右について。菩提心は、名は多くありますが、ただ一つの心です。
竜樹祖師は、「ただ世間のものごとが生滅してとどまることのない無常ということを観察する心もまた菩提心と名づける」と言っておられます。ということであってみると、さしあたり、この世間の無常を観察する心が、菩提心ということになりましょうか。
まことに、世間の無常(特に死)を観察する時は、吾我というものに執着する心は起りません。名誉、利益を追い求める気持ちも起りません。ただ、時日がたいへん速やかに過ぎ去るのを恐怖るばかりです。
ですから、仏道を修行するには、頭髪に火がついたのを救いのけるように、一刻の猶予もありません。また、身も命も実にもろくはかないことを、と見こう見反省します。
ですから、ひとすじに道に向って修行するには、釈迦牟尼仏が前生に菩薩であられた時、弗沙仏に会いたてまつったよろこびに、片足を爪立て、まばたきもせず、七日七夜の間、一偈をもって仏を讃嘆えた心意気にもならうのです。
たとい天の楽神緊那羅の声や、この世で最も声の美しい鳥といわれる迦陵頻伽が讃嘆えて鳴く声を聞いても、夕べの風がそよと耳もとをかすめたと同じです。たとい古代中国きっての美女といわれる毛嬙・西施ほどの美しく妙なる顔ばせを見ても、風をまつ間の朝露の、ちらりと眼に入ったとおなじです。
目や、耳などの感覚の対象にひき回されて自由を失うことがなくなれば、自然に菩提心の理致にかなりものでしょう。 往古から今に至るまで、真実の教えを聞くことの少ない人や、真実の人を見ることの少ない人の上を見聞すると、多くは名誉、利益を追う心の坑に落ちこんで、永遠に仏道の生命を失っています。
哀れむべく、惜しむべきことです。心得ておかねばならぬことです。 たとい複数(仮の教え)・実数(真実の教え)と分類される多数の大乗教典を読んだとしても、またたとい顕教・密教と分類されるその道の書物の伝承を受けたとしても、名誉、利益を追い求める心をなげすてないうちは、発心と云うことはできないのです。
ある者は、「菩提心とは無上正等覚心という仏のさとりである。名誉を求め、利益を追う心とは関係ない」と言います。
ある者は、「菩提心とは、一念三千の観解―一瞬の念の中に三千の性相(本体と様相)が備わるという天台で説くところの宇宙の見方、考え方―である」と言います。 ある者は、「菩提心とは、一念不生―一瞬の間も真実ならぬ考えがおこらない―という法門がそれである」と言います。
ある者は、「入仏界の心―仏の境地に入った心―が菩提心だ」と言います。 こういった連中は、菩提心を理解しておらず、むやみと菩提心を冒瀆しているのです。仏道の中では、遠い上にも遠いのです。
ためしに、吾我が有ると思う心、名誉・利益を追い求める現在、今の心を反省してみなさい。一念に三千の性相を具足して融通無碍といえますか、どうですか。一念不生の法門を実証していますか、どうですか。
ただあるものといっては、名声を貪り、利益にとりつく妄の念ばかりで、いっこうに、菩提心、道心の一かけらも見当らないではありませんか。 古から、道を得、法を得た聖人が、一般の人を救う手だてとして、世間の人と同じ生き方をされたことはありますが、名誉・利益を追い求める邪念はなかったのです。
聖人には、法に対する執着すらありません、世間的な執着など、なおさらないのです。
ここにいう菩提心とは、前に述べた無常を観察する心こそその第一です。さきに掲げた気違いのさし示すところでは全然ありません。例の「不生の念」とか「三千の性相」とかいう説は、発菩提心してから後の、仏教者としてのすぐれた生き方なのです。
