CATEGORY

雑記

大多喜學道舎の禅堂工事完了

大多喜學道舎の禅堂が完成しました。 一昨年から進めて参りました大多喜學道舎の禅堂工事が一段落し、参禅者を迎えることができるようになりましたので、お知らせします。 一昨年12月の不動産購入後、昨年は朽木での摂心や屋根の葺替え工事などの合間に、月に1週間から10日ほど大多喜に滞在し、電気水道はもちろんトイレもないような状態の中、十数年空家だった倉庫状態の家に寝泊まりし、建物内外の片付けや、生えこんだ周辺の樹木の伐採・剪定などに明け暮れました。 その後、年末年始の「成道会摂心」を済ませた後、大多喜へ出向き、この冬はまず電気工事を済ませ、引き続き水道とトイレ、ガス工事を完了し、3月下旬から大工さんと共 […]

2011年「入梅摂心会」の日程

平成23年「入梅摂心会」は、6月6日(月)〜6月12日(日)正午まで。 6月は連休がありませんので、例年、参禅者も少なく、とても静かな摂心となります。 夏至を間近に控えた下界では、晴れるととても暑い季節ですが、學道舎のあたりは、まだ新緑の美しい涼しい頃です。 暑くもなく、寒くもなく、特に初心の方にとっては参禅の好時節です。  

施設の概要

施設の概要 中心施設である草堂は、明治30年に建てられた伝統的な茅葺き民家を創造的に改築し、禪堂として再生したもの。豪雪によって曲げられた天然杉の太い梁と、檜の五寸柱に支えられた合掌構造の屋根を持つ三層の建物です。 禪堂部分はおよそ32畳の板張り。大きな囲炉裏、高い天井には龍のような梁が交錯し、土壁と無双窓に囲まれた落ち着いた空間です。 草堂の北側と東側の川に面して菜園があり、裏の山側には小さな庫裡、風呂、雪隠があります。 裏の山すそに沿って小川と小道があり、カタクリやヒメザゼンソウ群落のある水源の谷へとつづきます。 現在新禅堂の建設準備中。朽木学道舎は学道舎の趣旨と活動を理解し支援してくださ […]

學道舎への交通案内

朽木學道舎 滋賀県高島市朽木小入谷263,TEL/FAX0740-38-5173 ≪京都から約2時間半の深山の禅堂です JR湖西線・安曇川あどがわ駅からバスを1回乗り継ぎ小入谷(おにゅうだに)バス停下車で徒歩2分≫ もう一つの経路や車での行き方詳細は下記 學道舎への交通 朽木學道舎:高島市朽木小入谷263 TEL/FAX0740-38-5173 JR湖西線安曇川あどがわ駅下車。江若バス「朽木くつき学校前行き」に乗り、「朽木学校前」下車。(バス停は屋根トイレつき。ここのすぐ横にローソン一軒あり) 学校前で高島市営「針畑線 生杉おいすぎ行き」に乗り換え「小入谷おにゅうだに」下車。時刻表は下に書きま […]

學道舎の位置と環境

琵琶湖に流入する安曇川の支流、針畑川の源流に位置し、日本海と太平洋の分水嶺にそびえる百里ヶ岳の南西の小さな谷間にあります。(滋賀、福井、京都の三府県の境に近い滋賀県西北部) 標高500メートル近い山間部のため、冬季には2メートルもの積雪があり、典型的な雪国です。気候は暖温帯から冷温帯への移行帯に 属し、そのため付近はブナやミズナラ、トチノキ、アシュウスギなどからなる豊かな森林地帯です。 ツキノワグマ、カモシカ、ニホンジカ、キツネ、テンなどの大型ほ乳類。鳥類ではオシドリ、ヤマセミ、カワガラスなどの渓流の鳥アオ ゲラ、コゲラ、ヤマガラなどの森林の鳥が生息し、夏にはカッコー、ホトトギス、ヨタカなどが […]

學道舎についての問答

朽木學道舎についての問答 質問1 朽木學道舎とはどんな場所ですか。 答え 基本的には禅堂です。ダルマそのものには出家も在家もありませんが、主として一般の方が本格的に坐禅を実践できるような場として開かれました。坐禅をして精神的な安定を得るというだけなら、どこでもいいわけです。しかしそれではヨーガがいつの間にか健康や美容のためのものになってしまったと同じように、禅も単なる精神安定剤の代わりになってしまいます。 いまでは宗門の専門僧堂も、そのほとんどが寺院の後継者養成を目的とした、僧になるための修行の場所ですね。それが良いのか悪いのかあげつらうつもりはありませんが、禅の本来の目的は人間が真の自己に目 […]

朽木學道舎について

朽木學道舎は、自己と宇宙の探求の場ーほんらいすべての人の心に内在している叡知に目覚め、根源的な自由と平和を生きようとする、あらゆる人びとのために開かれた小さな茅葺きの学校です。 音が音楽から離れることができないように、個人も宇宙もほんらいダルマそのものであり、その本質は同一です。つまり、この宇宙のなかのすべてのものは、それぞれミクロコスモスであり、マクロコスモスとしての宇宙を完全に反映しているのです。その意味で人間のみならず、あらゆるものはそれぞれ宇宙の中心なのです。 これはなにか非日常的な世界の中に逃避するような特殊な経験ではなく、あるがままの自己を経験すること。自我とは別の意味で、宇宙の中 […]

>