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七日間摂心体験記

2008年朽木學道舎 灌仏会大摂心会(大接心)に参加して

はじめに
禅はむやみに厳しいものではない
前 夜
第一日
坐禅を組みっぱなしではない
二日目
三日目
四日目
提唱
坐禅による意識の深化
坐禅の妨げ
独参とは
食事
夜 坐
摂心で修行する意義
五日目、六日目
最終日
摂心終了後
その後
八日目
正 師
はじめて摂心する人へ
現代における禅


はじめに

まず、前置きになりますが、この灌仏会大接心の感想は、接心の個人的な体験記であると共に、接心に参加されたことのない方、また坐禪に関心がありながら、禪の敷居の高さに実際に参禅することをためらわれているような方の為に、接心というものが実際にどのように行われているのか、また実際の参禪はどのようなものなのか、そのガイドのような形で書いていきたいと思います。

多くの方にとって、禅や禅寺、禅道の持つイメージ、その禪の敷居は高過ぎ、近寄りがたいものに感じられていると思います。
ましてや、摂心で朝から晩まで坐り続けるなど、とても普通の人には不可能なことだと思われるのが普通かもしれません。

私にとっても、実際に参禪に赴くまでは、禅の敷居はとてつもなく高いものでした。
何か一言でも質問をしたものなら、すぐさま警策をもって打ち据えられるような、そんなイメージがありました。


禅はむやみに厳しいものではない

そうした、禪に対する固定化されたイメージの為に、かつての自分のように、禪に関心を持ちながら、実際の参禪を躊躇われている方がいるとしたら、非常に残念なことです。実際に参禪して感じられるものは、そうした禪のイメージとは、全く違ったものです。
かつて朽木学道舎での七日間の摂心が、私の初めての坐禪であり、参禪となりましたが、坐禪の経験がない、全く初めての方でも、坐禪に何か求めるものがあってこられた方であるならば、七日間を坐ることは決して難しいことではありません。

そうした方の為に、かつて私も禪の敷居の高さに参禪を躊躇った者として、実際の参禅はどのようなものなのか、少々長くなると思いますが、その点においてなるべく詳しく体験記を書きたいと思います。

私が朽木学道舎へ参禪するようになってから、3年程になります。坐禪そのものの経験も、それまでありませんでしたので、3年ということになります。
お盆、ゴールデンウイーク等の連休にはよく摂心に参加させて頂いており、また學道舎へ参禪されている方の中では、一番家が近い方ですので、週末の休みや少し長い連休が取れた時にも、時間の都合が取れる時は、参禅させてもらっています。


前 夜

今回の灌仏会大摂心には、7日間を通して参加させてもらいました。
29日に仕事を終えて、車で夜9時前に學道舎に到着すると、7日間参加される方は少なく、今回のゴールデンウイークは、連続して休みが取りにくい形になっているので、多くの方は5月2日から5日間参加されるということでした。
摂心は明日30日の朝から正式に始まりますが、私自身も比較的時間の都合を取りやすい仕事をしているとはいえ、やはりこうした機会は、そうそうありませんので、既に始まったものと気を引き締め、11時過ぎまで坐ってその日は休みました。


第一日

あくる朝30日より、摂心が始まりました。

摂心のスケジュールは、夏時間なので、4時振鈴(起床)、4時20分より二炷(一炷(いっちゅう)は約40分)の坐禪、7時に粥座(朝食)、8時20分より三炷の坐禪、11時半に斎座(昼食)、13時20分より三炷の坐禪、16時30分より薬石(夕食)、18時20分より三炷の坐禪、一日の最後に四弘誓願文(しぐせいがんもん)と普回向(ふえこう)を読んで、21時以降は随座、22時に開枕(就寝)となります。

一日の最後に読む四弘誓願文と普回向を掲載します。四弘誓願文は三度読みます。

四弘誓願文

衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)

煩悩無尽誓願断(ぼんのうむじんせいがんだん)

法門無量誓願学(ほうもんむりょうせいがんがく)

仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)

(意味)

生命あるものは限りなけれども、誓ってみちびかんことを願う

わずらいなやみは、尽くることなけれども、誓って断ちきらんことを願う

ことわりのかずは、はかりなけれども、誓って学ばんことを願う

さとりの道ははるかなけれども、誓って成し遂げんことを願う

 

普回向

願(ねが)わくは此(こ)の功徳(くどく)を以(も)つて

普(あまね)く一切(いつさい)に及(およ)ぼし、

我等(われら)と衆生(しゅじょう)と、皆共(みなとも)に仏道(ぶつどう)を成(じよう)ぜんことを。

十方(じーほー)三世(さんしー)一切佛(いーしーふー)

諸尊(しーそん)菩薩(ぶーさー)摩可薩(もーこーさー)

摩可(もこ)般若(ほじゃー)波羅密(ほろみー)

(意味)

若しも願うことが可能であるならば、今此処に積み上げた成果を

広く一切のものに及ぼし

われわれ自身と全ての生物とが

皆一緒に釈尊の教えを達成する事が出来るように願いたい

あらゆる方角における過去,現在、未来のあらゆる仏(ほとけ)

多数の仏道修行者、偉大な人々

真実に向かう為の偉大な知恵


坐禅を組みっぱなしではない

一炷と一炷の間には径行(きんひん、歩行禪)と(ちゅうかい、足を休めたり、手洗いに行く時間)が20分間あります。一日に一度独参と提唱があります。

こうしてスケジュールを見ると、摂心に参加されたことのない方は、早朝から夜までびっしりと坐禪をしているように見えて、普通の人にはとても無理なように感じると思いますが、食時の後には、約一時間半の空き時間があります。

坐禪の経験者は少し休んだ後坐ったりもしますが、初心の方が無理をする必要はなく、この時間はゆっくりと体を休めたり、外を少し遠くまで散歩することもできます。坐禪と坐禪の間の抽解の時間も、20分あるので、その間別室で横になって体を休めたり、縁側で体を楽にしたり、外の椅子に坐って景色を眺めたり、外を少し歩いたりも出来ます。

禪堂の玄関の土間には、各自で御茶が飲めるようにしてあり、抽解等の時間には自由に飲むことができます。ごく簡単にですが紅茶やコーヒーも飲めるようにしてあります。
老師の奥様が手作りされた御菓子が置かれる事もあります。

そういった感じで、坐禪以外の時間も充分あり、その時間はゆったりしたものです。摂心中、ただ厳しい雰囲気のみが禪堂を支配しているということはありません。

30日からの参加者はまだ少なく、また初心の方もおられませんでしたので、他の方がこられる2日までは、一炷の始まりと終わりの鐘は打たず、めいめいが坐れる長さだけ自由に坐り、足が痛くなったら自由に抽解を取り、又坐る形になりました。

坐禅に多少習熟してきますと、一炷以上の時間を坐ることも、難しいことではなくなってきます。
一炷ごとに鐘を打つと、かえって坐禪が途切れ途切れになってしまうので、朽木學道舎では、人が多いときは無理ですが、それほど多くない時は、しばしばこうした形をとります。


二日目

最初の一日目、二日目は、より徹底して坐る意味で、それぞれが自分に合った時間で坐るということになりましたので、私は禪堂内で坐る他にも、早朝や晩は外で坐ったりもしました。
學道舎の裏手の山は、途中まで15分程で登れる道がついているのですが、その行き止まりまで上って、大きな杉の大木の下に、じかに、坐布を用いず、すぐ横を流れるせせらぎの音を聞きながら、坐ったりしました。

また朽木学道舎の前の川に渡された、大きな丸太二本を渡して作られている、橋の上で坐ってみたり、川べりで坐ったりもしました。その橋は、昨年の夏に老師が参禪者と渡したものです。

一日目はまだ、川上にある大きな桜の木は、花を付けていて、非常に美しい佇まいを見せていました。
二日目はわずかの風に、花が舞い落ちていくのを見ました。桜の花びらが絶え間なく川面を流れていく中、カジカの独特の鳴き声とせせらぎの音を聞きながら、橋の上で坐りました。
三日目には、花は全て散ってしまいました。

こうして文章に書くと、何か美しさに酔っているかのように見えてしまいますが、他の時ならともかく、摂心の時はそういった余裕はありません。

普段の生活を離れて、こうした自然環境の中で一週間を過ごすだけでも、何らかの気付きといったものが得られるかもしれませんが、こうして一週間坐り通せる機会というのは一年において、また人生においても、そうあるものとは限りませんので、油断なく呼吸を見つめることに徹します。
初心の内は外の環境にどうしても注意が引きずられますが、そうしたことも無くなれば、ただ呼吸を見つめることに徹底するのみです。

もちろん、自然の移り変わりに対して敏感であり、無常に気づくこともまた、大変な修行であることに変わりはありません。それゆえ、古人も修行の場として、山深い場所を選んできたものと思います。

七日間を坐る摂心では、個人差はありますが、だいたい三日目が峠となります。一日目はそれほど苦もなく坐れますが、同じ姿勢を維持する為、二日目、三日目と足の痛み、人によっては腰など他の部分の体の痛みもだんだん増して行きます。