そこのけじめをいいかげんにしてはならないでしょう。たださしあたって、吾我というものを全くなくして、人に知られることなく、ひそかに修行をする、これがすなわち菩提心の親しいあり方です。
ですから、外道(仏教以外の教え)には六十二の間違った考えがあるとされますが、その根本はただ一つ、「我」という実体を認めるところにあります。もし我見―自分という実体があるという考え―が起る時には、静かに坐を組んで、観察しなさい。今、自分の身体、それに伴って内外に有るところのもの、何れを根本としましょう。
身体髪膚といった肉体は父母からもらったものです。赤い血と白いリンパ液は身体中を循環していますが結局は実体のあるものではありません。ですからこれは我―わたしというもの―ではありません。心と意識によって知ることが寿命をつなぎ、出る息、入る息がわたしをささえているわけですが、それらは結局のところどうなのです。
こういうわけですからこれらは我―わたしというもの―ではありません。肉体も精神も呼吸作用も、どれといって、これがわたしだ、といって執りつくべきものは無いではありませんか。迷う者はこの我にとりついて迷い、悟る者はこの我とすっかり手を切ります。であるのに、人は本来無我である我をかぞえ立て、本来不生である生に執着します。
仏道は行じなければならないのに行ぜず、世間的な分別判断は断ち切らなければならないのに断ち切らず、真実の法をきらい、真実でない法を求めます。これでは、どうして間違わずにいられましょう。
原(たず)ぬるに、夫(そ)れ道本円通(どうもとえんづう)、争(いか)でか修証(しゅしょう)を仮(か)らん。
宗乗(しゅうじょう)自在、何ぞ功夫(くふう)を費(ついや)さん。
況んや全体逈(はる)かに塵埃(じんない)を出(い)づ、孰(たれ)か払拭(ほっしき)の手段を信ぜん。
大都(おおよそ)当処(とうじょ)を離れず、豈に修行の脚頭(きゃくとう)を用ふる者ならんや。
然(しか)れども、毫釐(ごうり)も差(しゃ)有れば、天地懸(はるか)に隔り、違順(いじゅん)纔(わず)かに起れば、紛然として心(しん)を(の)失す。
直饒(たとい)、会(え)に誇り、悟(ご)に豊かに、瞥地(べつち)の智通(ちつう)を獲(え)、道(どう)を得、心(しん)を(の)明らめて、衝天の志気(しいき)を挙(こ)し、入頭(にっとう)の辺量に逍遥すと雖も、幾(ほと)んど出身の活路を虧闕(きけつ)す。
矧(いわ)んや彼(か)の祇薗(ぎおん)の生知(しょうち)たる、端坐六年の蹤跡(しょうせき)見つべし。
少林の心印を伝(つた)ふる、面壁九歳(めんぺきくさい)の声名(しょうみょう)、尚ほ聞こゆ。
古聖(こしょう)、既に然り。
今人(こんじん)盍(なん)ぞ辦ぜざる。
所以(ゆえ)に須(すべか)らく言(こと)を尋ね語を逐ふの解行(げぎょう)を休すべし。
須らく囘光返照(えこうへんしょう)の退歩を学すべし。
身心(しんじん)自然(じねん)に脱落して、本来の面目(めんもく)現前(げんぜん)せん。
恁麼(いんも)の事(じ)を得んと欲せば、急に恁麼の事(じ)を務(つと)めよ。
夫れ参禅は静室(じょうしつ)宜しく、飲飡(おんさん)[飲食(おんじき)]節あり、諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪(ぜんなく)を思はず、是非を管すること莫(なか)れ。
心意識の運転を停(や)め、念想観の測量(しきりょう)を止(や)めて、作仏を(と)図ること莫(なか)れ。
豈に坐臥に拘(かか)はらんや。
尋常(よのつね)、坐処には厚く坐物(ざもつ)を(と)敷き、上に蒲団を用ふ。
或(あるい)は結跏趺坐、或は半跏趺坐。
謂はく、結跏趺坐は、先づ右の足を以て左の※(もも)の上に安じ、左の足を右の※(もも)の上に安ず。
