施設の概要
中心施設である草堂は、明治30年に建てられた伝統的な茅葺き民家を創造的に改築し、禪堂として再生したもの。豪雪によって曲げられた天然杉の太い梁と、檜の五寸柱に支えられた合掌構造の屋根を持つ三層の建物です。
禪堂部分はおよそ32畳の板張り。大きな囲炉裏、高い天井には龍のような梁が交錯し、土壁と無双窓に囲まれた落ち着いた空間です。
草堂の北側と東側の川に面して菜園があり、裏の山側には小さな庫裡、風呂、雪隠があります。
裏の山すそに沿って小川と小道があり、カタクリやヒメザゼンソウ群落のある水源の谷へとつづきます。
現在新禅堂の建設準備中。朽木学道舎は学道舎の趣旨と活動を理解し支援してくださる有縁の篤志の方々や参禅者の自発的寄進DONATIONによっても支えられている坐禅堂です。
朽木學道舎
滋賀県高島市朽木小入谷263,TEL/FAX0740-38-5173
≪京都から約2時間半の深山の禅堂です JR湖西線・安曇川あどがわ駅からバスを1回乗り継ぎ小入谷(おにゅうだに)バス停下車で徒歩2分≫
もう一つの経路や車での行き方詳細は下記
學道舎への交通
朽木學道舎:高島市朽木小入谷263 TEL/FAX0740-38-5173
JR湖西線安曇川あどがわ駅下車。江若バス「朽木くつき学校前行き」に乗り、「朽木学校前」下車。(バス停は屋根トイレつき。ここのすぐ横にローソン一軒あり)
学校前で高島市営「針畑線 生杉おいすぎ行き」に乗り換え「小入谷おにゅうだに」下車。時刻表は下に書きました。またJR等の乗り換えは大変便利な駅探を使ってください。
高島市営バス針畑線のバスは大変小さいマイクロバスです。保育園児がたくさん乗っている場合は、園の送迎バスのように見えるので、それを見過ごしてしまわないようにご注意ください。
バス下車後は、そのまま上流に向かって徒歩2分道路左側。道路わきに【朽木學道舎 寒山禅堂】の看板があります。
または、京都出町柳(京阪電車終点)から、京都バス10番「朽木学校前行き」に乗車し、「梅の木」下車。60分。1050円。一日2本しかない。
京都バスホームページ ←ここで乗り場地図・時刻表・運賃表が確認できます。
京都バス出町柳駅朽木行き時刻表 7:45発と14:55発 の2本のみ(土日も同じ時間)
梅の木で、16時40分ごろ発の「高島市営バス針畑線 生杉行き」に乗り換えます。市営バスのパス停標識はないので、京都バスの屋根つき停留所で待ちます。「小入谷おにゅうだに」下車。35分。220円。
高島市営バス針畑線のバスは大変小さいマイクロバスです。保育園児がたくさん乗っている場合は、園の送迎バスのように見えるので、それを見過ごしてしまわないようにご注意ください。
自家用車の場合。国道367号線を、梅の木、もしくは三石から入りどちらからも、いちばん奥の集落針畑地区「小入谷」へ。
京都からはR367大原、梅の木を経由して約1時間30分。安曇川からは朽木村市場、三石を経由して約1時間。
※京都から来られる場合、R367の梅ノ木(ここより先は携帯電話が圏外になります)を左折して西に向かい、渓流センターなどを越えて、途中久多の里オートキャンプ場を過ぎたところにある、『草の根農業小学校』の看板(道路わきの看板)の所で(上部の交通案内表示には、生杉方面と書いてあります)必ず右折してください。この辺で迷っても携帯電話はほぼ圏外ですので携帯からは学道舎へは電話できない可能性があります
そのあとは一本道でいちばん奥の集落「小入谷おにゅうだに」へ。バス停「小入谷おにゅうだに」の先100m左側の民家です。
道路際に、「朽木學道舎『寒山禅堂』」の小看板が出ています。
