サンガ通信「風轍」

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  • 参禅の感想-15 2016年11月6日

    T.Mさん 20代後半

    目次
    大学時代の探求と宗教との出会い
    ダルマサンガとの出会い
    禅道場での修行
    修行の経過
    現成公案

    大学時代の探求と宗教との出会い

     大学に入学したころから「共生とはどういうことか」ということが頭から離れなかった。自分自身がこれからどのように生きていくべきか分からなかった。自分と周りの人がどうすれば平穏無事でいられるのか分からなかった。自分の内側から湧いてくるこれらの問いに答えようと在学中は経済学から科学哲学まで幅広い分野を学んだ。しかし大学の学問はどうしても私にとってはリアリティを感じることができなかった。机上で学んだことと現実世界の乖離を常に感じていた。

     そんなとき、友人の一人が仏教の考え方を紹介してくれた。Youtubeの南直哉さんの動画も合わせて紹介してくれた。その晩、その動画をみて衝撃を受けた。「自分は如何に生きていくか」「他者とどのように共存していくか」という仏教の扱っている中心問題は私の抱えていた問題そのものであるように感じた。そこから仏教に興味をもって、インドでチベット仏教の入門コースを受講したり、京都の参禅会に参加したりして修行と勉強を始めた。

     仏教への興味と理解が深まってくると、宗教一般への興味も芽生えた。キリスト教系の大学に通っていたこともあって実際には、キリスト教の方が仏教よりも身近な環境だった。大学礼拝に参加したり、通学中に四谷のイグナチオ教会のミサや朝祷会に参加するようになった。当時は、自分自身が日本人として生きていることに実感が無かったので、特に日本の禅にこだわりがある訳でもなく、結局キリスト教も仏教も他の宗教も結局は同じことを説いているように感じた。それでもキリスト教で洗礼を受けることは無かった。当時、明確に意識していた訳ではないが、今考えているみると教団としてのキリスト教が教義を重んじて、聖書の解釈、イエスキリストの解釈はこうあるべきという模範解答を示すばかりで信者とキリストの個人的なつながり、信者にとってのキリストとはどういう存在であるかということを軽んじることに違和感を感じていたのかもしれない。それでも大学時代は自分の問題意識を現実世界に及んで深く掘り下げようと朝のミサには通い続けた。キリスト教の教義のためではなく自分の問題解決のために跪いて祈り続けた。

     宗教への興味を持った時期に一方では大学からの交換留学生としてベルギーに留学する機会に恵まれた。それまで日本で生活してきた私にとって、自分が日本人として生きていることを意識することは無かった。しかし一度日本の外で生活を始めると自分が日本人であることを強く意識せざるを得なくなった。それからは、せっかく日本人として生まれてきたのだからという理由で日本と日本人について関心が移り、日本の文化に深く根付く禅仏教に惹かれるようになった。
     

    ダルマサンガとの出会い

     大学卒業を直前に控えたころ、カトリック教会へのミサに参加しながら坐禅も継続したいと思った。良い座布をインターネットで探していたところ、ダルマサンガの販売している座布を見つけて注文した。それが縁となり、在家で本格的な摂心ができる禅堂があることを知り、大学卒業前に一度参禅してみることにした。

     初めて朽木學道舎に行って、その環境の素晴らしさに感動した。背後には山、前には川が流れる自然環境に位置して、日本の伝統家屋である茅葺屋根の禅堂はベルギーから帰ってきて、日本とは何かということを考えていた私にとってはまさに求めていたものだった。これぞ古来日本人の生き方が伝えられていると思った。

     そこで飯高老師と初めて相見して、坐禅に興味を持った理由などを聞かれたがそのときは自分の中の考えが纏まっておらず、うまく伝えることはできなかった。けれども、老師の圧倒的な存在感と力強さを感じることはできた。

