質問1 朽木學道舎とはどんな場所ですか。
答え 基本的には禅堂です。
ダルマそのものには出家も在家もありませんが、主として一般の方が本格的に坐禅を実践できるような場として開かれました。坐禅をして精神的な安定を得るというだけなら、どこでもいいわけです。
しかしそれではヨーガがいつの間にか健康や美容のためのものになってしまったと同じように、禅も単なる精神安定剤の代わりになってしまいます。
いまでは宗門の専門僧堂も、そのほとんどが寺院の後継者養成を目的とした、僧になるための修行の場所ですね。
それが良いのか悪いのかあげつらうつもりはありませんが、禅の本来の目的は人間が真の自己に目覚めることによって実存的な苦悩から解放されることです。
朽木學道舎はそのことのみを目的としている場所です。ですからここには難しい細かい規則はありません。ダルマを探究しようとする本人の主体性こそが大切です。
質問2 ではなぜ禅センターとか、朽木禅堂とかの名称にしないのですか。
答え 最初にズバリと言いますが、もともと禅などというものはありません。
現代においてはあたかも禅という何か特別な修行をして、禅に特有な結果がもたらされるというような解釈が一般的ですね。
日本で禅の修行をした外国の方がよく日本の禅は禅臭さ過ぎると言いますが、それに気付くということは大事なことです。禅の本質を理解し始めた証拠ですから。
禅だけではなく、仏教とは自分自身とこの宇宙の存在の本質に目覚めることです。
それは何か新たに獲得されるものではないのです。
わたしたちは日常としてその本質を生きているのですが、自我が自分の存在のすべてであるという思い込みよって、それを自覚することができないのです。
チベット仏教の喩えを借りれば、自我とはもともと青空のように広大な意識の中にできた瘡蓋のようなものです。坐禅をすることでその瘡蓋は自然に脱落して、本来の自分に帰るのです。
われわれの身体を構成している物質が、この宇宙ができたときの物質と同じものであることは、今では子供でも知っている訳ですが、身体が宇宙的なものであるように、意識もまた宇宙より小さいということはないのです。
禅が何か特別なものであるというように誤解されている日本の現状を踏まえて、あえて禅という言葉を使わずに朽木學道舎と命名しました。
さらに言えば、自己を探究することがいままでのように個のなかに閉じられていてはならないのです。
道は歩く人が多くなって初めて道たり得るのです。ですから活動案内にありますように、ダルマを中心として環境や教育の問題を考えるワークショップや研究会なども行うのもそのためです。
質問3 舎主もお坊さんではなく在家のようですが、それも何か理由があるのでしょうか。
答え まず、わたくしはダルマを探究すべく修行してまいりましたが、お坊さんになるための修行はしておりませんし、関心もなかったということです。
現代の日本の社会では出家と言えば、まず何宗のお坊さんかということが問題になりますが、それは仏教の本質には何ら関係のないことです。
日本の仏教は様々な宗派に分裂しているばかりでなく、お坊さんの多くも葬式や法事をその中心的な仕事としているのが現状です。
そうしたことも大切なことですし、別に批判すべきことではないのです。
日本の社会がそれ以外のことを仏教に求めてこなかった結果ですから。 しかし、そうした状況のなかで、自己に目覚めるための実践の場としては、いわゆる既成仏教とは直接的な関係を持たない在家の立場の方が純粋であり得るわけです。
質問4 それでは、いわゆる新興宗教の一つと考えていいのでしょうか。
答え そうではありません。
わたくし自身は曹洞宗や臨済宗の禅堂で坐ってきましたし、インドの日蓮宗寺院でお題目さえ唱えたことがあります。
そのなかで曹洞宗の老師に指導を仰ぎました。もっともその老師も宗派の枠からは自由な方で公案も使いました。
そうした意味で、朽木學道舎は禅の伝統に深く根ざしているわけです。