JR湖西線、江若バス、高島市営バス時刻表
JR湖西線時刻表
京都バス
出町柳駅前発、朽木学校前行で葛川(かつらがわ)梅ノ木まで約1時間。ここで高島市営バスに乗り換え。
または、京都バスで、梅ノ木を通り越して朽木学校前まで行くと1時間30分。ここで高島市営バスに乗り換え。
(学校前まで行くと、学校前から、梅ノ木と学校前とはダブルことになります)
出町柳駅前 7:45 14:55
大 原 8:14 15:25
平 8:33 15:44
葛川梅の木 8:50 16:01
朽木学校前 9:08 16:19
帰り
朽木学校前 9:30 17:00
葛川梅の木 9:48 17:19
平 10:05 17:36
大 原 10:24 17:55
出町柳駅前 10:54 18:24
江若バス 「朽木学校前」行か「細川」行
「安曇川駅」発 「朽木学校前」
8:02 8:30
8:38 9:06(平日のみ)
9:02 9:30(日曜、祭日のみ)
10:46 11:14
11:33 12:02
12:45 13:14
14:30 14:58
15:30 15:58
16:27 16:56
17:32 18:00
18:00 18:29
18:33 19:02
19:36 20:04
「朽木学校前から「安曇川駅」行
朽木学校前発 安曇川駅着
7:05 7:33
7:54 8:22
8:17 8:45
9:22(平日のみ) 9:50
9:42(日祭日のみ) 10:10
10:36 11:04
11:39 12:07
12:42 13:10
14:37 15:05
15:34 16:02
16:34 17:02
17:47 18:15
18:17 18:45
高島市営バス――針畑線
朽木学校前発
「生杉」行き 「小入谷」着
8:40 9:17
11:25 12:02
12:40 13:17
16:15 16:52
18:35 19:12
(梅ノ木は学校前から約25分)
「朽木支所」行き 「朽木学校前」着
7:38 8:15
10:23 11:00
13:08 13:45
14:23 15:00
17:53 18:30
琵琶湖に流入する安曇川の支流、針畑川の源流に位置し、日本海と太平洋の分水嶺にそびえる百里ヶ岳の南西の小さな谷間にあります。(滋賀、福井、京都の三府県の境に近い滋賀県西北部)
標高500メートル近い山間部のため、冬季には2メートルもの積雪があり、典型的な雪国です。気候は暖温帯から冷温帯への移行帯に 属し、そのため付近はブナやミズナラ、トチノキ、アシュウスギなどからなる豊かな森林地帯です。
ツキノワグマ、カモシカ、ニホンジカ、キツネ、テンなどの大型ほ乳類。鳥類ではオシドリ、ヤマセミ、カワガラスなどの渓流の鳥アオ ゲラ、コゲラ、ヤマガラなどの森林の鳥が生息し、夏にはカッコー、ホトトギス、ヨタカなどが渡ってきます。さらには、百里ヶ岳の周 辺にはイヌワシ、クマタカなどの猛禽類が生息しております。
朽木學道舎は背後に山を抱えて東に面して建ち、前には針畑川が南流するという優れた地理的環境に恵まれ、また古代より大陸や朝鮮半 島から若狭へと海を渡って来た人々が、奈良や京都の都へと歩いた古くからの街道のそばにあり、歴史的にも象徴的な場所に位置してお ります。
木々の梢を渡る風や、裏の山裾を流れる水の音。ときおり聞こえる鳥やけものたちの鳴き声。漆黒の闇に煌めく星座。雪の中の静寂。雪 解けとともに始まるめくるめくような春の息吹。夏空に浮かぶ白い雲。ホタルの乱舞。秋の紅葉のシンフォニー。 ここにはほんとうの光と闇、そして静寂があります.