     本格的な初めての摂心では呼吸についての指導を受けた。以前に行った参禅会でも坐禅の入門としての数息観といった話を聞いていたので、最初はそれの延長くらいにしか考えていなかった。摂心の日数を重ねて提唱と独参を受けていくうちに、呼吸が坐禅にとってすごく大切なものであることが理解できるようになった。とはいうものの体感として呼吸の大切さを理解できた訳ではなく、最初の摂心は体のあちこちが痛む中で内から湧き出てくる想念に振り回されながら終わった。最後の独参の際に老師に「何を求めてそれほど真剣に坐っておられるのですか」と質問されて「坐禅は私にとって十字架に掛かることです」と答えようと思ったが、禅修行の場でキリスト教の話を持ち出すのも不適切かと思い、何も言わず黙っていた。今思えば初めての摂心は体は痛かったが、提唱と独参でいただいた言葉がどこか自分の心に、自分の抱いていた問題意識に響いていることを感じていたのだろう。これまで大学での学問や知識としての仏教やキリスト教では決して解決のできない自分の内なる問いの根本的かつ現実的解決法を坐禅や摂心を通して実践できる気がした。
     
     初めてのダルマサンガでの摂心は充実したものであったが継続的な通参は難しいと思っていた。というのも大学時代に留学した際に就職先を決めて帰国したので、大学を卒業したら働くためにまた海外に戻る予定だった。しかし、就労ビザの関係で予定通りに働き始めることが難しくなり、進路を考え直すことになった。元々、自分の問題意識を解決するために宗教的な生活への興味はあったので、就職する予定が頓挫したことを契機としてキリスト教の修道院か禅宗の僧堂のようなところで集中的に修行をしてみようと思った。ここでもやはり自分が日本人であるという意識を大切にしたいと思い、また日本人の農業を基本とした生活にも興味があったのでカトリックの修道院ではなく、曹洞宗の禅道場に入門した。

    禅道場での修行

     入門した禅道場は曹洞宗の認可僧堂ではないが僧堂に近いスケジュールに沿って生活しており、摂心も毎月することができる場所だった。また米や野菜を自分たちで作り、山から原木を切り出して料理と風呂は薪エネルギーで生活するという自給自足に近い生活をしていたので作務もかなり忙しかった。農作業や山仕事をしながら禅修行をすることは充実感があり、楽しかったが「自分はここに何をしに来たのか」ということを自分自身で常に意識しなければ、己事究明を中心にする修行生活ではなく、ただの農的隠遁生活に陥ってしまう危険性があった。本来の禅道場のあり方は摂心、坐禅を主として、その坐禅を中心とした生活を支えるために作務がある。しかし自給自足のような生活をしているとそんなキレイごとは言っていられない。天気や米、野菜の様子に合わせて摂心の日程があってもそれをキャンセルして農作業を行わななければならないこともしばしばあった。そうしたことが重なるとどうしても農作業が主で摂心や坐禅が従になり本来の修行の主従関係が逆転してしまうこともあった。

     坐禅については「ただ黙って坐る」を家風とする道場だったので、坐禅の指導はほとんどなく、摂心中は一切無言でお経や偈文はなく、提唱や独参もなかった。そのために坐禅の方法やあり方などに混乱をきたしている参禅者の姿もよく見られた。具体的には坐禅を何のために、どこに向かってやるかについていつも迷いの中にいる人や坐禅中の姿勢(法界定印や背筋の伸びなど)に囚われて、坐禅中はそればかりを気にしている人などであった。幸運なことに私自身は禅道場に滞在して生活しながら、時間を見つけては年に数回はダルマサンガに継続して参禅して飯高老師の指導を受けていたので、坐禅の方法やあり方、どこに向かって修行しているかなど迷うことはほとんどなかった。曹洞宗の禅道場とダルマサンガの両方の坐禅、摂心を経験して、坐禅、提唱、独参の三本柱は摂心には欠かせないように思う。そうしなければ修行者の勝手な都合の良い解釈で修行がおかしな方向に進んだり、一方でせっかく発心した人が坐禅の仕方、方向が定まらず修行全体に対して絶望することにもなりかねない。