半跏趺坐は、但(ただ)左の足を以て右の※(もも)を圧(お)すなり。
寛(ゆる)く衣帯(えたい)を繋(か)けて、斉整(せいせい)ならしむべし。
次に、右の手を左の足の上に安(あん)じ、左の掌(たなごころ)を右の掌の上に安ず。
兩(りょう)の大拇指(だいぼし)、面(むか)ひて相(あい)拄(さそ)ふ。
乃(すなわ)ち、正身端坐(しょうしんたんざ)して、左に側(そばだ)ち右に傾き、前に躬(くぐま)り後(しりえ)に仰ぐことを得ざれ。
耳と肩と対し、鼻と臍(ほぞ)と対せしめんことを要す。
舌、上の腭(あぎと)に掛けて、脣歯(しんし)相(あい)著け、目は須らく常に開くべし。
鼻息(びそく)、微かに通じ、身相(しんそう)既に調へて、欠気一息(かんきいっそく)し、左右搖振(ようしん)して、兀兀(ごつごつ)として坐定(ざじょう)して、箇(こ)の不思量底を思量せよ。
不思量底(ふしりょうてい)、如何(いかん)が思量せん。
非思量。
此れ乃ち坐禅の要術なり。
所謂(いわゆる)坐禅は、習禅には非ず。
唯、是れ安楽の法門なり。
菩提を究尽(ぐうじん)するの修證(しゅしょう)なり。
公案現成(こうあんげんじょう)、籮籠(らろう)未だ到らず。
若(も)し此の意を得ば、龍の水を得たるが如く、虎の山に靠(よ)るに似たり。
當(まさ)に知るべし、正法(しょうぼう)自(おのずか)ら現前し、昏散(こんさん)先づ撲落(ぼくらく)することを。
若し坐より起(た)たば、徐々として身を動かし、安祥(あんしょう)として起つべし。
卒暴(そつぼう)なるべからず。
嘗て観る、超凡越聖(ちょうぼんおつしょう)、坐脱立亡(ざだつりゅうぼう)も、此の力に一任することを。
況んや復た指竿針鎚(しかんしんつい)を拈(ねん)ずるの転機、払拳棒喝(ほっけんぼうかつ)を挙(こ)するの証契(しょうかい)も、未(いま)だ是れ思量分別の能く解(げ)する所にあらず。
豈に神通修証(じんずうしゅしょう)の能く知る所とせんや。
声色(しょうしき)の外(ほか)の威儀たるべし。
那(なん)ぞ知見の前(さき)の軌則(きそく)に非ざる者ならんや。
然(しか)れば則ち、上智下愚を論ぜず、利人鈍者を簡(えら)ぶこと莫(な)かれ。
専一(せんいつ)に功夫(くふう)せば、正に是れ辦道なり。
修証(しゅしょう)は自(おの)づから染汙(せんな)せず、趣向更に是れ平常(びょうじょう)なる者なり。
凡(およ)そ夫れ、自界他方、西天東地(さいてんとうち)、等しく仏印(ぶつちん)を持(じ)し、一(もっぱ)ら宗風(しゅうふう)を擅(ほしいまま)にす。
唯、打坐(たざ)を務めて、兀地(ごっち)に礙(さ)へらる。
万別千差(ばんべつせんしゃ)と謂ふと雖も、祗管(しかん)に参禅辦道すべし。
何ぞ自家(じけ)の坐牀(ざしょう)を抛卻(ほうきゃく)して、謾(みだ)りに他国の塵境に去来せん。
若し一歩を錯(あやま)らば、当面に蹉過(しゃか)す。
既に人身(にんしん)の機要を得たり、虚しく光陰を度(わた)ること莫(な)かれ。
仏道の要機を保任(ほにん)す、誰(たれ)か浪(みだ)り石火を楽しまん。
加以(しかのみならず)、形質(ぎょうしつ)は(た)草露の如く、運命は電光に似たり。
倐忽(しくこつ)として便(すなわ)ち空(くう)じ、須臾(しゅゆ)に即ち失(しっ)す。
冀(こいねが)はくは其れ参学の高流(こうる)、久しく摸象(もぞう)に習つて、真龍を怪しむこと勿(なか)れ。
直指(じきし)端的の道(どう)に精進し、絶学無為の人を尊貴し、仏々(ぶつぶつ)の菩提に合沓(がっとう)し、祖々の三昧(ざんまい)を嫡嗣(てきし)せよ。
久しく恁麼(いんも)なることを為さば、須(すべか)らく是れ恁麼なるべし。
