届いていたんだな~
と、またまた感動してしてしまいました。
そして、「鼻息かすかに通ず」という感じの
極めて静かな呼吸をしていたようです。
初めてだと思います。
老師が呼吸についてお話してくださることは、
今までは、「そんな息もあるのか~」と
頭では、知っていても、「どんななのかな~?」
という世界でしたが、今朝は、少しだけ体験できたようです。
あんなに静かな息があるのですね~…
ほんとに、呼吸してないみたいな…
ふと思ったのですが、私は、
鉄塔で、目を開いて?もらい、
シャッターに耳を開いて?もらい、
次は鼻か?(その次は喉?)
なんか冗談みたいな、この展開…
風邪薬でもあるまいし~…
でも、そんな風に、ひとつひとつ、
価値付けのお仕事に励んでいる器官が
お仕事から外れていくのも面白いですね~…
それと、鉄塔とか、シャッターとか、
きっかけに鉄がらみが多いのは
我が父上が鉄の仕事をしてたからでしょうか~・笑
次は何によって、何が外れていくのやら~?・笑
それはさておき、
ただただコツコツ坐るのみ、ですね。
なんで、こんなに飽きないのか
ほんとに不思議ですね~
1チュウ、1チュウ、
いつも違う「旅」みたいで、
飽きません。
では、明日からの摂心、
よい時間となりますように。
合掌

Tagged , , , , , , , , , , , , , , | ある女性の初関透過 はコメントを受け付けていません。

摂心と独参について

ekadanpizu独参とは
 

 独参は、坐禪の中で感じたこと、疑問に思った事等を老師に尋ね、正しい工夫が出来ているかどうかを、確認する場所です。分からないことや、疑問を持っていたりすると、坐禅の妨げになります。

  今回、肉親の死という、人間の避けがたい悲しみを抱えて、参禪に来られた方がいたからでしょうか、悩みを抱えていても、坐る時の妨げになりますので、そうした荷物を下ろす意味で、悩みを持たれている方は、独参の場でその荷物を下ろしていってください、と老師は独参の前に話されました。

独参は、今回新しく建てられた独参用の建物で行われました。この独参の建物も、老師と参禪者の手によって基礎の段階から建築したものです。 老師がその独参の建物から鈴を鳴らすと、参禪者が一人ずつ、禅堂の土間においてある鐘を二回叩いて、独参へ向かいます。 独参から戻られた女性の参禪者の方が涙を啜られていました。 参禪者の方も様々な思いを抱えて、参禪されているものと思います。

独参の作法は、入り口で一拝、老師の前で一拝、終わりに一拝、五体倒地で額を床に付けて礼拝します。本来は三拝ずつですが、時間がかかる為一拝ずつということになっています。

独参の室内でのことは、人に話しても、聞いてもいけません。

独参は、摂心の中でも非常に重要なものです。

独参の場でのやりとりは、参禪者一人一人に即したものであり、人によって全く違った指導の方法を取り得るために、独参の室内での話は、自分と他人の独参を比較して坐禪の邪魔にならないように、決して人に話しても、聞いてもいけないことになっていますが、独参の雰囲気については、紹介しても構わないとのことでしたので、ここで少し述べさせていただきます。

老師の前で礼拝を済ませた後、姿勢と呼吸を整え、自分の坐禅の方法、随息観であれば、随息観(数息観に参じていれば、数息観)に参じております、といいます。  独参の場は単なる言葉のやりとりの場ではありません。そこで伝わるのはむしろ言葉ではないものです。

礼拝を済ませ、姿勢と呼吸を整え、目を上げ老師の目を見た途端、空気の密度が変わっていくのを感じます。その空気の密度が、自分の意識に浸透していき、自分の中から言葉が閉め出されていくのを感じます。

独参に向かうにあたって、今日の坐禪で感じたこと、疑問に思ったことを考えていくのですが、坐禪によって定が深まっていると、口を開いてもその空気の密度の中に、言葉が音になる前に消えてしまうように感じます。

頭に言葉があっても、なかなか言葉を出すことが出来ません。非常に時間がかかることがあります。 その空気の密度の前に、言葉、そして言葉を基にした言語認識、思考というものがあまりに表層であり、限界があるかを感じます。かなりの困難を感じながら、自分の坐禪についていくつかのことを述べます。

そのことについて、老師からいくつかの指摘と話があります。 独参は短く終わる時もあれば、長く何も話さないままの時もあります。坐禪が深まってくるほど、その沈黙がいかなるものであるか、伝わってくるものであるように思います。

以上は朽木学道舎摂心会7日間坐禅体験記より

 

Tagged , , , , , , , , , , , , | 摂心と独参について はコメントを受け付けていません。

坐禅の仕方

Dharma

基本的な作法


合 掌(がっしょう)

相手に尊敬の念をあらわすこと。両手の掌を合わせ、臂を脇の下から離し、指先を鼻の高さに揃えます。


叉 手(しゃしゅ)

歩くときの手の作法。右手の親指を中にして拳を作り、これを胸に当て、これを左手の掌でおおう。


隣位問訊(りんいもんじん)

両隣の参禅者への挨拶です。自分の坐る位置に着いたら、その場所に向かって合掌し低頭する。両隣に当たる二人は、これを受け合掌。


対坐問訊(たいざもんじん)

坐る向かいの人への挨拶。隣位問訊をしたら、右回りをして、向かいに坐っている人に合掌、低頭する。向側の人はこれを受けて合掌する。


結跏趺坐(けっかふざ)