その三日目までをしっかり坐っておくと、峠を越えた四日目からは、痛みはありながらも、痛みと共に坐れる状態と言うのでしょうか、耐えられない痛みといった感じではなくなります。ここからやっと、禪の本当の醍醐味が感じられるようになってきます。
ですので、一泊から三泊の坐禅では、なかなかそこまで届きません。三日間の坐禪だと、痛みの峠をやっと終えてこれから、というところで終了になってしまい、非常に勿体無いのです。

四日目以降は坐禪中、全く足の痛みを感じない時もあります。また姿勢を維持し続けることにも、全く力が要らない、そういった状態になったりします。
そういった状態を、定力じょうりきがつく、禪定ぜんじょう力がつくと言います。定とは、簡単に言えば三昧サマーディーを意味します。

今回の摂心は定の深まりが早く、二日で峠を越したようで、三日目からは抽解に足を休めなくても、一炷目から次の食事の時間まで、三炷を通して坐れるようになりました。一炷が終わって鐘が鳴っても、このまま次の回も坐れる、続けて坐りたいと思えば、径行と抽解に坐を立つ必要はありません。

もちろん、坐禪は足の痛みを我慢することが目的でもなく、当然のことながら、我慢大会でも何でもありませんので、うまく姿勢が維持し続けられない時、足が痛い時は、抽解の時に足を休めます。

坐禪が深まってくるとでも言うのでしょうか、定力がつきはじめると、意識の上でも様々な変化を感じることになります。


三日目

摂心の三日目、5月2日には、今回の摂心に参加される大半の方が揃いました。
摂心の参加者は、いつもだいたい男性と女性が半々といった感じです。三日目からは、人も多くなりましたので、一炷ごとに鐘を打つ形になりました。
その一炷の始まり(止静)と終わりの鐘は参禪者が交代で打ちます。専門僧堂では、女性が鐘を打つことはありませんが、ここでは男性、女性、関係なく交代で順番に鐘を打ってもらいます。

坐っている時は、自分の坐禪の変化、深まりというものは、案外あまり分からないものですが、定が深まってくると、鐘を打った時に、安定して、澄んだ音が出るようになります。そうした変化に気づくことも、とても重要です。聞こえ方も変わってきます。

摂心のおよそ三日目までは、前述したとおり、体の痛みなどで、楽なものであるとは言い難いものです。そういった痛みも、坐禅を継続していく内に、だいぶ慣れてしまうものなのですが、初めの内は特に厳しいものに感じられると思います。
不思議なことなのですが、既に定力がついて、非常に深く、静かに、落ち着いて坐っている人が、一緒に坐っていると、その人の定に同調する、引き寄せられるという感じでしょうか、それほど坐禪の経験のない方でも、三日もかからずに深く坐ることが出来るようになります。

こうしたことは一人で坐っている時には起こりえないものです。
もちろん、新しく見えられた参禪者の方々が、深い問題意識を持って坐禅に向かわれているからこそであることは、言うまでもありません。

新しく参禪者の方が来られれば、坐っていても禪堂内に多少ざわつきがあるものですが、その日から禪堂内は非常に静かでした。
とても不思議に感じられる程の静けさでした。

一日目、二日目は朝晩の冷え込みが厳しく、セーターを着て、毛布を羽織って坐りました。三日目以降は朝晩の冷え込みも、ずいぶん少なくなりました。昼はセーターや毛布があるとかえって暑すぎるので、外さなければならず、そうするとまた徐々に体が冷えてきたりして、こうした季節の方がかえって風邪を引きやすいので、注意が必要でした。

摂心中、5月5日に雨が降った以外は、良い天気が続きました。禪堂の中で坐っていても、少しだけ冷たい、気持ちのいい春の風が、無双窓から禅堂の中にも入ってきて、頬を撫でていくのを感じました。

日本の伝統的な造りをしている茅葺の禅堂は、多くの光は入らないようになっており、無双窓から差し込む春の光は、とても静謐で、坐禅を助けるものであるように思いました。

そのように禪堂内の空気も、冬の禪堂の空気とは全く違ったものでした。
その空間の中に、衝立を前にして、参禪者がほとんど何の音も立てずに、坐っていました。
人が集まることで、かえって静寂は更に深まり、密度を増しているように感じました。

摂心中、参禪者同士は話をすることも、目を合わすことさえありませんが、その深まりゆく静寂の中で、何か本当に深く共有しているものが、あるような気がしてなりませんでした。


四日目

摂心の四日目、5月3日には、一月に亡くなられた御父様の供養にと、今回初めて坐禪を経験されるSさんという女性の方が、富山県からお見えになり、今回の摂心に参加される全ての人が揃いました。今回の摂心は大型連休に行われるということで、遠方から来られている方がほとんどでした。

実は今回の摂心の数日前、老師の御父様も亡くなられ、老師は摂心の直前まで千葉の御実家に戻られていました。


提唱

Sさんがお見えになったので、提唱の際には、老師の御父様が95歳の大往生だったこと、非常に美しい、穏やかな死顔をしていて、葬儀もとても感動的なものであったことも、老師は話されました。
Sさんが涙を啜られているのが聞こえました。

そうした経緯があり、今回の提唱では、「無門関第四十七則 兜率の三関」と、「正法眼蔵 生死の巻」を同時に用い、死の問題を正面から取り上げている祖録から提唱をされました。また、老師が長年研究されてきた宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」にも触れ、亡くなった人は生きている人にとってどのような存在であるのか、どこにある(いる)と言えるのか、といったことにも言及されました。

坐禪、独参と共に摂心の三本柱の一つである提唱とは、もともと禪から生まれた言葉で、法を引っ提げて唱えるという意味があり、祖録を元に老師が法そのものを提示するものです。ですので、論理的に、説明的に捉えられるようなものではなく、また、そのように提唱を解釈しようとすべきでもありません。
風の音を聞くように、ただ聞いていてください、と老師は提唱の際に言われていました。

随息観で重要な点は、無理のない正しい姿勢で足を組み、ただ呼吸に留意する、呼吸を見つめ続けることです。
そして、思いを放つ。さまざまな思いに引き回されない。
目に映るものにも、耳に聞こえる音にも、鼻に匂う香りにも、心に浮かぶ思念にも、なるがままに、それらの一切のことを、相手にせず、邪魔にせずに坐ることです。


坐禅による意識の深化

摂心も三日目以降、半ばに入り定力がついてくると、あまり坐を立つ必要がなくなるので、外に出ることもほとんどなくなりました。
その頃になってくると、日常でも、疲れている時など顕在意識の活動が抑えられているときには、誰にでもままあるものですが、様々なイメージが鮮明に見えたり、物音が何か人の声のように感じられたりといったことが起こりやすくなります。坐禪に習熟してくる程、よりはっきりとした形で出てくるようになります。

そうしたものが出てくることは探求の過程において必ず通過するものであり、必要なことなのですが、それにとらわれると探求の妨げになり、魔境と呼ばれます。
そういったものが坐禪の中で意識化されること自体が、自分というものを構成している、様々な想念を手放している過程であると言えると思います。

ですので、何が見えても、何が聞こえても、何が起こっても、相手にせず、邪魔にせず、ただ呼吸を意識して坐るのみです。
そうしたものは夢と同じようなものです。夢から覚めてしまえば、座布団から立ってしまえば、それまでのものです。
そして、その日坐禪の中で感じたことを独参の際に老師に話します。
そうすると、不思議な程次の日の坐禅では同じものを感じたりはしなくなります。意識の中に深くしまいこんだものを、自分という括りから手放してしまう、そういったことが起きるのだと思います。
ですので、独参の場でそうしたことを話すことは、大変重要なことです。探求が、正しく滞ることなく進んでいくかは、そこにかかっているように思います。

摂心も佳境にはいると、定力がついているので呼吸はより静かになり、体も安定して坐れるようになるので、非常に静けさを意識するのですが、一方で前述したような日常では意識されることのない、内面の激しさというものも、前面に押し出されてくるように思います。


坐禅の妨げ

ただ、注意して頂きたいのは、坐禪の中で感じられることは本当に人それぞれで、その人特有のものです。こういった記述を読んだが為に、前もって先入観を持って坐ると、妨げにしかなりません。
坐る時は、この感想全てを忘れ去って、全てを投げ捨て手を打ち払って、坐ってください。

自分がかつて坐禪で経験したものであっても、それに沿わせようとしながら坐ることは、やはり妨げにしかなりません。坐禪に自分というものを持ち込んでしまうことが、何よりの障害です。

妨げているのは自分しかありません。
その自分を構築している様々な想念を、坐禪の中で捨てていく、そしてただ普通を本当に普通に生きられるようになる、それが坐禪であるように思います。
それこそがどんな奇跡や超常的な力よりも本質であり、尊いものであるように思います。
そうしたことが坐禪を続けていくと、分かろうとしなくても、体にしみ込んでくるように分かってくるように思います。


独参とは

独参は、坐禪の中で感じたこと、疑問に思った事等を老師に尋ね、正しい工夫が出来ているかどうかを、確認する場所です。分からないことや、疑問を持っていたりすると、坐禅の妨げになります。