生命地域主義
朽木學道舎の位置と環境についてかなり詳しい説明をしているのは、近年、日本でも注目されてきた「生命地域主義」(バイオリージョナリズム)という思想に、舎主が深い共感をおぼえているからです。しかし、この考え方は、日本近代の知識人が様々な西欧思想を深く問い直すことなく、移入紹介してきたようなものではありません。
従来の西洋と東洋、北と南などの文化、政治・経済などの枠組みを越えて、環境の問題は21世紀の最大の問題になりつつあります。誰でも一つの「場所」に生きており、その場所についての深い認識なしに、その土地に根差す確かな生き方をすることは不可能です。
禅を深く探究していきますと、いま自分のいる場所が世界の中心であり、すべての存在はそれぞれ宇宙の中心であることがわかります。逆に言えば、今いるこの「場所」についてを深く知れば知るほど、ほんらい環境の中でさまざまものと一体のものとして生きている自分自身の存在に気づくことができるのです。その気づきは享楽的な一時的な喜びではなく、自己存在が自分を取り巻いている山や川、植物、野生動物などと共鳴して生きているという深い喜びです。
環境文学としての俳句や、生活のすべてを芸術家した茶道などの優れた文化を産み出した日本の文化ですが、禅と同じようにそれが現代社会が直面するさまざまな問題とは別の次元で形骸化してしまっているような現状です。誰でも、一つの場所に根差して深く生きようとすれば、必然的に「生命地域主義」の思想に行き着きます。そうした意味でこの考え方は、人種や国境を超えた普遍的なものです。この思想を通じて、現代社会に生きるわたしたちの存在そのものや、この社会のあり方などを問い直すことができると思います。一つの場所について深く知ることなしに、別の場所について真に知ることはできません。
たんなる知識としてだけでなく、いま自分のいる場所について深く知ることは、生命地域主義の基本です。つまり、その土地の気候を知り、地形つまり川や山について知ることが出発点です。そしてその場所の植生についての認識が必要です。ある植物がどのように分布し、その生態学的な意味を理解する必要があります。さらにその植生の歴史的な背景を知ることです。長い人間と環境の交渉のなかで、植生が変化していたりします。潜在植生がどのようなものであるかにも注意を払う必用があります。つまりその土地で人間がどのように生きてきたかを探るのです。
朽木學道舎では、生命地域主義の観点からこの土地を再認識し、参禅者とその知識や土地との深い共感や喜びを共有したいと思います。そして朽木學道舎のある場所について深く知ることによって、それぞれの人がいま生きている場所について、より深く知ることができるようになればと期待します。
朽木學道舎についての問答
質問1 朽木學道舎とはどんな場所ですか。
答え 基本的には禅堂です。ダルマそのものには出家も在家もありませんが、主として一般の方が本格的に坐禅を実践できるような場として開かれました。坐禅をして精神的な安定を得るというだけなら、どこでもいいわけです。しかしそれではヨーガがいつの間にか健康や美容のためのものになってしまったと同じように、禅も単なる精神安定剤の代わりになってしまいます。
いまでは宗門の専門僧堂も、そのほとんどが寺院の後継者養成を目的とした、僧になるための修行の場所ですね。それが良いのか悪いのかあげつらうつもりはありませんが、禅の本来の目的は人間が真の自己に目覚めることによって実存的な苦悩から解放されることです。朽木學道舎はそのことのみを目的としている場所です。ですからここには難しい細かい規則はありません。ダルマを探究しようとする本人の主体性こそが大切です。
質問2 ではなぜ禅センターとか、朽木禅堂とかの名称にしないのですか。
答え 最初にズバリと言いますが、もともと禅などというものはありません。現代においてはあたかも禅という何か特別な修行をして、禅に特有な結果がもたらされるというような解釈が一般的ですね。日本で禅の修行をした外国の方がよく日本の禅は禅臭さ過ぎると言いますが、それに気付くということは大事なことです。禅の本質を理解し始めた証拠ですから。
