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参禅の感想-8

K.Nさん 20代女性 鹿児島在住 有機農業に従事
 學道舎での約半年の参禅を経て、現在、鹿児島で有機農業をしています。
 無農薬・無化学肥料はもちろん、家庭で出る野菜くずなどを全て牛の糞と混ぜて堆肥化し、畑に還すことに徹しています。
 食物は燃えるごみではない、とういことにこだわるようになったのも、参禅の大きな成果です。
 「自分とはどういう存在なのか?」「自然と一つである。」
 それを身をもって実感することができた、ということです。
 参禅をしようと深く決意したのは、一杯のお粥の温もりが、全身に染み渡る体験をしたときでした。
 当時、IT関連の仕事で、朝から晩までPCに向かう暮らしに限界を感じ、心身が病み、アル中になっていました。酒が手放せず、自分を完全に見失っていました。
 「自分とはどういう存在なのか?」「自己とは?本来的に生きるとは?」
 そのような問いかけは、中学生時代からずっとあり、哲学・宗教の本をよく読んできました。禅には特に興味がありました。それでも、知識としてだけでは解決されない、腑に落ちないものを、ずっと抱え続けていました。
 縁あって、自分が最も切実に求めているときに、実践としての禅、学道舎に出会うことになったのです。
 仕事も住処も捨て、というと大袈裟ですが、少なくとも気分としては、もうこれしかないという、切羽詰った状況で学道舎に向かいました。

 月に一度の摂心を中心に、半年間通い続けたのは、坐禅そのものだけでなく、学道舎を取り囲む、本物の自然と一体となって呼吸できる場所を求めたということも、大きな理由です。


 ブナの原生林が広がる芦生の森の麓、鹿の声や山鳥の鳴き声が、カーンと山々に木霊する音が響きます。新緑の躍動感、源流の清澄感、森の呼吸・・静寂に包まれながらも、本当の自然の音が、自分の体内から沸き起こってくるのを実感できる場所です。
 一本の木の影を辿れば太陽があるように、自己を徹底的に探求すれば宇宙がある。
 そんなくさい言葉を、なんの衒いもなく、ただ実感として思うようになりました。
 坐禅、提唱(老師が禅語録などを読んでくださる)、独参(老師との対座)が摂心の三本柱と言われます。

 参禅者の私語は厳禁ですが、禅堂の空気や内的想いに触発され、自己との対話、内面の言葉は、普段よりも膨大になるような気がします。(坐禅に同じ道がある訳ではないので、あくまでも個人的な体験です。)


 無我とか無心の境地というものには、全くこだわりません。何も考えないということもせず、内面に去来することを、手をつけずに、放っておく。

 呼吸そのものになることだけに意識を集中すると、自分が宇宙に放り出される感覚、逆に言えば、雨の滴が落ちる音が、自分の内から聞こえてくる感覚になり、内も外も境界がなく、しがみついている自己もなくなる。

 それでいて、この宇宙に自己が存在しているということが、はっきりと分かるようになります。


 坐禅をすることは、非日常や現実逃避でもなければ、特別な力を得るというのでもありません。当たり前のことが当たり前と分かる、その単純さに気付くものだと思います。
 ここからが禅で、これは別というのではありません。日々の暮らしの中で毎日坐禅をしてはいませんが、私にとっては畑を耕すこと、日々の食事を頂くことが、禅と同じだと思っています。

 得てして日常生活では、宇宙や自然との関係の中での自分の位置を見失いがちですから、学道舎のような場所で、定期的に確認作業をしなければならない、というのはあります。


 ご縁がありましたら、学道舎で道を求める方と一緒に坐ることができたら、そう願っております。

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参禅の感想-2

Hさん 男性 30代前半 ドイツ フライブルク在住

参禅の動機

 私は西洋哲学の研究をはじめて8年になりますが、数年前から、これまでまったく気が付かずにいた、哲学と仏教のつながりが少しずつ見えてまいりました。その後、仏教とくに禅を自分なりに勉強しながら、実際にフライブルクのある禅グループの坐禅会にも、定期的に参加するようになりました。

 禅のみならず仏教では一般にそうでしょうが、教えを単に知識として勉強するのではなく、実践つまり修行がそこに伴わなければまったく不十分だという考えがあってのことです。

 そんななか、昨年の12月に日本に帰った折、東京のあるお寺で集中坐禅会に参加する機会がありました。ところがその指導のあまりの厳しさ、策礼の激しさに、心身ともに耐えられず、途中で脱落せざるを得ませんでした。

 その時は自分の意気込みの甘さを悔いて、今後どのように坐禅に関わっていったら良いかと悩みもしました。その後ドイツに戻ってからも細々と坐禅を続けていましたが、そんななか、偶然にも朽木學道舎のホームページに出会いました。