今回、肉親の死という、人間の避けがたい悲しみを抱えて、参禪に来られた方がいたからでしょうか、悩みを抱えていても、坐る時の妨げになりますので、そうした荷物を下ろす意味で、悩みを持たれている方は、独参の場でその荷物を下ろしていってください、と老師は独参の前に話されました。

独参は、今回新しく建てられた独参用の建物で行われました。この独参の建物も、老師と参禪者の手によって基礎の段階から建築したものです。
老師がその独参の建物から鈴を鳴らすと、参禪者が一人ずつ、禅堂の土間においてある鐘を二回叩いて、独参へ向かいます。
独参から戻られた女性の参禪者の方が涙を啜られていました。
参禪者の方も様々な思いを抱えて、参禪されているものと思います。

独参の作法は、入り口で一拝、老師の前で一拝、終わりに一拝、五体倒地で額を床に付けて礼拝します。本来は三拝ずつですが、時間がかかる為一拝ずつということになっています。

独参の室内でのことは、人に話しても、聞いてもいけません。
独参は、摂心の中でも非常に重要なものです。

独参の場でのやりとりは、参禪者一人一人に即したものであり、人によって全く違った指導の方法を取り得るために、独参の室内での話は、自分と他人の独参を比較して坐禪の邪魔にならないように、決して人に話しても、聞いてもいけないことになっていますが、独参の雰囲気については、紹介しても構わないとのことでしたので、ここで少し述べさせていただきます。
老師の前で礼拝を済ませた後、姿勢と呼吸を整え、自分の坐禅の方法、随息観であれば、随息観(数息観に参じていれば、数息観)に参じております、といいます。

独参の場は単なる言葉のやりとりの場ではありません。そこで伝わるのはむしろ言葉ではないものです。

礼拝を済ませ、姿勢と呼吸を整え、目を上げ老師の目を見た途端、空気の密度が変わっていくのを感じます。その空気の密度が、自分の意識に浸透していき、自分の中から言葉が閉め出されていくのを感じます。

独参に向かうにあたって、今日の坐禪で感じたこと、疑問に思ったことを考えていくのですが、坐禪によって定が深まっていると、口を開いてもその空気の密度の中に、言葉が音になる前に消えてしまうように感じます。頭に言葉があっても、なかなか言葉を出すことが出来ません。非常に時間がかかることがあります。
その空気の密度の前に、言葉、そして言葉を基にした言語認識、思考というものがあまりに表層であり、限界があるかを感じます。かなりの困難を感じながら、自分の坐禪についていくつかのことを述べます。

そのことについて、老師からいくつかの指摘と話があります。
独参は短く終わる時もあれば、長く何も話さないままの時もあります。坐禪が深まってくるほど、その沈黙がいかなるものであるか、伝わってくるものであるように思います。


食事

食事は作法によって、始まりから終わりまで、一言も話さなくても滞りなく、非常に合理的に行われます。参禪者は応量器と呼ばれる、大中小の三つの漆の器を、摂心中を通して使います。食事が終わると、お湯と沢庵できれいにして、重ねて袱紗に包んで片付けます。
朝食(粥座)と昼食(斎座)には食事の前に、五観之偈(ごかんのげ)、生飯之偈(さばのげ)、三匙之偈(さんしのげ)を読み、食事の後に折水之偈(せっすいのげ)を読みます。

その中でも最も広く読まれているものである、五観之偈を掲載します。
五観之偈
一には功の多少を計(はか)り彼(か)の来処(らいしょ)を量(はか)る。

二には己が徳行(とくぎょう)の全欠を[と]忖(はか)つて供(く)に応(おう)ず。

三には心を防ぎ過(とが)を離るることは貪等(とんとう)を宗(しゅう)とす。

四には正に良薬を事とすることは形枯(ぎょうこ)を療(りょう)ぜんが為なり。

五には成道(じょうどう)の為の故に今此(いまこ)の食(じき)を受く。

(意味)

一つ目には、この食事が調うまでの多くの人々の働きに思いをいたします。

二つ目には、この食事を頂くにあたって自分の行いが相応しいものであるかどうかを反省します。

三つ目には、心を正しく保ち過った行いを避けるために、貪りの心を持たないことを誓います。

四つ目には、この食事を、身体を養い力を得るための良薬として頂きます。

五つ目には、この食事を、仏様の教えを正しく成し遂げるために頂きます。

粥座はお粥、斎座は(米と麦の)御飯、薬石(夕食)はその残りで作った雑炊、又はうどんを頂きました。
食事は十分な量があり、品数も豊富で、お代わりをすることも出来ます。畑で取れた野菜や、周辺で取れた山菜、コシアブラ、ヨモギ等を使った天麩羅等の料理も出されました。

なるべく音を出さないようにして頂きます。そうすることで、自分の今、現在に、より注意深くなります。こうしたところで、坐禅による変化が非常によく分かります。

また、毎日当たり前のように行っている、食べる、食事を頂くということが、我々の生命にとってどういうことなのか、どんな言葉による説明よりも明白に気付かされます。

摂心の間、最初から最後まで、参禪者全ての食事を作って頂いた老師の奥様には、この場を借りて御礼の言葉を述べさせて頂きたいと思います。有難う御座いました。


夜 坐

定力がついてくると、短い睡眠時間でも坐れるようになるので、摂心の日が経つにつれ、五時間、四時間、三時間と、睡眠時間を短くして夜坐やざをしました。
以前全く眠らずに坐ってみたことがありましたが、次の日の朝の一炷目、二炷目と定力が抜けてしまっていて、姿勢を維持することもうまく出来ないような状態でしたので、私の場合最低二時間は寝ておかないと次の日に支障が出るようです。

初心の方が、無理して夜坐をする必要はありません。開枕かいちん(就寝)の時間になったら、ゆっくり休んでいただいてかまいません。

夜坐よりも、次の日の坐禅の方が重要ですので、無理をし過ぎればいいというものではありませんし、それぞれの方の健康の具合、体力、気力もありますので、ここでは夜座はしなければならないものではありません。体を壊して普段の仕事に差支えが出るといったこともあってはなりません。

無理をし過ぎること、真面目過ぎることもまた、自分の枠を強め、妨げになります。
しかしながら、摂心においては、法を求めるならば多少の無理を試みることもまた必要です。


摂心で修行する意義

私自身は、悟りを求めて遮二無二坐るような人のみが、摂心に参加すべきであるとは思っていません。
たとえ年に一度であっても、世の中で普通に仕事をしている人が坐りに来る、そういったことであってもいいと思っています。我々が生きる日常、社会もまた、厳しい状況にあるように思います。

そうした日常を離れ、無言の内に、溢れるほどの様々な情報の刺激や、社会の中での自分の位置によって忘れている、或いは忘れようとしている、本当の自分の本心、深く隠された自分の感情と直面する。
それは必ずしも楽なことではありませんが、それによって本来自由そのものだった自分に、生きていく上でまとわりついた、余計な夾雑物を捨てていくことになります。
摂心という言葉には、本来の自己に親しむ、という意味があります。
摂心において、悟りや見性といった明確な体験がなくても、それだけ本来の自己に親しんだことになります。

実際のところ、自分の限界まで摂心を坐り抜き、どれほど深い安らぎ、落ち着きを感じたとしても、自意識の根が切れない内は、日常に戻ってしまえば、三日も経てばいつもの日常の自分に戻ってしまいます。
例えるなら、泥水が静かな状況で上澄みと沈殿物に分かれていたものが、また揺さぶられて泥水に戻ってしまうようなものです。

それでも参禅を継続していく中で、悟りや見性といった体験がなくても、あらゆるものが変わっていっていることに、何かの機会に気がつくことでしょう。
その違いはやはり決定的なものであると言わざるを得ません。
私は日本に生まれてきたことに殆ど何の感情も持ってはいませんでしたが、禅が日本に今もなお法を伝えるものであることに、深い敬意と感謝の念を抱かざるを得ません。


五日目、六日目

最終日に近づくと、坐っていると鐘を叩く音は、自分の頭が叩かれているかのように感じ、外で鳥の声が聞こえただけでその音が頭をカツーンとやるように感じ、床が軋む音がすると、自分が割れるかのように自分の中に響き、その度ごとに思わず頭と体が大きく仰け反りました。

一日の終わりにお経を読むと、グッと掴まれたように自分の意識全てが読んでいる文字そのものになってしまい、お経がお経を読んでいるといった感じで、自分がお経を読んでいるといった感じではなくなります。

坐禪によって、自我が作り出している自分と世界の境界が薄れてきているからです、と老師は言います。その他様々なことがあります。

定力によって坐ることは可能ですが、疲労もまたかなり蓄積しているので、食事の後は横になって休みました。食事の後は胃に血液が行っているので、食事の直後に坐ることはここでは勧められていません。


最終日

摂心も七日目、最終日になりました。正午に開静(終了)となります。
摂心の終わりに茶礼がありました。参禪者は、衝立を挟んで向かい合うように坐っていましたが、外側に向かって坐り、御茶を注いでもらい、御菓子を頂きます。茶道はこの茶礼から発展したものです。
静かに御茶と御菓子を頂くと、摂心が終わったことを感じました。