両足を組む坐り方。対坐問訊が終わったら、そのまま坐蒲の上に腰をおろし、足を組む。右の足を左の股(もも)の上に深くのせ、次に、左の足を右の股の上にのせ、左手を坐蒲に添え、右手は床をおさえ、身を坐蒲と共に右回りをして面壁(めんぺき)する。


半跏趺坐(はんかふざ)

結跏趺坐ができない人の足の組み方。左の足を右の股のうえに深くのせます。結跏趺坐でも半跏趺坐でも肝要なのは、両膝とお尻の三点で上体を支える。自分の身体に合った坐蒲を使用し、両膝を確実に地につけ、その三辺が正確な二等辺三角形を描くように坐ること。

上体の作法両脚のまわりの衣服を整え、背骨をまっすぐにのばし、お尻を後方につきだすようにして腰にきまりをつけます。両肩の力を抜き、腰の骨をまっすぐに伸ばし、首筋には力を入れず、顎を引き、頭で天をつきあげるようにすると、背骨がまっすぐになります。

手の作法(法界定印、ほっかいじょういん)

右の手のひらを上向きにして組んだ足の上に置き、その上に、左の手のひらを同じように上向きにして置き、両手の親指の先を、かすかに接触させます。力を入れておしてはいけませんが、決して離さないようにします。目の作法目は決して閉じないで、自然のままに開いておく。視線は、およそ1メートル前方、約45度の角度におとしたままにする。


呼吸について(欠気一息、かんきいっそく)

すべてのものを吐き出してしまうような気持ちで、大きく口を開けて息を吐き出す。いっぱいに吐き出すと、あとは吸おうと思わなくとも、新鮮な空気が身体全体に入ってきます。この深呼吸を数回行った後は、鼻からの自然な呼吸にまかせる。
口の作法

 舌の先を上の歯の内側の付け根につけ、歯と歯とをつけ、唇を密着させる。口を結び、開けたり、動かしたりしない。

左右揺振(さゆうようしん)

腰骨を中心にして、上半身を左右に振り子のように動かし、じょじょに小さくし、脊梁骨を地球の鉛直線に合わせ、坐相を正しく落ち着かせる。


止静鐘(しじょうしょう)

坐禅の始まる合図。参禅者の身相が整う頃、堂頭(どうちょう)が入堂して堂内を一巡し、正しい坐にあるかを点検します。これを検単(けんたん)といいます。堂頭が自分の後ろに巡ってきた時は合掌をし、通りすぎた後に法界定印にもどします。この後、鐘が三回鳴ります(止静鐘)。止静鐘が鳴るまでに、自分の坐る場所に坐っているように。


警 策(きょうさく)

心のゆるみを警めるために打ちます。睡魔におそわれたり、心が乱れた時などに自分から受ける方法と、 姿勢が悪かったり眠っていたりする人に直堂(じきどう)(堂内を監督し、警策を行ずる者)の方から入れる方法があります。

どちらの場合も、右肩を軽く打って予告されます。他所では合掌して首をやや左へ傾け右肩をあけるようにしますが、学道舎ではそのままの姿勢で受け、終わったら合掌のまま頭を下げ、もとに戻ります。

抽解鐘(一回鳴ります)

終わりの鐘が一回鳴ると終わりの合図です。合掌し低頭したのち、左右揺振します。今度は、両手の手のひらを上にして膝に置き、はじめ小さくだんだん大きく揺り動かします。身体をほぐしたのち右回りをして向きを変えます。

そして、足を解きゆっくりと静かに立ち上がります。 坐蒲を元の形に直します。直し終わったら、自分の坐っていた場所に向かって合掌し低頭(隣位問訊)し右まわりして向かいの人に合掌(対坐問訊)します。そのあと、叉手で退堂します。

経 行(きんひん)

坐禅が長時間行われる場合、堂内をゆるやかに、静かに歩行すること。坐禅中に経行鐘(きんひんしょう)が鳴ったら(二回鳴ります)、合掌し低頭し、左右揺振し、組んだ足を解き、ゆっくりと静かに立ち上がります。坐蒲を直し、自分の坐っていた場所に向かって合掌し低頭(隣位間訊)し、右回りして向かいの人に合掌し低頭(対坐問訊)します。

そのあと、叉手にして、呼吸を整え、最初の歩を右足より出します。列の前後を等間隔に保ち、堂内を右まわりに緩歩します。緩歩の方法は、一呼吸に半歩前進します。息を吸い吐く間に、足の甲の長さの半分だけ歩を進めるのです。呼吸の仕方や上体の姿勢、目や口元などは、坐禅の場合と同様です。

5分ほど歩きますと係の方の合図があります。それを聞いたら、直ちにその場に両脚を揃えて止まり、叉手を合掌に変えて低頭し、右足から、普通の歩速で進行方向に進み、自分の坐っていた場所にもどり、隣位問訊、対坐問訊したのち退堂します。


-〈注意事項〉-

時計などは外し、靴下や足袋は脱いでおくこと。

堂内を歩くときは、必ず叉手にします。

聖僧さまの前を横切ってはいけません。





坐禅の準備と心得

*坐る前の準備
特に身体のかたい方は、真向法 簡単なハタヨガ、太極拳、チベット体操などで、身体をほぐすことが有効です。
股関節を柔軟にして、楽に坐禅の姿勢が取れるようにする為には、真向法体操が有効です。
以下のYouTubeの動画が参考になります。



真向法体操

*どんな服装で坐るか

ジーパンのような窮屈なズボンなどは適さない。ユッタリしたズボンやスカートが望ましい。普通、ズボンを履くときのようにお腹の上を締めているのは良くないので緩める。できれば作務衣や着物に袴で坐るのが良い。