     また曹洞宗の道場であったので「悟り」の事実を根底から否定されることも多かった。「悟り」はタブーのように扱われ、それについて参禅者の間で話題にすることはほとんど無かった。身心脱落や悟りを求めて修行するのではなく、すでに悟っているからこそ修行ができる、生活そのものが悟りであるといった解釈が主流であった。もちろんこのような解釈は「悟り」を自分の外において、何か特別なものを追い求める修行者を戒める意味である。それでも私にとっては「悟り」の事実を頭から否定する曹洞宗のあり方に疑問を感じていた。それはダルマサンガでの参禅を通して、ブッダダルマとは本来どういうものであるかという実際の様子を飯高老師から直接お聞きしていたので、当然の疑問であった。問題なのは「悟り」自体ではなく「悟り」に執着して、そこに腰掛けようとする「人」であり「自意識」であるにも関わらず、宗門では「悟り」自体を問題としている点が明確におかしいと感じていた。

     入門した禅道場には結局3年間滞在したが、叢林での修行の難しさを何度も痛感することがあった。一つ目は道場の規矩(規則)やスケジュールに従っていれば修行をしている気になってしまう危険性があった。典座当番で料理が上手に作れるようになったから、食事作法を覚えたから、鐘が上手く打てるようになったから修行が進んでいる訳ではないが、禅道場という閉鎖空間は勘違いを招きやすい環境であった。そんなこともあって私自身は機会があれば意識して禅道場の外に出て、ダルマサンガの摂心に参禅したり、托鉢に出たりして環境がマンネリ化しないように注意して、禅道場に滞在中は自分の問題意識を解決するために禅道場で修行していることを意識して思い起こしていた。禅道場での修行の難しさの2つ目は指導者が禅の修行を終えた師家ではなく、先輩雲水(修行者)であったこと。もちろん責任者としての堂頭はいたが、叢林生活での指導の中心は先輩雲水であった。禅修行の本来の目的は己事究明であって、他人の機嫌を伺う方法を学ぶことではない。しかし、先輩雲水が指導役となると己事究明ではなく、常に先輩雲水の目を気にしての修行となってしまい、せっかくの恵まれた環境が台無しになってしまう危険性さえあった。最後に毎月同じスケジュールでまた同じメンバーで生活しているので修行がマンネリ化しやすい環境にあった。ダルマサンガでは在家の方が中心で、摂心参禅のメンバーは毎回変化するし、また当分摂心に参禅できない方も多いので一回の摂心に向けた真剣さが凄まじいと感じる。それに対して禅道場では今月の摂心が終わってもまた来月の摂心があるような気がして一回の摂心に賭けるモチベーションを維持することは難しかった。

    修行の経過

     禅道場で修行する難しさを感じながらも、ダルマサンガに平行して参禅していたので修行を相続して来れたと思っている。曹洞宗の禅道場に入門して以降、私はどこか坐禅にこだわりを持っていた。坐禅さえしていれば、安心で修行はできていると思っていた。そんな折、飯高老師よりメールをいただく。「ダルマサンガは、参禅者のそれぞれが自らが修行する場として、各自が支えて行く禅堂です。薪割りや、屋根の葺き替えの萱刈りなど、多くの参禅者が手伝いにきてくれ、そうして摂心の相続が可能になっているのです。あなたは、摂心に来られるだけです。」

     言葉が心に突き刺さった。体に電気が走ったようだった。なんと自分は愚かであったことか、これまで坐禅、摂心のことしか考えられなかった自分が情けなくて、申し訳なくて本当に悲しかった。これまでの自分のことしか考えていない行動を心から懺悔して反省した。

     このことを契機として自分の修行する場を自分自身で支えていくことの大切さに気づき、坐禅に対する特別意識もなくなっていった。坐禅中の姿勢のこだわりのようなものもなくなっていった。すべてを「修行」として身構えるのではなく、より自然体で生活できるようになっていった。自分の修行をする場を自分自身で支えていくという姿勢、そしてそれを実践することは修行を深める上で大切なことだった。

     修行の深まりを感じ始めていたころ、坐禅の様子も変化し始めた。ある夏の朽木での摂心で朝晩にヒグラシが鳴いていて、その声が今まで感じたことのないほど鮮明に聞こえるようになっていた。こんなこともあるんだなあと自分でも驚いた。