 老師の活動や理念について拝読させていただき感銘を受け、そこになにか言い知れぬご縁を感じて、今年(2006年)11月末に7日間の独摂心をさせていただいた次第です。

 【摂心

 摂心中は毎日、独参の時間を設けていただきました。お話の中で印象的だったのは、坐禅における「呼吸」の大切さでした。酸素を取り込み、二酸化炭素を吐くという一見単純な活動に、私たちの生命は支えられており、またそのなかに自然全体とのつながりがあらわれている。

 これまでの参禅では無字の公案が課されましたが、今回こうした呼吸の出入りに意識を集中し、呼吸に成り切ろうとする「随息観」に、初めて取り組みました。まず指摘されたことは、自分の呼吸の「粗さ」でした。

 これまでひたすら気合を入れて無に成り切ろうとする坐禅をしてきた結果、体に余計な力が入っていただけでなく、あまりにも呼吸をないがしろにしていたことに気づかされました。

あたかも針に糸を通すように綿密な呼吸を心掛けて、音や気配すらも出さない位に細やかな呼吸を練っていくように、と老師は注意されました。摂心の最初は、姿勢を保つことや呼吸を調えることに腐心していましたが、4日目を過ぎた頃から体も呼吸も安定しはじめ、同時に呼吸に意識を置くことが容易になってきました。

不思議なことに、こうなると楽れるようになってきます。もちろん体の節々も痛くなっているのですが、それも丁度いい緊張感をもたらしてくれました。摂心5日目になると、かなり深い集中が可能になってきました。

 おそらくそれと関係があるのでしょうが、ある時、呼吸に集中するあまり、突然呼吸の音が聞こえなくなって、静寂のなか、世界と自分の時間がピタッと止まってしまったかのような不思議な経験がありました。

 また、休憩中外に出たときのことですが、ふと見上げると、川岸に立っていた木々の色、形、模様のなかに、瞬間自分の意識がすーっと引き込まれていくような現象も経験しました。

 老師は、大切なことは「正受する」こと、つまり自我を介在させることなく、ものごとを正しく受け取ること・ありのままに受け取ることだとおっしゃっていましたが、坐禅をひたすら続けることで、意識が世界に対して何らかの判断を加える以前に立ち帰り、主観と客観の分離が成立する以前の、ものそのものがありのままに受け取られる場に立ち会うことができる、ということが分かったように思えます。

摂心を終えて

 7日間、これほどまで集中的に坐り続けたことは、私にとって初めての経験でした。坐禅、とくに呼吸の仕方、呼吸への集中の仕方が、この摂心を通じてかなり身についたのではないかと感じています。摂心前に老師からいただいたメールの中で、「できれば7日間坐り続けるように」と言われていました。

今回の参禅で、今後坐禅を進めていくうえでの基礎ができたように思えます。しかし、独参のときに老師がおっしゃった「坐禅をすることは何ら特別なことではありません」という言葉は印象的でした。

 いたずらに厳しさだけを振りかざして、これが坐禅なのだとして、それが何か高尚なことであるかのように考える風潮や、そうしたことが禅を必要としている多くの人々を遠ざけてしまっている現状を嘆いておられました。

 尋常でない厳しさ、苦行を通じて見性を得たとしても、それでは見性した「私」が残ってしまい、こんどは「悟り」の経験に縛られ、自由を失う危険があること、見性や悟りどころか、禅や仏教の跡形も残らなくなるよう「熟すまで待つ」姿勢が大切だということには、大変共感しています。

 釈尊が「苦行によっては悟れない」とお気付きになり山を降りたことには、やはり大きな意味があったのだと感じます。坐禅をすることは何ら特別なことではなく、それどころか世間の目から見ればなんと無駄なこと、愚かなことに見えるかもしれません。しかし、「愚かさに徹する愚者こそが賢者になる」、老師のこの言葉に深く考えさせられています。

 かつての禅の世界では、修行者が優れた師を求めて諸方を訪ね歩くことが行われていると聞きますが、坐禅を進めていく上で、自分にあった見識のある指導者が本当に不可欠であると感じます。何といっても、人は「決して一人では悟ることができない」のですから。

 今回は冬支度でお忙しいにもかかわらず、独摂心の場を設けてくださり、心より感謝申し上げます。ありがとうございました。

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参禅の感想-4

Dさん 男性 30代 京都市 禅宗僧侶
五日間有難うございました。
老師並びに奥様、食事、参禅環境のお世話有難うございました。真心のある御もてな しが身に沁み込んできたように感じています。 熱心な参禅者の方々には、その姿勢、菩提心に、感動、励まされ、よい刺激を受 けることが出来ました。厚く感謝しています。
箇条書きですみませんが、以下に印象に残っていることをテーマごとに日記風に述べ てみたいと思います。
・自然環境の素晴らしさ
日本的な創造性、懐かしさ漂う茅葺屋根の禅堂とその周りの素晴らしい自然環境の中で、しばらく自己に親しむ生活から遠ざかっていた自分を振り返ることができた。無意識に自然的な生活に戻りたい、帰りたいという要求がずっと働いていたのだと思う。