*どんな場所で坐るか

できるだけ静かで清潔な場所を選ぶ。風や日光が直接当たるような所は避ける。屋外でもかまわないのだが、初心の内は他者が気になるので、屋内がよい。

*明るさについて

  あまり明るすぎのは気が散ってしまい、暗すぎるのは心が沈んでしまうので良くない。古来、読書をするには、少し暗いくらいが良いとされる。昼間は、カーテンを引くなどして、夜は調光式の照明などで調節する。

*面壁か対坐か

 臨済宗は対坐であるが、曹洞宗は面壁である。達磨の証跡を見るまでもなく向上門(修行中)は本来みな面壁であったはずである。それに面壁のほうが他者が気になったり、気が散ることもなく、落ち着いて坐れる。基本的に面壁で坐るべきである。壁や襖などに向かい、目線から7、80センチくらい離れて坐る。

*食事と睡眠

  「飲食節あり」と示されているように、食事は過不足なく腹七分から八分で止め、食事の前後はさける。また睡眠も少なすぎるのも良くないし、もちろん貪るのはもっと良くない。

*坐禅の長さ、時間

 坐禅中、時間を気にしなくて良いように時計を置いておく。あるいは、あらかじめ時間で長さを決めておいた線香を立て、時間を計る。線香の香りが禅定を助けてくれるという効用もある。

*坐禅の回数と坐る時間帯

一日のうちにいつ坐るのがいいかであるが、仕事や家庭の事情で理想通りの時間を選べない人がほとんどであろう。ただ、朝の坐禅と夜の坐禅は明らかに違う。可能ならば朝晩2回、30分くらいの坐禅ができれば理想である。

 ほとんどの宗教で、夜明け前や日没の頃がもっとも神聖な時間として、祈りを捧げたり沐浴したりすることが行われているが、古来、太陽が西に傾きはじめてから地平線に没するまでの時間が、いちばん深く坐れると云われる。

 わたくしの経験からも、夜の昏鐘坐、学道舎では 6:20~7:00がいちばん良く坐れます。在家の生活ではもっとも坐禅に難しい時間ですが、一人暮らしの方などは、週に一度の休日などにこの時間帯に坐ってみることを勧めたい。

*坐蒲について

  「坐処には厚く坐物を敷き、上に蒲団を用ゆ」(普勧坐禅儀)とあるように、坐禅をするには、まず厚くて大きな座布団を敷く。なぜ厚くなければいけないかというと、薄いとどうしても早く脚が痛みやい。また痔疾に罹る恐れもなしとしない。

「痔」という漢字が、病垂に寺であることを知るべきである。古来、痔はお坊さんの持病であったようだ。 その上に、円形のクッションのような坐蒲を置く。直径30センチ以上、高さは10センチ、パンヤがしっかりと詰めてあるものを選ぶ。

臨済宗では、長い単布団と呼ぶ蒲団を折り返して使うが、バカらしいほど高価であることと、腰が沈んでしまうので勧められない。(大きな座布団が高価なため入手できない人は、できるだけ本綿入りの古い敷き布団を探し、それを二つ折りにして使う方法もある。)

坐禅の組み方

*坐禅の三要素ー身息意

 調身の法 足の組み方 手の組み方

 ー右の手を下に左の手を上にして左の足の上に、置く。「法界定印」という印相である。 熱心に坐禅すると手が崩れるが、気になるようだったら、右手の親指と人差し指で輪をつくり、そこに左手の親指を差し入れ軽く握るようにしてもよい。

姿勢

 腰をしっかりと立てる。下腹が両股の間に入り込むように。 上半身には決して力を入れず、ユッタリとしておく。 首の後ろが伸びるように、軽く顎を引く。顎が上がっているときは、視線も高くなっている場合が多い。 目は、坐禅儀にも「眼は須く常に開くべし」と示されているように、絶対に閉じてはいけない。

調息の法

 坐禅儀には、まず始めに「欠気一息せよ」と示されているように、深呼吸をする。 あとは「鼻息微かに通ず」と示されておりますように、鼻から自然な呼吸をする。

調心の法
道元禅師も「心操を整うること、もっとも難し」と云われていますように、心、意識の状態をどうしたらいいのか、という問題はもっとも難しいものです。

 思いを放ち、さまざまな想念に引き回されないこと。目に映るものにも、耳に聞こえる音にも鼻に匂う香りにも、心に浮かぶ思考にも、あるがままに。それらの一切のことを、相手にせず、邪魔にせず、ただ坐ること。

(詳細は後日に記述します)

気海丹田とは、もともと仙道の言葉。

朽木学道舎の坐禅その他の作法は、基本的には曹洞宗の作法に従います。以下の動画を参考にしてください。



曹洞宗の坐禅・座禅入門

*魔境について

  熱心に坐禅に取り組んでいる人は、坐禅中、さまざなま心境が起こります。具体的に物が見えたり、聞こえたり、恐ろしいことや、素晴らしい光景など。こうしたことは魔境と呼ばれ、驚くに値しません。

かつて学道舎に参禅した50歳くらいの女性、しっかりした高校の先生でしたが、摂心に来られ初日、5,6火主も坐ったら、もうかなりの魔境が出たようで、パニックになったというような例もあります。

坐禅の修行を続けて行く上で害があるような魔境は、自分でも良く認識できますので、いいのですが、素晴らしい境地が現出する場合、人はどうしてもそうしたものに取り憑いてしまう。独参の必要性が、こうした所にもあるわけです。

魔境に対する態度としては、どんな心境が現れても、それは心の作用であり実体はない。ですからその魔境をいっさい相手にせず、邪魔にもせず、ただ随息観なり只管打坐の工夫に徹することが最も大切なことです。