禅だけではなく、仏教とは自分自身とこの宇宙の存在の本質に目覚めることです。それは何か新たに獲得されるものではないのです。わたしたちは日常としてその本質を生きているのですが、自我が自分の存在のすべてであるという思い込みよって、それを自覚することができないのです。チベット仏教の喩えを借りれば、自我とはもともと青空のように広大な意識の中にできた瘡蓋のようなものです。坐禅をすることでその瘡蓋は自然に脱落して、本来の自分に帰るのです。われわれの身体を構成している物質が、この宇宙ができたときの物質と同じものであることは、今では子供でも知っている訳ですが、身体が宇宙的なものであるように、意識もまた宇宙より小さいということはないのです。
禅が何か特別なものであるというように誤解されている日本の現状を踏まえて、あえて禅という言葉を使わずに朽木學道舎と命名しました。さらに言えば、自己を探究することがいままでのように個のなかに閉じられていてはならないのです。道は歩く人が多くなって初めて道たり得るのです。ですから活動案内にありますように、ダルマを中心として環境や教育の問題を考えるワークショップや研究会なども行うのもそのためです。
質問3 舎主もお坊さんではなく在家のようですが、それも何か理由があるのでしょうか。
答え まず、わたくしはダルマを探究すべく修行してまいりましたが、お坊さんになるための修行はしておりませんし、関心もなかったということです。現代の日本の社会では出家と言えば、まず何宗のお坊さんかということが問題になりますが、それは仏教の本質には何ら関係のないことです。
日本の仏教は様々な宗派に分裂しているばかりでなく、お坊さんの多くも葬式や法事をその中心的な仕事としているのが現状です。そうしたことも大切なことですし、別に批判すべきことではないのです。日本の社会がそれ以外のことを仏教に求めてこなかった結果ですから。 しかし、そうした状況のなかで、自己に目覚めるための実践の場としては、いわゆる既成仏教とは直接的な関係を持たない在家の立場の方が純粋であり得るわけです。
質問4 それでは、いわゆる新興宗教の一つと考えていいのでしょうか。
答え そうではありません。わたくし自身は曹洞宗や臨済宗の禅堂で坐ってきましたし、インドの日蓮宗寺院でお題目さえ唱えたことがあります。そのなかで曹洞宗の老師に指導を仰ぎました。もっともその老師も宗派の枠からは自由な方で公案も使いました。そうした意味で、朽木學道舎は禅の伝統に深く根ざしているわけです。
禅の修行の段階を十枚の絵によって表現した「十牛図」というものがありますが、修行を終えて街に出ていく最後の段階を説明する文章の中に「前賢の途轍に背き」とあります。ダルマは人が手を付けられるようなものではありませんが、それを伝えようとする社会や人間は、時代とともに変化するものです。敢えて先人の歩んだ道に背くということが必要になるのです。そのようにして禅は創造的な生命力を保ってきたのです。
禅を学問的に研究したり文化的に取り扱うことも、それはそれで大切なことでしょうが、しかしそれだけではいつも過去に向き合っているばかりで、未来を創造して行く力にはなり得ません。禅が単なる物好きの趣味や飯の種にしか過ぎないものであるのならば、それで仕方ありません。しかし、今日の環境破壊や教育の荒廃、人間の自己喪失などが進行する状況のなかでそうであってはならないのです。存在の事実に目覚めることによって、新たなる人間観や世界観を構築しなければなりません。真に禅を生きた祖師はこう言っております。「宇宙すべてが、自己の身体である」と。
ですから朽木學道舎は新興宗教などとはもっとも遠いものです。むしろ在家仏教徒の革命運動であった大乗仏教の原像に近いものであり、禅がたくまし生命力を持っていた中国唐代の、薬山や趙州の禅堂のような存在でありたいと念願しているのです。
質問5 坐禅とはそれほどのものなのでしょうか。いったいどれくらい坐ったら、いわゆる悟りを開けるのでしょうか。
答え わたくしがお世話になった老師があるとき独参の場で「お釈迦さまだって本当のことを言ったかどうか分からんじゃないか」と言われたことがあります。仏教の原点が釈尊の菩提樹の下での坐禅と暁の明星を機縁としての目覚め、その結果としての智慧の開発であることは何人も認めざるを得ないでしょう。
何も坐るだけが坐禅ではありません。歩くことも仕事をすることも坐禅です。しかし地球の鉛直線に脊梁骨を合わせて、呼吸と意識を整え坐るというのが坐禅の基本であるのは言うまでもありません。この単純な行為がいかに素晴らしいものであるかは、経験したものにしかわかりません。白隠禅師も「坐禅和讃」のなかで「それ摩訶衍の禅定は賞嘆するに余りあり、布施や持戒諸波羅蜜 念仏懺悔修行等 その品多き諸善行 皆この中に帰するなり」と言っておられますが、それが決して大袈裟なことではないことが分かります。ただ真の指導者のもとで、無理のない正しい坐禅をすることが大切です。