それから全員、単(それぞれの坐る場所)を立って、御聖僧様の方を向き、般若心経を読みました。その後、灌仏会ということで、四弘誓願文と普回向を読みながら、順番に聖僧壇の誕生仏に甘茶をかけていきました。

灌仏会(かんぶつえ)は、御釈迦様の誕生を祝う行事です。様々な草花で飾った花御堂(はなみどう)を作って、その中に灌仏桶を置き、甘茶を満たします。誕生仏の像をその中央に安置し、柄杓で像に甘茶をかけて祝います。

全ての参禪者が甘茶をかけ終わると、自分の単に坐り、御聖僧様の方に向かって、老師の鐘の合図に従って深く三拝し、単を立って礼拝し、灌仏会大摂心は開静しました。


摂心終了後

その後、摂心終了後の食事会がありました。摂心は終わったので、参禪者は互いに話をしてもかまいません。
料理は、周辺で採れたコシアブラ、ヨモギ等の山菜と學道舎で栽培している椎茸の天麩羅が美しく盛り付けられ、老師の奥様が酢に漬ける段階から作られた鯖寿司等もあり、ご馳走でした。

よく晴れた日で、縁側のガラス戸を開け放ち、外からの空気が気持ちよく、部屋から眺める景色が非常に綺麗でした。参禪者の方の互いの近況を聞いたりしながら、ゆっくりと料理を楽しみました。


その後

食事が終わった後も、参禪者同士で長く会話を楽しんでいましたが、今回の摂心に参加された参禪者の方も、一人、一人と、席を立たれ、帰っていかれました。

私は、後二日間仕事の休みをもらっていたので、残り二日間も學道舎に滞在し、摂心によって溜まっている作務を手伝うことになりました。富山県から摂心の四日目にお見えになったSさんも、三日後の5月9日朝まで滞在して坐っていかれるということでした。私も朝と夜は一緒に坐ることになりました。
他の参禪者の方は夕方までにお帰りになり、それ以降は、また会話をせず坐りました。

その夜の坐禅で、非常に定の深まりを感じ、こうした休みを取れる機会は一年の中で他にありませんので、私は明日もう一日坐らせてもらえるようにお願いしました。


八日目

翌朝、二炷を坐って粥座が終わり、私は体を休める為に書院の縁側に楽に座って、外の景色をただ眺めていました。

外には朝の光が差し、庭の大葉菩提樹の葉は、その朝の光を透かして輝いていました。本当にいつもの光景であり、毎日大葉菩提樹はいつもこうしてあるはずですが、それは尋常ではない輝きでした。

その大葉菩提樹の姿は、本当に静かで、ゆるぎなく、どこにも行こうとせず、生命を湛え、生を讃えていました。その姿は時間性というものを持ちませんでした。

それから私は外に出て、木の橋を渡って川の堤防沿いを歩きました。
冬の間は殆ど姿を見ることのなかった鳥が、電線に止まって私のすぐ上で、機敏に頭と体を動かしながら、賑やかに長く囀っていました。その姿にはどこにも人間のような緊張も、苦悩の兆しもありませんでした。
ただ命を生き、寛ぎきって、春を謳っていました。

本当に静かで美しい、春の日でした。
なんということだろう、と思いました。

この世界の中で、自分だけが世界を逆さまに見、錯覚し、いいものを悪いと言い、ないところに邪悪なものを見、激しい感情を隠し、後ろ手にナイフを隠すかのように自分を抑えて生きている、自分の愚かさ。

我々もまた存在そのものから離れたことは一度として無いにもかかわらず、自己というものが生み出す境界の中で、その限られた領域を永続的に保持しようとして苦しむ。

いつも、世界はこのようにして在った。
春の静かな美しさの中を歩きながら、私は自分の愚かさを深く恥じていました。

次の一炷目が始まる前に禪堂に戻り、そしてまた坐りました。老師は摂心中に溜まった別の仕事をされていて、禪堂にはSさんと私が衝立を挟んで坐っていました。

前日の食事会が終わった後、Sさんがいろんな考えが出てきてしまって、うまく坐れないと話されていました。
そうしたものが出てくること自体が、それを手放している過程そのものですので、どんなに下らない事が出てきても、又どれほど悲しい事が思い出されたとしてもそのままに眺め続け、それを抑えつけたりせず、悲しい事が思い出されたならば、そのまま涙を流して泣いて下さい、と話したのですが、そんなことを人に話したことが、結果的に自分自身に向かって話したことになったのでしょうか。

坐っていると、今回の摂心のことが思い出すともなく、頭の中を巡っていました。
共に坐った参禪者の方々の姿、今朝の大葉菩提樹の輝き、春の訪れを告げる鳥の囀り声、満ちている春の空気、溢れる光、新緑の山々・・・。

世界は美しい、ふとそんなことを思ったような気がした途端、涙が流れてきました。
かつて自分を割った悲しみ、それ以来自分の半分以上が死んだように感じ、どれほど何かに感動しても、どんなことをやっても、決してもはや動かず、熱を持たない部分といったものを常に感じてきましたが、その悲しみをもう一度悲しみ、その痛みをもう一度感じました。

涙は止まることなく、片手を着いて身をかがめ、タオルに顔を埋めて声を出さず、声なき声を震わせて、長い間涙は流れました。
こうしたことはかつてなかったように思います。

流れる涙の中で、自分の中にも温かい血が流れていることを感じました。
かつて、この世界を疑うこともなく、もっと自由に、屈託なく生きていた自分を思い出しました。

摂心は前日に終わったので、その日の午後からは川を遡ったところにある子母婆(コモンバ)の滝へ行きました。
途中まで車で行き、そこからは歩いて向かいました。
軽トラの荷台に乗って風を受けながら、木漏れ陽の林の中を抜けて行き、それから新緑に包まれた道の上をゆっくりと歩いて、景色を楽しみながら滝へ向かいました。
シャクナゲが満開を迎えていました。

滝の周辺はひんやりとした空気が心地よく、足を水に浸してみると、痺れるように感じる程の水の冷たさでした。滝の流れを十分に堪能し、楽しんだ後、滝の傍で坐りました。

夕方以降は、また会話をせず坐りました。

夜坐っていると、禅堂の隅のほうで何かがゴソゴソと音を立てていました。ネズミか何かだろうかと思っていると、物陰からネズミにしてはかなり大柄なものがピョンピョンと飛び跳ねながら出てきました。目がとても大きく、尻尾がふさふさして太い動物。ニホンリスでした。
禪堂の中を行ったり来たりし、柱を器用に登ったり降りたりしながら、必死に外へ出られるような場所を探しているようでした。あまりに必死なので、無双窓を開いて逃がしてやりました。

翌日老師にそのことを話すと、ニホンリスはこの辺りでも滅多に見ないということでした。
かつてヤマネも禅堂の中に迷い込んできたことがあるそうです。ヤマネも禪堂の柱を器用にするすると登っていったそうです。

去年のお盆、その時は摂心はなく、夜一人で禪堂で坐っていて、何やら音がするなと思っていると、鮮やかな緑色をした、とても大きくて非常に美しい、スマートなフォルムをしたモリアオガエルが、ペタン、ペタンと禪堂の中へ何処からか入り込んで来たのでした。

以前から井守が水の中で尾を揺らして泳ぐ姿や、蛙の表情や佇まいは、本当に存在に寛いでいるかのようだと、感嘆する思いで眺めていたので、大きく美しいモリアオガエルが禪堂に入って来た時は、ここでは蛙もまた法を求めて坐りに来るのか、と愉快な気持ちがしたものでした。

翌日、5月8日が当地における月遅れの灌仏会の日ということで、早朝、二炷坐った後、竹竿の先に花束を付けて、庭先に天高く掲げました。

それから粥座を頂いた後は、冬の間使わなかった薪を移動させたり、布団を干したり、建築中だった小屋の骨組みを、これまでの予定より小さくする為に解体したり、摂心中に溜まった諸々の作務を夕方迄手伝いました。

翌日の朝帰られるSさんは、お昼からは坐るのも、辺りを散策するのも自由ということになり、夕刻前までは遠くまで素足で川沿いを歩いたりして、散策を楽しまれていたようでした。

その日の夕方、日が暮れる前に、私も帰路の途に着きました。

普段だと、摂心が終わったその日の内に車で帰ると、車の中では視野の隅々まで意識が行き渡るのを感じ、非常にゆっくりと景色は流れ、体は奇妙なまでに軽く、カーステレオをつけると音が体に沁み込んでいくように感じ、大きく開かれた感覚、坐禪による意識の変化を感じながら帰ったはずですが、今回9日間滞在して、今回の摂心は自分にとって、8日目にして摂心が終わったような、そんな感じがありました。

坐禅で体験したことや、気づきといったものは、日常に戻ると確かにあったはずなのに、夢のようにあったかどうかさえ分からない、掴めないものに感じられる時があります。たしかにそれは通常の認識の作用で掴まえられるようなものではなく、認識の作用が静まっている時に、理解できるものであるように思います。
そうした禪と日常の分離といったものもまた、坐禅を続けていく内に無くなっていくことでしょう。禪は特殊な体験をするためにあるものではなく、ただ当たり前のことが当たり前に理解できるようになる、そのようなものだと思います。