 坐禅と坐禅の合間、近くの神社まで20分ぐらいの道程、童心のようになって雪の中を踏みしめた時、「ほっと自分に帰っているという感覚」が甦ってきました。なんだか、針畑川の「源流」を訪ねることは、日本人の源流、精神の源流、自分というものの源流と繋がっている気がした。


・自然ということ
 独参で今の自分の精神状態を述べた時、自分の口から「自然体でいたいという感じが自分の中にあります。人を見ても、世の中を見ても、皆そういう思いがあるように思います。日本人には、自然というものが心の情景にあるというか、素朴な自然観があると思います。

けど、『自然で居たい』ということに囚われると、自然ではいられないというか、『自然をよし』(たぶん自然主義のようなことを言いた かったのだと思う)とするのは本当の自然じゃないというか、だから自然には生きられないというか。それもまた、自然という言葉に振り回されているような・・・」というような事を言った。

 老師は「只管打坐も同じ事です。只が残っているうちは只ではないのです」と。また、「自然というのは後から名付けた名前です。そういう状態があるわけではないのです。自然不可得ですよ」と云った。「自然不可得」の響きが、胸に飛び込んできた。

 そう云えば、食事をした部屋の壁の額には「no nature」というゲーリー・スナイダーの詩があった。そうだ、ここ(朽木學道舎)へ来る前のメールのやり取りで、「山や川と共に坐ってごらんなさい」と老師からメールを頂いたのだった。


・大地性
 此処に来て「大地性」ということについても触れられたように思う。やはり「大地から離れて、人は生きられない」。「大地に在る」という生活。「大地の上に大地と共に生きる」、鈴木大拙のいう「大地的霊性」の自覚が、「大地性」を失った現代の人々の無意識に、それを要請しているようなものがあるのだろうと感じる。

 もっと昔の日本人はもっとおおらかで、たくましかったのだと思う。老師は「今のお寺には、たくましさがないように感じます」と言った。まったくそうであり、自分もその中の一人だと思った。一日目に「そんなに眉間にシワを寄せ、小さく坐らないでドッシリと大地に任せて、もっと大きく坐りなさい」と云われたのを思い出す。


・専門の禅道場との比較について
 この禅堂では、自分自身の自主性を重んじてくれる。それはある意味、厳しいことである。規則に拠って、人の命令に従って行動する方が楽なこともあるからだ。自分は禅宗の専門道場で何年間か修行させてもらった身なので、伝統や形式、制度や規矩(規則)の必要性、重要性も感じてはいるが、上の人からの命令によってやらされているという思いがずっとあったと思う。

 どうしても、先輩方の云う「させて頂く」という思いが起らない自分に悩んだこともあった。そんなこと、いつのまにか忘れてしまったが…


 今朝、TV番組で禅寺の参禅風景が映されていたが、ずっと係りの僧侶が、参禅者の人たちを睨みっぱなしだった(笑)。正座も崩さしてもらえず、ただ我慢する生活を強いられて一泊して家に帰っていく。それなりに禅寺の厳しさも体験し、一日我慢できた自分に満足できるだろうが、なんだか「この体験を活かして実生活も・・・」だけでは寂しいような気持ちだ。
 本当の厳しさ、優しさとは何だろうか。あれでは、いかにも禅寺は特別な修行をする処であり、人を寄せ付けないというイメージを作ってしまい、禅マニアしか行かなくなるではないかと危惧する(笑)。初めて坐禅する方に、痛さや厳しさを植え込み、高尚?な話をして、遠ざけてしまうという現状に違和感を感じたことがある。

 また、僧侶側においても、大きな修行道場の摂心では、部署や持ち場によってはとても忙しく、一度も一週間坐り通したということがない状態のまま、1年後、二年後に、自坊(自分のお寺)に戻って、住職の仕事に就くという修行僧がほとんどです。


 お寺で精神を鍛えるのが目的ではありませんが、摂心による「靜中の工夫」(基礎)なしに、いきなり「動中の工夫」(応用)に向わなければならないのは、実践生活、精神生活上大変なことだと思います。

 私自身も料理当番や、参禅者のお世話係りの時、自身で坐禅できないことを悔やみ、与えられた仕事に徹せられなかったことがありました。「菩提心」の大事さを今更ながら思います。


・これから
 ここしばらく、坐というものから離れた生活をしていて、最近、「坐りたい」という気持ちが強く起こってきた。この禅堂で5日間、みっちり坐らしていただくことができ感謝しています。これからも、「坐りぬく」まで「坐りたい」という気持ちを大切 に参禅して行きたいと思っています。
 参禅中、『肯心みずから許す』いう言葉を頂きました。それは、「自分で自分を許すということ」。カウンセリングでは「人に受け入れられて、初めて自分を受け入れら れる」ということを云いますが、「人に許される、受け入れられる」ということを超えた「自分で自分を許す」という道があるということを知りました。

さらに、独参で 「最後は、許すも許されるもないんですよ」と老師に言われてしまいましたが・・・


 私の参禅は始まったばかりです。     合掌

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