     修行を深める上でもう一つ大切だったのは、信仰ではなく信を持つこと。神様を信仰したところで、仏教を信仰したところで、自分の問題が解決できるとは限らない。坐禅をするのも何かのためにするのではない。ダルマサンガの摂心に参禅していてもそれは同じことで当初は「何かを独参に持っていきたい」と思う気持ちがどこかであった。しかし自分自身だけを信じて坐に徹しきることが何よりも大切だった。どれだけ素晴らしい提唱を聞いても、何度独参を受けても、信決定して徹底して坐禅するまでは問題を解決することはできないと思った。飯高老師も提唱でこのことはよく言われてる。

     曹洞宗の禅道場に入門して2年が過ぎた頃、出家得度することになった。安名(お坊さんの名前)を考えていたところ、以前ダルマサンガの提唱でお聞きした道元禅師の道歌が真っ先に頭に浮かんだ。『冬草も 見えぬ雪野のしらさぎは おのか姿に身をかくしけり』。『禮拝』と名付けられた道歌だった。朽木學道舎の真冬の越年摂心の提唱で聞いた一句で、提唱で聞いてからその道歌が頭から離れなかった。外は雪が降りしきり、一面真っ白になった景色と道歌に詠われた情景が心の中で深く共鳴していたのだと思う。私の修行の目的は坐禅を習得することでも仏教マニアになることでもなかった。本当に身も心も礼拝をする、そんな礼拝ができたとき、自分自身の修行は円成すると思った。何年、禅道場で修行しても、住職に嗣法の資格を貰っても、自分自身が全てのものに心から礼拝できなければ修行が円成することはないと思った。せっかく出家得度の縁を頂けたなら、心から礼拝ができる自分自身に正直な坊さんになりたいと思った。

     また朽木學道舎のトイレに貼ってある張り紙を読んだ。そこには「この雪隠は雲古を微生物の力を借りて禅堂の畑の野菜を育てる肥料に変えます」という旨が書かれていた。雪隠はなんと素晴らしいものかと感動した。この二つのことが機縁となり「雪隠」という安名をいただいた。出家得度して以来、大衣に御袈裟を掛けて坐禅するようになり、より一層の精進に努めようと気持ちを新たにした。

    現成公案

     禅道場での最後の雪安居中に大きな転機があった。その年の雪安居中の課題の一つは道元禅師の『学道用心集』の参究であった。その中で『狗子仏性』の公案について言及されていた。それを読んだ瞬間、ここ3年間ほど相続してきた「呼吸を見つめる功夫」が臍落ちした。これまでは頑張って呼吸を見つめようと努めていたけれども、別に努める必要はどこにもないことに気づいた。小さな「私」が見つめようが見つめないが呼吸は常に存在していて、「私」に宿っていることに気づいた。『狗子仏性』で狗子に仏性があるか、ないかという問い自体に意味がないのと同じように、呼吸においても「私」が見つめる、見つめないのには関係なくそこに確かに存在していることに気づいた。以前知識として聞いたことのあった公案が始めて自分の問題として降りてきた。これは結構な衝撃だった。一気に肩の力が抜けた。呼吸を努めて見つめよう、見つめようとしてなんとこれまで独り相撲をしてきたことか。それ以来坐禅の深まりを一層感じるようになった。