坐禪を続けていく程に、私は禪を知らず、法を知らないと感じます。法、ダルマ、存在の事実は、人間の自意識の一切の介在を許さない、と老師は言いますが、確かに自分というものが掴む事が出来るようなものではないことが分かります。

参禪する動機や理由というものは、言葉としてある程度整理されて自分の中にあったわけですが、最近は自分が何に向かって参じているのか、坐っているのか、それすら分からないような気がすることがあります。それはたしかに自分というものが掴んだり、介在出来るようなものではないからです。


正 師

ですので、正しい指導者の元に参禅するということは、参禅するにあたってまず第一に、何よりも重要なことであると思います。指導者は印可を受けた師家であることが必須でしょう。そうでなければ、やらないほうが無難です。

師家は道案内です。実際に自分の足で道を歩むのは参禪者その人であり、禅を教えるものは何より坐禅そのものです。実際に坐ることの他にありません。
私も数多くの書物の中に真実の影を探しましたが、数千数万の真理に関する書物を読んでも、ただ一炷の坐禅の代わりになるものではないと感じます。


はじめて摂心する人へ

今回の摂心も、坐禅は全くの未経験の方が数名参加されましたが、全くの未経験でも七日間の摂心を坐り抜けないということはありません。本当の禪の味わいを知る為には、やはり最初の三日の峠を過ぎることが必要ですので、初めての方こそ五日間から七日間を坐られると、言葉ではない確かな実感として、禪の持つ意味を感じられると思います。

ここでは、紋切り型な禪のイメージにあるような、坐っていて少しうとうとしただけで警策を打ち据えたり、少しでも作法を間違えたら怒鳴りつけるといったようなことはありません。

私にとっても実際に朽木学道舎へ参禅に赴くまで、禅の敷居というものはとてつもなく高いものでしたが、禪にそうしたイメージが先行し過ぎていることは、残念なことのように思います。実際の参禅の中で感じられてくるものは、もっと全く違ったものです。

参禅される方の問題意識がどのようなものであれ、それこそがその方にとっての取りかえようの無い公案であり、実際に坐る時に、坐禅の中にそのことを持ち込む必要はありませんが、それが内発的な厳しさとなります。

もちろん足の痛みはありますし、普段は直視することのない、自己と直面する厳しさといったものはあります。坐禅は一見すると不合理な行為に見えます。それでもなお求める何かがあって、摂心(接心)に参禅されたなら、そこで得るものは決して少なくないと思います。


現代における禅

世界とは何か。
世界を認識している自分とは何か。
それは二つの異なったものであるのか。
それとも認識の機能が、自己と世界、自己と他者、自己と自然、そして生と死、あるがままのものとあるべきもの、そうした全ての二元性、分離を生み出すものであるのか。
それによって生まれる、個人の内外における対立、葛藤、争い、そして自らの生存を脅かすほどの環境への破壊、搾取の根源的な終息はありうるのか。

言葉による追求、解釈、答えは結局、私に根源的な理解と解決をもたらしませんでした。私は言葉による答えを求めません。

現代において、いまや全人類的に認識されるようになった地球規模の環境の危機といったものもまた、我々個人個人の意識のありようが反映されたものであることは、否定できないものであるように思います。
それは大袈裟過ぎると思われるかもしれません。

しかし、我々自身がそもそもどういった存在なのか、全ての世界に生きる個人個人がそのことを、切実なる感情と共に、根源的に問わざるを得なくなるほど、おそらく人間が引き起こした危機は、人間の意識と身体の内外にわたって、更に露呈していくことだろうと思われます。

その上で、禪が、さらに言えば仏教が本来示していた、この世界のありようの事実、存在の事実に人が目覚めるとは、この現代の世界を生きる我々にとって、どういった意味があるのか、どういった可能性があるのか、宗教の問題としてではなく、問われる時に来ているように思います。

そうした意味で、伝統の軽視はあってはなりませんが、禪もまた、現代に即した言葉で語られる必要があるように思います。

禪だけが、仏教だけが、存在の事実に目覚める唯一の道ということではないことでしょう。気づいていようがいまいが、人もまた存在の事実そのものであり、そこから離れている人というのもありません。
そのことをただ人自身が納得できない故に、坐ることになります。私自身はやはり、日本に生まれたことを感謝するものです。

禪について私のような人間がこのように語ることは、大いに愚かな事なことであり、無意味なことです。
禪や真理といったものに関する知識があるゆえに、それが坐禪の妨げになることもありえます。
実際に坐ることに比すれば、こうした記述は全く無意味です。坐る時はどうか、これまで見聞きしてきた全てを忘れ、開かれて坐ってください。

本来の自己にあなた自身が親しむことが、一番良いことでしょう。それがあなた自身と自身が生きる世界を変えていくことでしょう。こうしたことは、やはり実際に坐ってみないと分からないものです。
長くなりましたが、これで感想を終わりたいと思います。

<おわり> 2008.6.12 K.E

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2011年「入梅摂心会」の日程

平成23年「入梅摂心会」は、6月6日(月)〜6月12日(日)正午まで。

6月は連休がありませんので、例年、参禅者も少なく、とても静かな摂心となります。

夏至を間近に控えた下界では、晴れるととても暑い季節ですが、學道舎のあたりは、まだ新緑の美しい涼しい頃です。

暑くもなく、寒くもなく、特に初心の方にとっては参禅の好時節です。

 

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参禅の感想-8

K.Nさん 20代女性 鹿児島在住 有機農業に従事
 學道舎での約半年の参禅を経て、現在、鹿児島で有機農業をしています。
 無農薬・無化学肥料はもちろん、家庭で出る野菜くずなどを全て牛の糞と混ぜて堆肥化し、畑に還すことに徹しています。
 食物は燃えるごみではない、とういことにこだわるようになったのも、参禅の大きな成果です。
 「自分とはどういう存在なのか?」「自然と一つである。」
 それを身をもって実感することができた、ということです。
 参禅をしようと深く決意したのは、一杯のお粥の温もりが、全身に染み渡る体験をしたときでした。
 当時、IT関連の仕事で、朝から晩までPCに向かう暮らしに限界を感じ、心身が病み、アル中になっていました。酒が手放せず、自分を完全に見失っていました。
 「自分とはどういう存在なのか?」「自己とは?本来的に生きるとは?」
 そのような問いかけは、中学生時代からずっとあり、哲学・宗教の本をよく読んできました。禅には特に興味がありました。それでも、知識としてだけでは解決されない、腑に落ちないものを、ずっと抱え続けていました。
 縁あって、自分が最も切実に求めているときに、実践としての禅、学道舎に出会うことになったのです。
 仕事も住処も捨て、というと大袈裟ですが、少なくとも気分としては、もうこれしかないという、切羽詰った状況で学道舎に向かいました。

 月に一度の摂心を中心に、半年間通い続けたのは、坐禅そのものだけでなく、学道舎を取り囲む、本物の自然と一体となって呼吸できる場所を求めたということも、大きな理由です。


 ブナの原生林が広がる芦生の森の麓、鹿の声や山鳥の鳴き声が、カーンと山々に木霊する音が響きます。新緑の躍動感、源流の清澄感、森の呼吸・・静寂に包まれながらも、本当の自然の音が、自分の体内から沸き起こってくるのを実感できる場所です。
 一本の木の影を辿れば太陽があるように、自己を徹底的に探求すれば宇宙がある。
 そんなくさい言葉を、なんの衒いもなく、ただ実感として思うようになりました。
 坐禅、提唱(老師が禅語録などを読んでくださる)、独参(老師との対座)が摂心の三本柱と言われます。

 参禅者の私語は厳禁ですが、禅堂の空気や内的想いに触発され、自己との対話、内面の言葉は、普段よりも膨大になるような気がします。(坐禅に同じ道がある訳ではないので、あくまでも個人的な体験です。)


 無我とか無心の境地というものには、全くこだわりません。何も考えないということもせず、内面に去来することを、手をつけずに、放っておく。

 呼吸そのものになることだけに意識を集中すると、自分が宇宙に放り出される感覚、逆に言えば、雨の滴が落ちる音が、自分の内から聞こえてくる感覚になり、内も外も境界がなく、しがみついている自己もなくなる。

 それでいて、この宇宙に自己が存在しているということが、はっきりと分かるようになります。


 坐禅をすることは、非日常や現実逃避でもなければ、特別な力を得るというのでもありません。当たり前のことが当たり前と分かる、その単純さに気付くものだと思います。
 ここからが禅で、これは別というのではありません。日々の暮らしの中で毎日坐禅をしてはいませんが、私にとっては畑を耕すこと、日々の食事を頂くことが、禅と同じだと思っています。