そうやって正しい工夫を相続して行くうちに、もとより虚妄なものですから、追い払おうとしなくとも、消えてなくなります。もっとも、次にはまた違う魔境が、手を替え品を替え現れてきますが。

*坐禅から出るとき 後日に記述します。

*経行(きんひん)について

坐禅から立ち上がり、手は叉手(しゃしゅ)といって右手の親指を中に折って握り、それを鳩尾の上に当て、それを左手の手のひらで覆う。腕を一文字にし、視線は自分の足から2メートルほど前方の床に自然に落とす。歩行禅であるから、随息観、只管打坐など、自分の参じている工夫に三昧で歩くことはもちろんである。

曹洞宗では、一息半歩といい、一呼吸の間に半足分すすむというユックリした歩き方であるのに対して、臨済宗ではトットと小走りに歩く。経行は静中(坐禅中)と動中(日常)をつなぐための修行である。これも一息半歩の曹洞宗の方法が優れている。

*動中の工夫について

動中の工夫
坐禅の大事と題して「せぬときの坐禅を人の知るならば なにか仏の道へだつらん」 至道無難禅師白隠禅師は「動中の工夫は、静中の工夫に勝ること千万倍す」とまで云い、日常の工夫を勧めている。ダルマの探求者には、日常の中に雑用があってはならない。普通の人の日常的な価値観ではつまらないことと思えるような、部屋の掃除であるとか、洗い物のような仕事も、動中の工夫に最適な仕事である。

 仕事でも、何の用事でも、その時にはその仕事に成り切って一所懸命につとめ、少しでも合間ができたときには、椅子に坐っていても腰を延ばして、息を吐ききり、5分でも良いから随息観をする。こうして動中の工夫を相続し、坐禅の静中と日常の動中を平行して進める。

*独参について

 独参は、師家と學人が一対一で問答商量する場である。
*独参の作法ー後日に記述します。

*読書と読経について 「古教照心」の必要性

ダルマサンガの基本経典

初期仏教から 一夜賢者経 過ぎ去れるを 追うことなかれ。 いまだ来たらざるを 念うことなかれ。 過去、そはすでに 捨てられたり。 未来、そはいまだ 到らざるなり。 されば、ただ現在するところのものを、 そのところにおいて … Continue reading

普勧坐禅儀

原(たず)ぬるに、夫(そ)れ道本円通(どうもとえんづう)、争(いか)でか修証(しゅしょう)を仮(か)らん。 宗乗(しゅうじょう)自在、何ぞ功夫(くふう)を費(ついや)さん。 況んや全体逈(はる)かに塵埃(じんない)を出( … Continue reading

Tagged , , , , , , , , , , , , , , , , , , | 坐禅の仕方 はコメントを受け付けていません。

Skypeによる禅の指導

「身心を決択するに自ずから両般有り、参師聞法と功夫坐禅となり。」
『学道用心集』

*スカイプとは、こちら をご覧下さい。

遠方から學道舎に参禅し、その後、なかなか独参を受けられない學人のために、スカイプを使ってインターネット上で指導を受けるられるよう開設されたページです。

禅の修行は、あくまで面受(師家と學人が対坐して、生きた法をやりとりすること)が基本です。ですから、このシステムを使って指導を受ける資格は、一度は學道舎に参禅された経験をお持ちの方が対象です。

ただ、独りで熱心に禅の修行を継続されている方で、遠方に在住し、近くには禅寺もなく、まして正師家の指導を受けたくとも受けられない方で、どうしてもこのシステムを使って指導を受けたいという方は、相談に応じます。

正師家に参ぜず、独りで参禅をすることは、海図もコンパスも持たずに大海原に小舟で漕ぎ出すようなもので、たいへん危険です。

基本的な使い方


  • 1. このサイトの「問い合せフォーム」から、事前の申し込みをして頂きます。學道舎への参禅申し込みと同じように、住所、氏名、年齢、職業、参禅の動機、参禅歴、なぜ朽木學道舎なのか、質問内容、希望の時間 をお知らせ下さい。
 


  • 2. 折り返し、學道舎から返信のメールを差し上げます。申し込みをお受けできる場合にのみ、こちらのスカイプ名を御連絡します。
 


  • 3. メールにて、そちらのスカイプ名をお知らせ下さい。
 


  • 4. お約束の時間までに、パソコンをスタンバイしてスカイプを立ち上げ、ヘッドフォンとマイク、できればライブカメラも準備をしてお待ち下さい。
 


  • 5. できるだけ遅れないように、お約束の時間にこちらから呼び出します。すぐに応答して下さい。
 


  • 6. 後日、「喜捨のお願い」から、献香料としてお気持ちの額を入金して下さい。
 


Skype Me™!