どれくらい坐禅すればという質問ですが、それは自我という瘡蓋が個性によって違うように、あまり意味のある質問ではありません。しかし何度も申し上げているように、誰でも本質的にはダルマそのものです。柿が秋に熟して、自然に枝から離れて落ちるように、正しい坐禅を相続して行けば、必ず本来の自己に帰り着きます。他にどこにも行きようがないのです。
わたくしも諸方に参禅したおりに、自己に目覚めることなど必要ないかのように、ただいたずらに長時間の坐禅をするだけであったり、あるいは見性を急ぐあまり、青い柿を無理矢理もぎ取るようなことも見聞してまいりましたが、ほんとうに必要なことは、熟すまで持続するということです。それには正しい指導者に参禅し、ダルマについて聞くことが必須です。
指導者がいなければ、天才でもないかぎりこの道を正しく歩むことはできません。そうでなければ、止めておいたほうが無難です。見性、悟りということは確かに必要なことです。しかし、それは本来の自己に目覚めることであって、何も特別の人間になったり、超能力を獲得することではありません。目覚めた後には必要ないことです。例えば病気の人が薬を飲んで健康を取り戻したとします。健康な人に薬はいらないばかりか、害毒にさえなります。健康な人は、自分が健康であることを意識しません。
こうしたことは、それを経験した者にしかわかりません。難しいのは悟りを開くことより、むしろそれを忘れることです。誰でもようやく達成した結果にしがみつくのは人情ですが、その間違いを指摘してくれる人は容易にはおりません。
朽木學道舎は、自己と宇宙の探求の場ーほんらいすべての人の心に内在している叡知に目覚め、根源的な自由と平和を生きようとする、あらゆる人びとのために開かれた小さな茅葺きの学校です。
音が音楽から離れることができないように、個人も宇宙もほんらいダルマそのものであり、その本質は同一です。つまり、この宇宙のなかのすべてのものは、それぞれミクロコスモスであり、マクロコスモスとしての宇宙を完全に反映しているのです。その意味で人間のみならず、あらゆるものはそれぞれ宇宙の中心なのです。
これはなにか非日常的な世界の中に逃避するような特殊な経験ではなく、あるがままの自己を経験すること。自我とは別の意味で、宇宙の中心としての自己を生きることにほかなりません。
釈尊はその最後の説法に「自らの力で救いの道を切り開きなさい。他人に頼ってはいけません」という言葉を残されたと伝えられておりますが、ダルマに目覚めるということは、特定の宗教指導者や教えに盲目的に隷属するようなことからは、もっとも遠いものです。
朽木學道舎は、東洋の優れた精神の伝統である禪に深く根ざしており、多大な恩恵を蒙ってはおりますが、いかなる特定の宗派や教団に所属するものではありません。またいかなる団体や組織を構成するものでもありません。なぜならダルマは、なにか特定の宗派や哲学ではありませんし、また一つの文化や時代、地域、民族などに依存するものでもないからです。
共に道を學ぶ仲間の友愛によって「サンガ」が形成されるのはもちろんですが、精神の自由を希求する人々が集い、真の自己に目覚めるために坐禪や作務、山歩きなどの実践を共にし、行事が終ればそれぞれの場に帰って行く、そうした開かれた空間です。
洪水のような情報の氾濫と物質主義のなか、精神の貧困化と奴隷化による人間の自己喪失は進行し、大地や、水、空気といった自らの生命の基盤さえわれわれは破壊するに至っております。いま最も必要とされることは、一人でも多くの方が自己自身の存在の事実、この宇宙のなかのすべてのものは本来一体であり、相互に依存し合って存在しているという真理に目覚めることです。
社会がひとりひとりの個人から構成されている以上、個人の内面的な成長をとうしてしか、より良い社会が生まれることは有り得ません。世界をほんとうに変えるための、ただ一つの現実的な場所は個人であり、すべてそこから出発する必要があります。このささやかな学道舎に集うすべての人が、内なる叡知に目覚め、真の自由と平和を生きられますように、どんなに願うかわかりません。合 掌
朽木學道舎 師家 飯高転石 九拝