 得てして日常生活では、宇宙や自然との関係の中での自分の位置を見失いがちですから、学道舎のような場所で、定期的に確認作業をしなければならない、というのはあります。


 ご縁がありましたら、学道舎で道を求める方と一緒に坐ることができたら、そう願っております。

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ある女性の初関透過

*以下の文章は、2010年度「秋分大摂心」に参禅されました40代の女性からのお便りです。

文中にもありますように、都合で摂心4日目に下山されました。それでも、御本人は帰宅されてからも摂心を相続されていたようです。

 こうした体験を公表することは、間違えますと他の参禅者の邪魔をすることになりかねないことは、充分に承知しておりますが、既成宗門を中心とした禅が形骸化し、現代の混迷した社会に生きる人たちの自由と解放に繋がっていない状況の中で、ほんらいの禅がもっている素晴らしい可能性について理解して頂くために、御本人の了解のもとに、敢えて公表することにしました。

 「初関」を透過しただけでも、長い間抱えてこられた悲しみ、苦しみが一瞬にして氷解する様子が良く表現されております。誰よりも御本人が良く理解されておりますが、これで禅における修行がようやく本格的に始まったということです。

 禅の初学者が読む祖録の一つに「十牛図」がありますが、真の自己に目覚めるとは、八番目の円相によって表現されております「人牛倶忘」にしかありません。
 それまではすべて途中のものです。道元禅師が身心脱落された後に、「一毫の仏法もなし」と断言されておりますように、この「わたくしの心身」はもちろん、ダルマも仏教もすべて無くならなければないけません。伝統的な仏教の言葉で云えば「解脱」であります。

 参禅者が初関を透過することができれば、禅の修行についての迷いは無くなります。正しい坐禅を相続して行けば、必ず自意識の根が切れる(切れた分だけ自由で伸びやかな本来の自分に近づく)こうした体験があるということを知って頂きたいと思います。


老師へ
合掌
おはようございます。
「秋分大摂心」も今日で最終日ですね。
先に帰りましたが、皆さんと一緒に坐っているつもりで、この3日間を過ごしていました。
 今朝、暁天坐を終えて、しばらくして日課となっている、飼い猫を階段で遊ばせるために玄関を開けて、外に出ました。(家は団地の5階なので、階段の踊り場からは周辺がよく見渡せます) 家の周りは、T市の外れのためか、変電所や、ゴミ焼却場がすぐ近くにあります。変電所に近いため、周りは鉄塔だらけ。
 空はいつも沢山の鉄塔と電線に遮られています。 今までは、それが嫌で嫌でたまらなかったのですが、今朝、夜明け前の澄み切った空の中の鉄塔を見たとき、なんというのでしょうか、「只這是」(ただこのとおり)としか言いようのない見え方で、鉄塔が見えてしまいました。
 今まで、何を見ていたのでしょうか?何も見てはいなかったのだなぁ…とつくづく思いました。 それから、何回か鉄塔を見てみるのですが、やはり、鉄塔は鉄塔として、只あるがまま。醜いものでも、忌むべきものでもなくなってしまっていました。
 今までは、自分にとって嫌なものなので、風景の中から、切り取って見てしまっていたのだと思います。 初めて、「只這是」で見えたとき、鉄塔を、美しいとさえ、感じました。なんだか、とても優雅に佇んでいる様にすら見えました。

 びっくりしてしまって、何度も何度も見るのですが、やはり、すっかり、力も抜けたような様子で、ただ立っている鉄塔たちが存在しているのです。

 もうひとつ、びっくりしたことは、鏡を(鏡の中の自分を)見るのが嫌ではなくなっていることでした。 鉄塔が鉄塔として見えた後、炊事場の横の鏡に、ふっと目が止まりました。 鏡の中には、私が映っていました。とても静かな気持ちで見ることが出来ました。そんな風に自分を見たのは初めてのことでした。

 「私ってこんな顔をしていたんだ…」 とても冷静に見ることが出来ました。今までは、鏡で自分を映して見るのがあまり好きではなく、 今朝のように、ただただそのまま自分を見ることが出来たのは、初めてでした。 心だけ参加していたような、後半の3日間も、坐禅のうちに数えてもらっていたのでしょうか。そんな今朝の出来事でした。


 そして、最後にもう一つ。20年前に、とても大きな悲しみを得ましたが、ずーっと、ずーっと、いまだにまるで、昨日のことのように苦しかったのですが、それが、今朝のその二つの出来事の後、思い返してみても、胸の痛みも、悲しみも、今までのように苦しくはなくなってしまっていました。 以前、老師が教えてくださったように、これが、「空ぜられる」ということなんでしょうか? なんだか、不思議な感じですが、とても、楽になりました。 秋分大摂心、本当にありがとうございました。                                    M  拝
老師へ
もうすぐ職場に着きますが、今朝の鉄塔は、私にとっては、2回目の斧に当たる出来事だったのかもしれません。
あのあと、いろんな物が目に入ってきて、こんなに様々なものが存在していたの!?…というビックリと、
様々なものが均等に見えていると言ったらいいのか、今まで嫌だったものが目に入っても嫌な感じではなく、
反対に、好きだったものが目に入っても、それだけが飛び切り目立って見える訳でもなく、
なんだか当たり前のものが当たり前に見えているような…
今まで、薄皮一枚通して見ていたような、その薄皮が剥がれてしまったような
なんかいつもと違う感じで
でも、当たり前で…
なんか不思議な感じです。
老師、本当にありがとうございます。
今回は、しみじみうれしいです。
そしてありがたい気持ちでいっぱいです。
九拝

*次の文章は、秋分摂心からほぼ4ヵ月後の、神戸「楽の森禅フォーラム」での体験について書かれたもの。
こんばんわ。
今、A尼とKちゃんと、Tさんに
メールを出し終わりました。
(トリが老師です・笑)
Kちゃんは、2月3月も摂心なのですね~
A尼もお仕事再開されたんですね~!

さて昨日、禅フォーラムで坐って、耳が変わったみたいです。

きっかけはシャッターの音。

いつも聞いているビルのシャッターが閉まる音を、あんなふうに聴いたのは初めてだったかも。

素晴らしいオーケストラの交響曲みたいに、とんでもなくきれいでした~

で、今朝からは、耳が「ふし穴」になったみたいです。


昨日、シャッターの音が轟いた時、
聞いているうち、
「音」だけになったみたいでした。
音が止むまで音だけだったみたいです。
(あとで、そうだったらしいと言葉になりました)
音についての思い出話ですが、
夏だったか、摂心中に
ヒグラシの声が自分の中で鳴り響いて、
(というか、自分が無かった??)
参禅者の方の感想の中にも
同じような出来事が綴られていたなぁ~、
こんな感じのことなのかなぁ~
とか、思ったことがありました。
昨日の出来事は、
それより更に圧倒的な感じでした。
音だけでしたね~…
いつもは、シャッターの音は
すぐに「うるさいなぁ~」という思いに飛んでしまうし、
階段を行き来する人の音とか、
道行く人の大きな話し声とかにも
坐っている時は、やはりどうしても
うっすらと「うるさいなぁ~」という思いに行きやすかったのですが、
昨日のシャッター以降の諸々の
物音、話し声は、なんにも思わなくなりました。
「あ、音がしてる…」
くらいの感じで、ただそのまま聞くことが出来て、
とても、楽になりました。
どんな音にもひっかからなくなったというか、
カタマリの自分がないというか…
どの音も、むしろ、愛おしいような、
どの音も、ある種、美しくて、
「いつもこんなに豊かな音に包まれて
暮らしているのか~」
って、感動して、うれしくて、
胸がジ~ンとして、なんか、
ちょこっと泣いてしまいました。
音というものを、今までは
こんなに自分勝手に価値付けて
自分の中に止めてひっかかっていたのかぁ~!!
と、びっくりしました。
(価値付けたために引っかかっていたわけですよね…)
昨日のシャッター以降は、
音が、
右の耳から、左の耳へ、
ただ頭部の中を通過していっている感じ、
音が通り抜けることで
頭の中をスースーと掃除してるみたいです。
スースーしてます。
今まで知らないな~…この変な?感じ。
昼頃までスースーが激しかったですが、
だんだん落ち着いてきました。
でも、もう、今までの聞き方とは変わってしまったようです。
音にもこんなにも、好き嫌いの価値付けを
していたんですね~
びっくりします。
いやはや、どんだけ、
自我は「仕事」熱心なんでしょう!苦笑
今朝の坐禅中、今までは気がつかなかった、
遠~くの電車の音にも気がついて、
こんな音も、ほんとは、ここまで届いていたんだな~
と、またまた感動してしてしまいました。
そして、「鼻息かすかに通ず」という感じの
極めて静かな呼吸をしていたようです。
初めてだと思います。
老師が呼吸についてお話してくださることは、
今までは、「そんな息もあるのか~」と
頭では、知っていても、「どんななのかな~?」
という世界でしたが、今朝は、少しだけ体験できたようです。
あんなに静かな息があるのですね~…
ほんとに、呼吸してないみたいな…
ふと思ったのですが、私は、
鉄塔で、目を開いて?もらい、
シャッターに耳を開いて?もらい、
次は鼻か?(その次は喉?)
なんか冗談みたいな、この展開…
風邪薬でもあるまいし~…
でも、そんな風に、ひとつひとつ、
価値付けのお仕事に励んでいる器官が
お仕事から外れていくのも面白いですね~…
それと、鉄塔とか、シャッターとか、
きっかけに鉄がらみが多いのは
我が父上が鉄の仕事をしてたからでしょうか~・笑
次は何によって、何が外れていくのやら~?・笑
それはさておき、
ただただコツコツ坐るのみ、ですね。
なんで、こんなに飽きないのか
ほんとに不思議ですね~
1チュウ、1チュウ、
いつも違う「旅」みたいで、
飽きません。
では、明日からの摂心、
よい時間となりますように。
合掌