Tagged , , , , , , , , , | Skypeによる禅の指導 はコメントを受け付けていません。

座蒲の頒布

すべらないビロード製で、脚が痛くなりにくい大きめの坐禅用座蒲のご案内

受注中断について

只今、多くのご注文を頂いているにもかかわらず、製作時間がなかなか取れないため、お届け予定を大幅に過ぎても、尚、お待ちいただいている状況となっております。

あまりにも、お待ち頂く期間が長くなってしまっている為、こちらの都合で申し訳ありませんが、一時、受注を中断させて頂きたく存じます。
再開の目処が立ちましたら、このページにてお知らせ致します。
何卒、宜しくお願い申し上げます。


座蒲

學道舎の座蒲



道元禅師は、普勧坐禅儀のなかで「尋常(よのつね)坐処(ざしょ)には厚く坐物(ざもつ)を敷き、上に蒲団を用う」と言われております。

坐物とは大きくて厚い座布団のこと。

蒲団は坐禅の際にお尻の下に敷く、現代では座蒲と呼ばれる丸い円座のことです。

 

曹洞宗の専門僧堂では、この座蒲を用いておりますが、臨済宗では「単蒲団」という座布団を折り返した上にお尻を置いて坐禅します。

言うまでもなく、この丸い座蒲のほうが、安定して坐禅することができます。これは大変重要な坐禅の道具であり、いちばん肝心なものです。

「坐禅は安楽の法門なり」と云われますように、決して苦行ではありません。在家の方が自宅で坐るにしても、この座蒲がとても大切です。

最近では、ネット通販でも手に入るようになりましたが、なかなか良いものが無いようです。その多くは中綿が化繊のために、すぐにヘタり、高さが足りなくなります。

また、何よりも生地が綿布で滑りやすく、坐禅中にお尻がズリ落ちるようになり、無自覚の内にそれを防ごうと余計な力が入り、結果として、腰を痛めるということになりがちです。

ダルマサンガでは、正しい坐禅の普及と學道舎の運営資金の一助にと、高品質の手作りの座蒲をお頒けしております。

 

ダルマサンガ特製座蒲の特徴

 
  • 天然素材にこだわり、中綿にはパンヤを一つにつき1キロ以上使用しています。
  • 表地は起毛された綿100%ビロード製のため、お尻が滑らずに長時間快適に坐ることができます。
  • 臀部だけではなく大腿部の後部まで支える大きさがあり、身体が安定します。
  • しっかりとした二重縫いのため大変丈夫で長持ちします。(一重と二重では、縫製にかかる時間が)全く違います。
  • 名前を入れる白い布は、麻布を使っています。
朽木と大多喜それぞれの學道舎を手伝って下さっている女性参禅者が、接心での調理や畑仕事の合間、自らも坐禅しながら、使われる方の坐禅修行のため、心を込めて一つ一つ、丁寧に製作している座蒲です。

接心や畑仕事などで忙しい時は、作業することはできません。注文を頂きましても、すぐにお渡しすることは不可能です。それでも、本物の座蒲を手に入れたいという方のみ、御注文ください。

これまでの御注文からは、最初に他で購入された座蒲の買い替えの方が多くおられます。また、しばしば二個目の御注文を頂きますが、「素晴らしい坐蒲ですので、何ヶ月掛かっても宜しいので送って下さい。それだけの値打ちが有ります。楽しみに待っております。」等、お褒めの声を頂いております。

良い座蒲は、一生ものです。「安物買いの銭失い」にならないように、最初からシッカリとした良い座蒲を買われることをお勧めします。何よりも、ダルマサンガの座蒲は、法縁によって購入して頂きたいと念願しております。

 

標準のMサイズ(直径約33cm、高さ約20cm)に加え、このたび一回り大きなLサイズ(直径約35cm、高さ約22cm)も始めました。身長の高い方、大柄の方にはこちらをお勧めいたします。

どちらのサイズも、ネームの脇からパンヤを取り出し、高さを調節することが可能です。
  • 良い座蒲を使えば身体が安定し、正しい坐禅が組める。
  • 良い座蒲は身体になじみ、長時間の坐禅でも脚が痛くなりにくい。
坐禅用座蒲

価格
  • :Mサイズ 6,800円
  • :Lサイズ  7,800円 (いずれも税込み)
配送方法と送料
  • ゆうパック
  • 送料着払いにて発送いたします
  • ゆうパック送料はこちらでご確認下さい。
    滋賀県か千葉県からの発送です。
    ゆうパック送料一覧表での発送サイズ(1個)は、Mサイズ、Lサイズいずれも100になります。
支払い方法郵便振替(ゆうちょ銀行)のみ

ご注文は下記↓の緑色のボタンをクリックし、注文フォームよりお申し込みください。


只今、多くのご注文を頂いているにもかかわらず、製作時間がなかなか取れないため、お届け予定を大幅に過ぎても、尚、お待ちいただいている状況となっております。

あまりにも、お待ち頂く期間が長くなってしまっている為、こちらの都合で申し訳ありませんが、一時、受注を中断させて頂きたく存じます。
再開の目処が立ちましたら、學道舎のホームページにてお知らせ致します。
何卒、宜しくお願い申し上げます。

クリックしてください(ご注文の際はクリック) (座蒲申込をコメント欄に書き込まないで下さい)

ご注文確認のメールにて振込先等をお知らせいたします。

購入者の声から

*お世話になっております。本日、座蒲を無事受け取ることができました。

想像以上にパンパンにパンヤが詰まっていて、驚いたと同時に良い物を譲っていただいたと感謝しております。まさしく一生モノとして大切に使わせていただきます。ありがとうございました。(愛知県 男性)

*座蒲をお送りいただきましてありがとうございました。

早速、使用してみたのですが、非常に座りやすく大変満足しております。

これまで、2つほど購入してみたのですが、いずれも厚みが薄く、

長時間座るには違和感を感じておりました。

これからも長く使用していこうと思います。ありがとうございました。(東京都 男性)

*厳暑中 お見舞い申し上げます。

先生が主宰されている學道舎のことは、以前、坐禅堂のことを調べておりましたら、ホームページを発見し知りました。時々拝見しております。

この度、座蒲を御依頼しました処、大変良いものを御紹介頂き有難く存じます。昨今は、大体坐禅の経験が乏しい方が作られるのか、中々良い物がありません。寡人は、兵庫県の田舎の小さなお寺をお預かりしています。(曹洞宗に所属)弊師には、永平寺に上山することを勧められましたが、敢えて地方の某僧堂で安居しました。そこで見つけた座蒲が、今回のものと同様のもので、大変愛用しておりましたが、常什物でしたので、持ち帰ることはできませんでした。(兵庫県 男性)