禅の修行の段階を十枚の絵によって表現した「十牛図」というものがありますが、修行を終えて街に出ていく最後の段階を説明する文章の中に「前賢の途轍に背き」とあります。
ダルマは人が手を付けられるようなものではありませんが、それを伝えようとする社会や人間は、時代とともに変化するものです。
敢えて先人の歩んだ道に背くということが必要になるのです。そのようにして禅は創造的な生命力を保ってきたのです。
禅を学問的に研究したり文化的に取り扱うことも、それはそれで大切なことでしょうが、しかしそれだけではいつも過去に向き合っているばかりで、未来を創造して行く力にはなり得ません。
禅が単なる物好きの趣味や飯の種にしか過ぎないものであるのならば、それで仕方ありません。
しかし、今日の環境破壊や教育の荒廃、人間の自己喪失などが進行する状況のなかでそうであってはならないのです。存在の事実に目覚めることによって、新たなる人間観や世界観を構築しなければなりません。
真に禅を生きた祖師はこう言っております。「宇宙すべてが、自己の身体である」と。
ですから朽木學道舎は新興宗教などとはもっとも遠いものです。
むしろ在家仏教徒の革命運動であった大乗仏教の原像に近いものであり、禅がたくまし生命力を持っていた中国唐代の、薬山や趙州の禅堂のような存在でありたいと念願しているのです。
質問5 坐禅とはそれほどのものなのでしょうか。いったいどれくらい坐ったら、いわゆる悟りを開けるのでしょうか。
答え わたくしがお世話になった老師があるとき独参の場で「お釈迦さまだって本当のことを言ったかどうか分からんじゃないか」と言われたことがあります。
仏教の原点が釈尊の菩提樹の下での坐禅と暁の明星を機縁としての目覚め、その結果としての智慧の開発であることは何人も認めざるを得ないでしょう。
何も坐るだけが坐禅ではありません。歩くことも仕事をすることも坐禅です。しかし地球の鉛直線に脊梁骨を合わせて、呼吸と意識を整え坐るというのが坐禅の基本であるのは言うまでもありません。
この単純な行為がいかに素晴らしいものであるかは、経験したものにしかわかりません。
白隠禅師も「坐禅和讃」のなかで「それ摩訶衍の禅定は賞嘆するに余りあり、布施や持戒諸波羅蜜 念仏懺悔修行等 その品多き諸善行 皆この中に帰するなり」と言っておられますが、それが決して大袈裟なことではないことが分かります。ただ真の指導者のもとで、無理のない正しい坐禅をすることが大切です。
どれくらい坐禅すればという質問ですが、それは自我という瘡蓋が個性によって違うように、あまり意味のある質問ではありません。
しかし何度も申し上げているように、誰でも本質的にはダルマそのものです。柿が秋に熟して、自然に枝から離れて落ちるように、正しい坐禅を相続して行けば、必ず本来の自己に帰り着きます。他にどこにも行きようがないのです。
わたくしも諸方に参禅したおりに、自己に目覚めることなど必要ないかのように、ただいたずらに長時間の坐禅をするだけであったり、あるいは見性を急ぐあまり、青い柿を無理矢理もぎ取るようなことも見聞してまいりましたが、ほんとうに必要なことは、熟すまで持続するということです。
それには正しい指導者に参禅し、ダルマについて聞くことが必須です。指導者がいなければ、天才でもないかぎりこの道を正しく歩むことはできません。そうでなければ、止めておいたほうが無難です。
見性、悟りということは確かに必要なことです。しかし、それは本来の自己に目覚めることであって、何も特別の人間になったり、超能力を獲得することではありません。
目覚めた後には必要ないことです。例えば病気の人が薬を飲んで健康を取り戻したとします。健康な人に薬はいらないばかりか、害毒にさえなります。健康な人は、自分が健康であることを意識しません。
こうしたことは、それを経験した者にしかわかりません。難しいのは悟りを開くことより、むしろそれを忘れることです。
誰でもようやく達成した結果にしがみつくのは人情ですが、その間違いを指摘してくれる人は容易にはおりません。