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参禅要項・費用など

ダルマサンガ 参禅要項

1. 参禅について
2. 参禅費用について
3. 持ち物について
4. 服装について
5. 食事について
6. 坐禅・独参について
7. 摂心全般について
8. 前日と最終日について
9. 途中から参禅される方、途中で帰られる方

1. 参禅について

摂心は、7日間もしくは5日間という限られた時間の中で、真剣に仏道を行ずる極めて大切な期間です。参禅されるみなさんは、諸事情を整えて、時間と費用をやりくりしてダルマサンガの學道舎に来られます。
みなさんが、できるだけストレス無く参禅して頂けるように、また、修行道場という慣れない環境での自らの行動が他の方々の迷惑にならないよう、大まかな心得を記します。

ダルマサンガの摂心には、年齢や性別、国籍など、多様な人々が参禅されます。在家が中心ですが、ご出家の方も宗派に関わらず、参禅されております。
部分参加も可能ですが、初参禅の方は、慣れるまでに時間がかかりますので、なるべく全日程の参加をお勧め致します。

摂心の峠である3日目を過ぎ、4日目あたりから、禅の真価、摂心の素晴らしさ、醍醐味が実感できるようになります。

既に定員に達している時など、残念ながら参禅をお断りしなければならない場合がありますので、ご容赦下さいますようお願い致します。

申し込みフォームの自動返信メールの段階では、まだ参加は確定されません。申し込みをされた方は、必ず自動返信メール以外に、ダルマサンガから送られる参加確定のメールを、ご確認下さい。

2. 参禅費用について

ダルマサンガは、檀家制度によって支えられる寺院でもありませんし、宗教団体でもありませんので、何らの経済的な基盤はありません。運営資金のほとんどは、参禅者からの滞在費(宿泊や食事にかかる実費)、参禅献香料(指導に対する謝礼)、相見香料(初参禅の方のみ)、および篤志者からの喜捨で成り立っております。

滞在費は、運営資金の原資として、1泊あたり、最低3,000円をお願いしております。それ以外は参禅者個々人の経済的な事情、また遠方から参禅される方は交通費も嵩みますので、特に金額を定めておりません。

現代社会におけるダルマサンガの存在意義を認めて下さるみなさまの、ご理解とご協力をお願いいたします。
* 摂心における費用は以下のとおりとなります。

滞在費   :1泊あたり最低3000円×宿泊数
相見香   :初参禅の方のみ。入門料にあたります。
参禅献香料   :師家の指導に対する謝礼です。

* 初参禅の方の相見香は、「相見香」と表書きの上、記名し、摂心初日の独参の際に老師にお渡しください。

* 滞在費と参禅献香料は、金封などに入れ、「参禅献香料」「滞在費」と表書きの上、記名し、お帰りの際、聖僧壇にお供え下さい。(お名前を聖僧様に向けてお供えします)

3. 持ち物について

荷物を置くスペースが少ないため、必要最少限の荷造りをお願い致します。
スーツケースは、なるべくご遠慮ください。

・洗面具、タオル、ティッシュ
・着替え(洗濯機は使用できませんが、手洗いで干すことはできます)
・小型懐中電灯(生活スペースも全体的に暗いですし、夜は外も真っ暗です。消灯後にも使用します。スマホのFlash Lightアプリなどでも可)
・時計
・参加費用(参禅献香料、滞在費、初めての方は相見香)
・汚れても良い服・軍手(摂心中に、作務という軽い労働禅があります)
・傘

・耳栓、アイマスク(就寝時、いびきや物音、明かりが気になる方)
・マスク(冬は、就寝時に空気の乾燥を防ぎ、風邪の予防、防寒になります)
・虫刺され対策グッズ(夏は蚊が多いです)
・シーツ・枕カバー・座蒲(お車で来られる方など、持参できる方)
・お湯呑みや、お好みの飲み物の持参は自由です。

・防寒衣について・・・朽木では、夏でも朝晩冷え込むことがしばしばあります。長袖の上着等をご用意ください。冬は、室内でもかなり冷えます。
但し、ダウンジャケットなどで、カシャカシャと衣擦れの音がする素材のものは禁止致します。坐禅中の静寂の中では、身体がわずかに動いただけでも、衣擦れの音が、他の参禅者の耳に届き、気になります。音の立たないフリースやセーターなどは、厚着していただいて構いません。

・禅堂には、坐禅の時に使用できる毛布を用意しております。
・冬は湯たんぽを用意しております。

4. 服装・身だしなみについて

坐禅にふさわしい服装、地味な色のものでお願いします。派手な色や体のラインが出るものなどは避けてください。

髪の長い方は一つに束ねてください。

袴(はかま)着用は義務ではありませんが、より望ましいです。身長より5cmほど短めが危なくなく、また汚れなくていいようです。袴は貸りることもできます。(数に限りがありますのでお早めに)

ジーンズなど身体を締め付けるタイトな服装はお勧めできません。しびれや疲れの原因となります。

作務がある場合があります。汚れてもよい上下の服装をご用意ください。

冬は首、手首、足首を温めるような服装が良いです。

防寒衣については、上記の「3.持ち物について」を参照して下さい。

5. 食事について

食物アレルギーや、食事制限等がある方は、必ず、申し込みフォームにご記入下さい。

粥座(しゅくざ・朝食・7時)・・・お粥、香の物
斎座(さいざ・昼食・11時30分頃)・・・ご飯、汁物、香の物、添菜(てんさい・おかず)2品
薬石(やくせき・夕食・17時)・・・雑炊、または麺類、香の物、添菜1品

朽木では雲版(うんぱん)、大多喜では魚鼓(ホウ)という鳴らしもので、食事時間をお知らせ致しますので、速やかに応量器(自分用の食器セット)を持って席に着きます。
(応量器の布巾は、中日に交換します。)

食事はできるだけ音(食器の音、噛んだり、啜る音など)を立てずに、静かにいただきますが、麺類だけは、大きな音を立てて啜って良いとされています。

基本的には、地元の野菜を中心とした精進料理。こだわりの調味料で、毎日、飯頭(台所係)が手作りしております。
肉や魚等、動物性のものや、化学調味料はいっさい使用しておりません。

添菜の量は同じですが、ご飯や汁物は、手をすり合わせる合図で量を減らすことができます。
斎座の添菜は、ややボリュームがありますので、減らしたい方は、飯頭にお申し出ください。

摂心前日の薬石は、皆様の到着時間にもよりますが、19時頃の予定です。摂心中とは異なりますので、ご注意ください。

最終日、摂心終了後の斎座は、座卓を囲んでピースカレーをいただきます。
食後は、お帰りの時間まで茶話会となります。

6. 坐禅・独参について

坐禅の仕方」「摂心と独参について」をお読みください。
初めての方は、初日に老師がご指導下さいます。

差定(さじょう・日課)は以下の通りです。

夏時間(春分翌日から秋分の日まで)は4時振鈴
冬時間(秋分翌日から春分の日まで)は5時振鈴

午前
夏時間
04:00 振鈴(起床)  ※個人的に振鈴前のアラームはかけないこと。
04:20 坐禅 (4時起床で充分間に合います)
05:00 柔軟体操(真向法、足心道他)
05:20 坐禅
06:00 朝課(読経)
06:20 作務(労働禅)
07:00    粥座(朝食)

冬時間
05:00 振鈴(起床)  ※個人的に振鈴前のアラームはかけないこと。
05:20 坐禅 (5時起床で充分間に合います)
06:00 朝課(読経)、柔軟体操
06:30 坐禅
07:10   粥座(朝食)

以降は同様

08:20 坐禅
09:00 経行(きんひん・歩行禅)・抽解
09:20 坐禅
10:00 経行・抽解
10:20 坐禅・提唱
11:00 随座
11:30 斎座(昼食)

午後
13:20 坐禅
14:00 経行・抽解
14:20 坐禅
15:00 経行・抽解
15:20 坐禅
16:00 随座(作務がある場合あり)
17:00 薬石(夕食)

18:20 坐禅
19:00 ・抽解
19:20 坐禅・独参 (初日・中日・最終日(午前中)は総参)
20:00 経行・抽解
20:20 坐禅・独参
20:50 四弘誓願文
21:00 終了
22:00 開枕(就寝)
以降、夜座(やざ)は自由にできます。

・坐禅開始時間より、数分早く禅堂に入り、坐禅の準備を整えます。
・止静鐘(しじょうしょう・坐禅開始の鐘)、経行鐘と抽解鐘(ちゅうかいしょう・終りの鐘)は、摂心3回目以降の参禅者が、男女や年齢に関係なく。順番に打ちます。(この役職を、順香と呼びます)
・1回の坐禅は、40分間。基本的に身体は動かしません
・坐禅中は、鼻をすすったりかんだりせず、静かに拭うようにして下さい。
・衣擦れの音の大きい素材の衣類の着用は、禁止致します。