*昨日、無事に座蒲が届きました。どうもありがとうございます。

背の低い私は、少しパンヤの量を減らして使用させて頂きました。

しっかりと上体を支えてもらえるので、集中しやすかったです。

日々、大事に使いたいと思います。

有難うございました。  (岐阜県 女性)

*過日は接心でお世話になりました。
やはり座蒲は重要です。分厚すぎるくらいがちょうどいいです。(使うにつれてどうしてもへたってきますから)

呼吸もよく通ります。それに高さがあると普段より長い時間の坐禅ができるように感じます。
既にネット販売で購入した座蒲を持っていましたが、やはり高さが足りない(17 cm)し、すぐに潰れるし

(本当にパンヤ100%?)、生地が滑りやすい(木綿)ので、組んだ脚がすぐ痛くなって困っていました。
その点、朽木學道舎の座蒲は、高さ、厚みの持ち具合、生地の具合も持っていた物に比べると断然良いです。

*これからもこの座蒲を使って坐禅修行に励みたいと思います。(京都府 50代男性)

*昨日26日、かわいい包装紙に包まれて、座蒲が着きました。

使ってみたら、前にできなかった脚が組めるようになり本当にシーアワセ、、、です。
フランスの禅道場で三日間参座した際背中の痛みが無くなったので、この座蒲を常用すれば今後モリモリ元気になれるような気がしております。今後も良い製品を提供していただけますよう願っております。

*有難うございました。(フランス 女性)

本日、座蒲が無事に届きました。

Amazonで買うかどうかを悩んだすえ、こちらで購入させていただいたのですが、手にした瞬間に、これを買って正解だったと思いました。

しっかりとした作りで、これなら身長のある私でも、体を安定させて座れそうです。

ありがとうございました。(大阪府 男性)

*5月26日、注文品の「座蒲」を受領しました。しっかりとした座蒲で、大事に使用したいと思います。

あとはこの座蒲に負けないように、坐禅に励まねばと気を引き締められる思いです。

ありがとうございました。 合掌(東京都 男性)

*今日やっと受け取ることができました。たいへんいい感じで気に入りました。集中して座れそうです。
ありがとうございました。(福岡市 男性)

*昨晩無事届きました。ありがとうございます。
今朝坐りました。まことに具合がよく気分は独坐大雄峰。

今まで座布団を2枚それぞれ二つ折りにして重ねて使っておりましたので、大きすぎるとも高すぎるとも感じません。坐り初めに滑ることもずれることもなく、簡単に坐禅に入れますが、硬さと、円形にやや戸惑ってます。座蒲を意識しないで座れるように早くなりたい。
ありがとうございます。(愛知県 男性 58歳 会社員)

ご注文は下記↓の緑色のボタンをクリックしてください。

 

只今、多くのご注文を頂いているにもかかわらず、製作時間がなかなか取れないため、お届け予定を大幅に過ぎても、尚、お待ちいただいている状況となっております。

あまりにも、お待ち頂く期間が長くなってしまっている為、こちらの都合で申し訳ありませんが、一時、受注を中断させて頂きたく存じます。
再開の目処が立ちましたら、學道舎のホームページにてお知らせ致します。
何卒、宜しくお願い申し上げます。

クリックしてください(ご注文の際はクリック)




座蒲に関するお問い合わせ

座蒲に関するお問い合せは以下よりお願いします。

お名前 (必須)

メールアドレス (必須)

メールアドレス (確認用)

※アドレスの書き間違いに気をつけてください。
 自動返信メールが届かない場合は、アドレス間違いの可能性がありますので、迷惑メールフォルダに入っていないか、ご確認頂いた上で再度お申込みください。

件名(必須)

座蒲に関するお問い合わせ内容を記入してください。(※注文フォームではありません。)


Tagged , , , , , , , , , , , , , , , , , , , | 座蒲の頒布 はコメントを受け付けていません。

施設の概要

施設の概要

朽木學道舎



中心施設である草堂は、明治30年に建てられた伝統的な茅葺き民家を創造的に改築し、禪堂として再生したもの。

豪雪によって曲げられた天然杉の太い梁と、檜の五寸柱に支えられた合掌構造の屋根を持つ三層の建物です。

禪堂部分はおよそ32畳の板張り。大きな囲炉裏、高い天井には龍のような梁が交錯し、土壁と無双窓に囲まれた落ち着いた空間です。



草堂の北側と東側の川に面して菜園があり、裏の山側には小さな庫裡、風呂、雪隠があります。

裏の山すそに沿って小川と小道があり、カタクリやヒメザゼンソウ群落のある水源の谷へとつづきます。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大多喜學道舎

大多喜學道舎の建物は、新しい数寄屋風の大きな2階建ての木造建築です。
事情があって完成間近に放置され、十年以上も空家で倉庫のような状態だった建物を買い取り、内外共に整備を進めております。
建坪が90坪近くあり、この建物だけで15人ほどの坐禅、宿泊、食事、独参などの部屋があります。

1
上総中野駅に近く、側の川向うに小湊鉄道の線路が通っておりますが、一日に4本から6本しか列車の運行がなく、それもノンビリしたディーゼル。近くの国道465号線も、通勤時間以外はクルマの通行量も少なく、朝晩は特に静かです。