宝蔵自(おのずか)ら開けて、受用(じゅよう)如意(にょい)ならん。
合掌
おはようございます。
「秋分大摂心」も今日で最終日ですね。
先に帰りましたが、皆さんと一緒に坐っているつもりで、この3日間を過ごしていました。
今朝、暁天坐を終えて、しばらくして日課となっている、飼い猫を階段で遊ばせるために玄関を開けて、外に出ました。(家は団地の5階なので、階段の踊り場からは周辺がよく見渡せます) 家の周りは、T市の外れのためか、変電所や、ゴミ焼却場がすぐ近くにあります。変電所に近いため、周りは鉄塔だらけ。
空はいつも沢山の鉄塔と電線に遮られています。 今までは、それが嫌で嫌でたまらなかったのですが、今朝、夜明け前の澄み切った空の中の鉄塔を見たとき、なんというのでしょうか、「只這是」(ただこのとおり)としか言いようのない見え方で、鉄塔が見えてしまいました。
今まで、何を見ていたのでしょうか?何も見てはいなかったのだなぁ…とつくづく思いました。 それから、何回か鉄塔を見てみるのですが、やはり、鉄塔は鉄塔として、只あるがまま。醜いものでも、忌むべきものでもなくなってしまっていました。
今までは、自分にとって嫌なものなので、風景の中から、切り取って見てしまっていたのだと思います。 初めて、「只這是」で見えたとき、鉄塔を、美しいとさえ、感じました。なんだか、とても優雅に佇んでいる様にすら見えました。
びっくりしてしまって、何度も何度も見るのですが、やはり、すっかり、力も抜けたような様子で、ただ立っている鉄塔たちが存在しているのです。 もうひとつ、びっくりしたことは、鏡を(鏡の中の自分を)見るのが嫌ではなくなっていることでした。
鉄塔が鉄塔として見えた後、炊事場の横の鏡に、ふっと目が止まりました。 鏡の中には、私が映っていました。とても静かな気持ちで見ることが出来ました。そんな風に自分を見たのは初めてのことでした。
「私ってこんな顔をしていたんだ…」 とても冷静に見ることが出来ました。今までは、鏡で自分を映して見るのがあまり好きではなく、 今朝のように、ただただそのまま自分を見ることが出来たのは、初めてでした。 心だけ参加していたような、後半の3日間も、坐禅のうちに数えてもらっていたのでしょうか。そんな今朝の出来事でした。
そして、最後にもう一つ。20年前に、とても大きな悲しみを得ましたが、ずーっと、ずーっと、いまだにまるで、昨日のことのように苦しかったのですが、それが、今朝のその二つの出来事の後、思い返してみても、胸の痛みも、悲しみも、今までのように苦しくはなくなってしまっていました。
以前、老師が教えてくださったように、これが、「空ぜられる」ということなんでしょうか? なんだか、不思議な感じですが、とても、楽になりました。 秋分大摂心、本当にありがとうございました。 M 拝
老師へ
もうすぐ職場に着きますが、今朝の鉄塔は、私にとっては、2回目の斧に当たる出来事だったのかもしれません。
あのあと、いろんな物が目に入ってきて、こんなに様々なものが存在していたの!?…というビックリと、
様々なものが均等に見えていると言ったらいいのか、今まで嫌だったものが目に入っても嫌な感じではなく、
反対に、好きだったものが目に入っても、それだけが飛び切り目立って見える訳でもなく、
なんだか
当たり前のものが当たり前に見えているような…
今まで、薄皮一枚通して見ていたような、その薄皮が剥がれてしまったような
なんかいつもと違う感じで
でも、当たり前で…
なんか不思議な感じです。
老師、本当にありがとうございます。
今回は、しみじみうれしいです。
そしてありがたい気持ちでいっぱいです。
九拝