・経行(きんひん・歩行禅)は、5分間。 順香が先導します。

・・独参は毎夜、最終日は午前中にあります。坐禅の中で疑問に思ったこと等を老師に尋ね、正しい工夫ができているかどうかを確認する場です。
分からないことや疑問をそのままにしては、坐禅の妨げとなります。悩み相談の場ではありませんが、悩みもまた、坐禅の妨げになるようでしたら、そういった荷物をこの場で下ろして下さい。

・場所は、朽木では書院の「月見の縁」で、大多喜では独参室に居られる老師のもとに順番に参じます。

7. 摂心全般について

7日間の摂心の全てが坐禅です、坐ることだけが坐禅ではありません。摂心中の食事や作務(労働)、休息さえ、坐禅が形を変えているだけで、基本的には何も変わりません。

・摂心期間中は、終日、私語厳禁です。
参禅者同士が目を合わせることもしませんし、挨拶も不要です。
・摂心での作法や規則は、何も話さなくても、摂心が滞りなく進み、各自が摂心に専念できるようにできております。
初参禅のの方でも、素直に信受し、周りの人の真似をしていれば、すぐに身についていきますので、心配には及びません。

・参禅者同士の会話は禁止されておりますが、他の参禅者の妨げになるような行動については、古参の参禅者が、注意する場合があります。

・お経本を用意してありますので、記憶してくる必要はありません。

・初参禅の方は、坐禅に専念していただくために、お手伝いは一切不要です。
(自分が言われていないことは、一切やってはいけません。)
・2回目以降の方は、個々の余裕の度合いに応じて、配膳や後片付け、提唱や独参の準備などを、お手伝い下さると助かります。
方法や用具は、飯頭にお尋ね下さい。

・体調を整えて、ご参加ください。
・摂心中は、うがい、手洗いを励行し、各自が体調管理に努めてください。
・エアコンはありません。日常で自然の暑さや寒さに、身体を慣らしておくと良いです。
・摂心中、少しでも不調を感じた場合は、早めに飯頭にご相談ください。看護師出身の者がおりますので、できる範囲で対処させていただきます。

・控え室(宿泊場所)は、2階にあります。朽木は屋根裏の薄暗い部屋、しかも段差や障害物が多いので、くれぐれも足元にご注意ください。
・朝は振鈴とともに点灯し、消灯は22時です。気付いた方が点灯、消灯して下さい。控え室を最後に出る方は、消灯して下さい。22時以降は、懐中電灯をご使用ください。
・宿泊スペースは、あまり広くありません。人数が多い場合は、一人一畳足らずしかありませんので、お互いに譲り合って、スペースをやりくりして下さい。
・荷物は必要最低限にお願い致します。
・寝床の布団は、敷いたままで構いません。空き時間に休まれても結構です。

・起床は振鈴(しんれい、2回目以降の方が順番で)が、大きく鐘を鳴らします。他の参禅者の迷惑となりますので、個々に携帯等の目覚ましは、かけないでください。マナーモードでもお止めください。

・朽木は、コンポストトイレが、土間に共用一つと、外に男女別に一つずつあります。土間は臭気がこもりやすいので、なるべく外のトイレをご使用ください。

・電気ポットとお湯呑み、お茶やコーヒー、紅茶などは用意しておりますので、ご自由にお飲みください。
・お湯呑みは、各自適宜、洗面所のスポンジで洗って、清潔にお使いください。(お湯呑みや、お好みの飲み物の持参は自由です。)

・女性は中日に、シャワーをお使いいただけます。当日の朝、飯頭がご希望を伺います。男性は特別な理由がない限り、摂心期間中の入浴等はありません。
(朽木は學道舎前の尼連禅河で沐浴することができます。)
・お帰りの前にシャワーを使いたい方は、お申し出下さい。

8.前日と最終日について

〈前日スケジュール〉
19:00頃  薬石(夕食)麺類、香の物、添菜
20:00頃   老師より摂心についてのお話
行茶礼
21:00頃   禅堂での説明と準備
( 坐る場所、順香と振鈴係を決める)
22:00頃   開枕

禅堂に到着されてから行うこと
・荷物整理
・就寝の準備
・応量器・お湯呑み・サンダルにネームシールを貼る
みなさんが揃われましたら、茶礼に致しますのでそれまでユックリして下さい。皆様の到着状況により、変更される場合があります。

〈最終日スケジュール〉
起床から10:00までは同様
10:20     坐禅・総参
11:15  行茶礼・読経
11:30頃  大開静(摂心終了)
シーツ、枕カバー返却
片付け、掃除
お帰りの準備
斎座の準備
12:00頃  斎座
引き続き、お帰りの時間まで、茶話会

9. 途中から参禅される方・途中で帰られる方

〈摂心が既に始まってから来舎される方〉
・初めての方で、到着時、坐禅中で誰もいない場合は、土間でお待ち下さい。
(2回目以降の方は、2階で荷物整理と着替えを済ませて、お待ち下さい。)
・書院にて、老師との相見(しょうけん・面談)があります。
・老師より、摂心の作法等の簡単な説明がありますが、時間的な都合で、違う時間帯になる場合があります。
・空き時間に、學道舎内をご案内致します。
・応量器、お湯呑み、サンダルに、ネームシールを貼ります。

〈途中で帰られる方〉
・応量器、お湯呑み、サンダルのネームシールをはがします。
・シーツ、枕カバー、応量器、お湯呑みを、飯頭(台所係)に返却します。
・参禅献香料・滞在費は、お帰りの際に、禅堂内の聖僧檀にお供えください。

客間で老師と面談の後、お帰りいただきます。

以上、他にご質問等がありましたら、参禅者ではなく、老師か飯頭にお尋ね下さい。

 

参加申し込みは下記↓よりどうぞ。

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上記緑色の申込ページがうまく作動しない場合、自動返信メールも来ない場合はこちらから(ただし、自動返信メールは行きませんので連絡をお待ち下さい)

2回目以上の摂心参加者はこちらからお申し込みください。

お問い合せは、こちらから。

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摂心と独参について

ekadanpizu独参とは
 

 独参は、坐禪の中で感じたこと、疑問に思った事等を老師に尋ね、正しい工夫が出来ているかどうかを、確認する場所です。分からないことや、疑問を持っていたりすると、坐禅の妨げになります。

  今回、肉親の死という、人間の避けがたい悲しみを抱えて、参禪に来られた方がいたからでしょうか、悩みを抱えていても、坐る時の妨げになりますので、そうした荷物を下ろす意味で、悩みを持たれている方は、独参の場でその荷物を下ろしていってください、と老師は独参の前に話されました。

独参は、今回新しく建てられた独参用の建物で行われました。この独参の建物も、老師と参禪者の手によって基礎の段階から建築したものです。 老師がその独参の建物から鈴を鳴らすと、参禪者が一人ずつ、禅堂の土間においてある鐘を二回叩いて、独参へ向かいます。 独参から戻られた女性の参禪者の方が涙を啜られていました。 参禪者の方も様々な思いを抱えて、参禪されているものと思います。

独参の作法は、入り口で一拝、老師の前で一拝、終わりに一拝、五体倒地で額を床に付けて礼拝します。本来は三拝ずつですが、時間がかかる為一拝ずつということになっています。

独参の室内でのことは、人に話しても、聞いてもいけません。

独参は、摂心の中でも非常に重要なものです。

独参の場でのやりとりは、参禪者一人一人に即したものであり、人によって全く違った指導の方法を取り得るために、独参の室内での話は、自分と他人の独参を比較して坐禪の邪魔にならないように、決して人に話しても、聞いてもいけないことになっていますが、独参の雰囲気については、紹介しても構わないとのことでしたので、ここで少し述べさせていただきます。

老師の前で礼拝を済ませた後、姿勢と呼吸を整え、自分の坐禅の方法、随息観であれば、随息観(数息観に参じていれば、数息観)に参じております、といいます。  独参の場は単なる言葉のやりとりの場ではありません。そこで伝わるのはむしろ言葉ではないものです。

礼拝を済ませ、姿勢と呼吸を整え、目を上げ老師の目を見た途端、空気の密度が変わっていくのを感じます。その空気の密度が、自分の意識に浸透していき、自分の中から言葉が閉め出されていくのを感じます。

独参に向かうにあたって、今日の坐禪で感じたこと、疑問に思ったことを考えていくのですが、坐禪によって定が深まっていると、口を開いてもその空気の密度の中に、言葉が音になる前に消えてしまうように感じます。

頭に言葉があっても、なかなか言葉を出すことが出来ません。非常に時間がかかることがあります。 その空気の密度の前に、言葉、そして言葉を基にした言語認識、思考というものがあまりに表層であり、限界があるかを感じます。かなりの困難を感じながら、自分の坐禪についていくつかのことを述べます。

そのことについて、老師からいくつかの指摘と話があります。 独参は短く終わる時もあれば、長く何も話さないままの時もあります。坐禪が深まってくるほど、その沈黙がいかなるものであるか、伝わってくるものであるように思います。

以上は朽木学道舎摂心会7日間坐禅体験記より

 

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