學道舎の建物は、日当たりの良い高台にあり、風通しと見晴らしの良い気持ちの良い土地です。

4

 

 

 

Tagged , , , , , , , , , | 施設の概要 はコメントを受け付けていません。

質疑応答

質問1 朽木學道舎とはどんな場所ですか。

答え 基本的には禅堂です。

ダルマそのものには出家も在家もありませんが、主として一般の方が本格的に坐禅を実践できるような場として開かれました。坐禅をして精神的な安定を得るというだけなら、どこでもいいわけです。

しかしそれではヨーガがいつの間にか健康や美容のためのものになってしまったと同じように、禅も単なる精神安定剤の代わりになってしまいます。

いまでは宗門の専門僧堂も、そのほとんどが寺院の後継者養成を目的とした、僧になるための修行の場所ですね。

それが良いのか悪いのかあげつらうつもりはありませんが、禅の本来の目的は人間が真の自己に目覚めることによって実存的な苦悩から解放されることです。

朽木學道舎はそのことのみを目的としている場所です。ですからここには難しい細かい規則はありません。ダルマを探究しようとする本人の主体性こそが大切です。

質問2 ではなぜ禅センターとか、朽木禅堂とかの名称にしないのですか。

答え 最初にズバリと言いますが、もともと禅などというものはありません。

現代においてはあたかも禅という何か特別な修行をして、禅に特有な結果がもたらされるというような解釈が一般的ですね。

日本で禅の修行をした外国の方がよく日本の禅は禅臭さ過ぎると言いますが、それに気付くということは大事なことです。禅の本質を理解し始めた証拠ですから。

禅だけではなく、仏教とは自分自身とこの宇宙の存在の本質に目覚めることです。

それは何か新たに獲得されるものではないのです。

わたしたちは日常としてその本質を生きているのですが、自我が自分の存在のすべてであるという思い込みよって、それを自覚することができないのです。

チベット仏教の喩えを借りれば、自我とはもともと青空のように広大な意識の中にできた瘡蓋のようなものです。坐禅をすることでその瘡蓋は自然に脱落して、本来の自分に帰るのです。

われわれの身体を構成している物質が、この宇宙ができたときの物質と同じものであることは、今では子供でも知っている訳ですが、身体が宇宙的なものであるように、意識もまた宇宙より小さいということはないのです。

禅が何か特別なものであるというように誤解されている日本の現状を踏まえて、あえて禅という言葉を使わずに朽木學道舎と命名しました。

さらに言えば、自己を探究することがいままでのように個のなかに閉じられていてはならないのです。

道は歩く人が多くなって初めて道たり得るのです。ですから活動案内にありますように、ダルマを中心として環境や教育の問題を考えるワークショップや研究会なども行うのもそのためです。

質問3 舎主もお坊さんではなく在家のようですが、それも何か理由があるのでしょうか。

答え まず、わたくしはダルマを探究すべく修行してまいりましたが、お坊さんになるための修行はしておりませんし、関心もなかったということです。

現代の日本の社会では出家と言えば、まず何宗のお坊さんかということが問題になりますが、それは仏教の本質には何ら関係のないことです。

日本の仏教は様々な宗派に分裂しているばかりでなく、お坊さんの多くも葬式や法事をその中心的な仕事としているのが現状です。

そうしたことも大切なことですし、別に批判すべきことではないのです。

日本の社会がそれ以外のことを仏教に求めてこなかった結果ですから。 しかし、そうした状況のなかで、自己に目覚めるための実践の場としては、いわゆる既成仏教とは直接的な関係を持たない在家の立場の方が純粋であり得るわけです。

質問4 それでは、いわゆる新興宗教の一つと考えていいのでしょうか。

答え そうではありません。

わたくし自身は曹洞宗や臨済宗の禅堂で坐ってきましたし、インドの日蓮宗寺院でお題目さえ唱えたことがあります。

そのなかで曹洞宗の老師に指導を仰ぎました。もっともその老師も宗派の枠からは自由な方で公案も使いました。

そうした意味で、朽木學道舎は禅の伝統に深く根ざしているわけです。

禅の修行の段階を十枚の絵によって表現した「十牛図」というものがありますが、修行を終えて街に出ていく最後の段階を説明する文章の中に「前賢の途轍に背き」とあります。

ダルマは人が手を付けられるようなものではありませんが、それを伝えようとする社会や人間は、時代とともに変化するものです。

敢えて先人の歩んだ道に背くということが必要になるのです。そのようにして禅は創造的な生命力を保ってきたのです。

禅を学問的に研究したり文化的に取り扱うことも、それはそれで大切なことでしょうが、しかしそれだけではいつも過去に向き合っているばかりで、未来を創造して行く力にはなり得ません。

禅が単なる物好きの趣味や飯の種にしか過ぎないものであるのならば、それで仕方ありません。

しかし、今日の環境破壊や教育の荒廃、人間の自己喪失などが進行する状況のなかでそうであってはならないのです。存在の事実に目覚めることによって、新たなる人間観や世界観を構築しなければなりません。

真に禅を生きた祖師はこう言っております。「宇宙すべてが、自己の身体である」と。

ですから朽木學道舎は新興宗教などとはもっとも遠いものです。

むしろ在家仏教徒の革命運動であった大乗仏教の原像に近いものであり、禅がたくまし生命力を持っていた中国唐代の、薬山や趙州の禅堂のような存在でありたいと念願しているのです。

質問5 坐禅とはそれほどのものなのでしょうか。いったいどれくらい坐ったら、いわゆる悟りを開けるのでしょうか。

答え わたくしがお世話になった老師があるとき独参の場で「お釈迦さまだって本当のことを言ったかどうか分からんじゃないか」と言われたことがあります。

仏教の原点が釈尊の菩提樹の下での坐禅と暁の明星を機縁としての目覚め、その結果としての智慧の開発であることは何人も認めざるを得ないでしょう。

何も坐るだけが坐禅ではありません。歩くことも仕事をすることも坐禅です。しかし地球の鉛直線に脊梁骨を合わせて、呼吸と意識を整え坐るというのが坐禅の基本であるのは言うまでもありません。

この単純な行為がいかに素晴らしいものであるかは、経験したものにしかわかりません。

白隠禅師も「坐禅和讃」のなかで「それ摩訶衍の禅定は賞嘆するに余りあり、布施や持戒諸波羅蜜 念仏懺悔修行等 その品多き諸善行 皆この中に帰するなり」と言っておられますが、それが決して大袈裟なことではないことが分かります。ただ真の指導者のもとで、無理のない正しい坐禅をすることが大切です。

どれくらい坐禅すればという質問ですが、それは自我という瘡蓋が個性によって違うように、あまり意味のある質問ではありません。

しかし何度も申し上げているように、誰でも本質的にはダルマそのものです。柿が秋に熟して、自然に枝から離れて落ちるように、正しい坐禅を相続して行けば、必ず本来の自己に帰り着きます。他にどこにも行きようがないのです。

わたくしも諸方に参禅したおりに、自己に目覚めることなど必要ないかのように、ただいたずらに長時間の坐禅をするだけであったり、あるいは見性を急ぐあまり、青い柿を無理矢理もぎ取るようなことも見聞してまいりましたが、ほんとうに必要なことは、熟すまで持続するということです。

それには正しい指導者に参禅し、ダルマについて聞くことが必須です。指導者がいなければ、天才でもないかぎりこの道を正しく歩むことはできません。そうでなければ、止めておいたほうが無難です。

見性、悟りということは確かに必要なことです。しかし、それは本来の自己に目覚めることであって、何も特別の人間になったり、超能力を獲得することではありません。

目覚めた後には必要ないことです。例えば病気の人が薬を飲んで健康を取り戻したとします。健康な人に薬はいらないばかりか、害毒にさえなります。健康な人は、自分が健康であることを意識しません。

こうしたことは、それを経験した者にしかわかりません。難しいのは悟りを開くことより、むしろそれを忘れることです。

誰でもようやく達成した結果にしがみつくのは人情ですが、その間違いを指摘してくれる人は容易にはおりません。

Tagged , , , , , , , , , , , , | 質疑応答 はコメントを受け付けていません。

ダルマサンガとは

※ 朽木學道舎は、平成25年春の大多喜學道舎開単にともない、全体の名称を「ダルマサンガ」に変更し、滋賀県朽木、千葉県大多喜の2ヶ所の學道舎の体制に移行します。zendo

ダルマサンガとは、自己と宇宙の探求の場ーほんらいすべての人の心に内在している叡知に目覚め、根源的な自由と平和を生きようとする、あらゆる人びとのために開かれた小さな学校です。

音が音楽から離れることができないように、個人も宇宙もほんらいダルマそのものであり、その本質は同一です。つまり、この宇宙のなかのすべてのものは、それぞれミクロコスモスであり、マクロコスモスとしての宇宙を完全に反映しているのです。その意味で人間のみならず、あらゆるものはそれぞれ宇宙の中心なのです。

これはなにか非日常的な世界の中に逃避するような特殊な経験ではなく、あるがままの自己を経験すること。自我とは別の意味で、宇宙の中心としての自己を生きることにほかなりません。

ゴータマ・ブッダは、その最後の説法に「自らの力で救いの道を切り開きなさい。他人に頼ってはいけません」という言葉を残されたと伝えられております。ダルマに目覚めるということは、特定の宗教指導者や教えに盲目的に隷属するようなことからは、もっとも遠いものです。

ダルマサンガは、東洋の優れた精神の伝統である禪に深く根ざしており、多大な恩恵を蒙ってはおりますが、いかなる特定の宗派や教団に所属するものではありません。またいかなる団体や組織を構成するものでもありません。なぜならダルマは、なにか特定の宗派や哲学ではありませんし、また一つの文化や時代、地域、民族などに依存するものでもないからです。

共に道を學ぶ仲間の友愛によって「サンガ」が形成されるのはもちろんですが、精神の自由を希求する人々が集い、真の自己に目覚めるために坐禪や作務、山歩きなどの実践を共にし、行事が終ればそれぞれの場に帰って行く、そうした開かれた空間です。

洪水のような情報の氾濫と物質主義のなか、精神の貧困化と奴隷化による人間の自己喪失は進行し、大地や、水、空気といった自らの生命の基盤さえわれわれは破壊するに至っております。いま最も必要とされることは、一人でも多くの方が自己自身の存在の事実、この宇宙のなかのすべてのものは本来一体であり、相互に依存し合って存在しているという真理に目覚めることです。

社会がひとりひとりの個人から構成されている以上、個人の内面的な成長をとうしてしか、より良い社会が生まれることは有り得ません。世界をほんとうに変えるための、ただ一つの現実的な場所は個人であり、すべてそこから出発する必要があります。このささやかなサンガに集うすべての人が、内なる叡知に目覚め、真の自由と平和を生きられますように、どんなに願うかわかりません。合 掌

ダルマサンガ 師家    飯高転石  九拝

 

 

*ダルマサンガのニューズメール「風轍」の購読はこちらから


 



 

Tagged , , , , , , , , , , , , , | ダルマサンガとは はコメントを受け付けていません。