     3年間過ごした禅道場を離れ、曹洞宗の本山で修行することになった。本山に上山する前に少しまとまった時間が取れたのでダルマサンガの大多喜學道舎の摂心に始めて参禅することになった。久しぶりの7日間の摂心ということもあり、後悔のないように油断なく坐っていた。この摂心は一日目からかなり集中できていた。5日目の独参で、残りの摂心の時間を只管打坐で坐るよう指導を受けた。6日目は坐禅の方法を息念の法から只管打坐に変化させたため最初は掴みどころがなく、なかなか落ち着かなかったが夕方くらいになるとようやく落ち着いてきた。6日目の差定が終了し、最後の夜だったのでしばらく夜坐をしようと思い、居間で休憩しながら「喫茶去」の扁額を見た途端、笑いが込み上げてきた。周りに他の参禅者の方もおられたので心の中で笑っていた。「喫茶去」。なんと当たり前のことか。そんなことは言うまでもないことではないかと。食事が坐禅と同じで大切である所以が臍落ちした。応量器を使って食事をすることと坐禅で只管打坐することが全く同じに感じた。そうすると自分でも驚くほど意識が鮮明になり、高揚しているのを感じた。その状態で夜坐を始めると、これまで聞いたことがあった公案が次々と向こうから降りてくるのを感じた。『南泉斬猫』『婆子焼庵』これまで訳の分からなかった公案が手に取るように、自分の問題としてよく分かる。どうしてそうなったのか自分でもよく分からなかった。最終日の独参で老師にそのことを報告。その後「転た悟れば、転た捨てよ。途中のことですから決して掴まないように」という言葉をいただく。

     人の自意識は巧妙なもので自分が意識していなくても、知らず知らずの間に世界と自分自身との間に境界を作ってしまう。ダルマサンガのホームページにも述べられているように、継続して同じ場所に参禅しているとその場所に基づいて摂心や修行の枠のようなものを作ってしまう。これまでは朽木學道舎で参禅していたので、どこかで自分で枠を作り、自分自身をその枠に閉じ込めていたのかもしれない。今回場所を変えて、大多喜學道舎での初めての参禅経験がそれを如実に実証することとなった。

     ブッダダルマ(法)を求めて禅修行することは簡単ではない。曹洞宗のような伝統と格式のある禅道場の門を叩いてもそこで本当にブッダダルマを参究できるとは限らない。むしろブッダダルマを参究するのに必要なことは自分自身の内から湧いてくる問題意識を決して誤魔化さないこと、そしてブッダダルマを体現している指導者に教えを請うことであると思う。そしてそれをどこまでも相続していくことに尽きる。まさに坐禅弁道と参師問法の両輪を軸として正念相続をしていくのみである。近道はどこにもない。どこかの禅道場や僧堂で修行していても、それに満足して腰掛けるのではなく、自分自身の修行を絶えず問い直すことが大切だと思う。「百尺竿頭進一歩」という絡子(御袈裟の簡略版)の裏面に書かれた言葉が身にしみる。ということでこの参禅記を終わりにしたいと思う。

    2016年9月28日
    合掌

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  • 大多喜學道舎の禅堂工事完了 2013年6月19日

    大多喜學道舎の禅堂が完成しました。

    一昨年から進めて参りました大多喜學道舎の禅堂工事が一段落し、参禅者を迎えることができるようになりましたので、お知らせします。

    一昨年12月の不動産購入後、昨年は朽木での摂心や屋根の葺替え工事などの合間に、月に1週間から10日ほど大多喜に滞在し、電気水道はもちろんトイレもないような状態の中、十数年空家だった倉庫状態の家に寝泊まりし、建物内外の片付けや、生えこんだ周辺の樹木の伐採・剪定などに明け暮れました。

    その後、年末年始の「成道会摂心」を済ませた後、大多喜へ出向き、この冬はまず電気工事を済ませ、引き続き水道とトイレ、ガス工事を完了し、3月下旬から大工さんと共に改築工事に掛かり、6月始めにようやく一段落することができました。

    お陰様で、最初から専用禅堂として設計したかのような素晴らしい禅堂になったかと自負しております。全体として小じんまりした禅堂ですが、外単を含めますと26名ほどが坐禅できます。

    まだ玄関や壁の左官仕事が残ってはおりますが、これらは使いながら工事を進めて行くこととして、開単することとしました。古人が樹下石上で坐禅し、ご苦労されたことを思えば、これもまた風流かと思います。

    この新しい禅堂で、みなさまと共に坐禅できますことを楽しみにしております。

    山主敬白

    完成した玄関と下駄箱
    完成した玄関と下駄箱
    禅堂の内部
    禅堂の内部

     

     

     

     

     

     

     

    改築前の様子
    改築前の様子
    聖僧壇の工事
    聖僧壇の工事

     

    床板を張る
    床板を張る

     

     

     

     

     

    独参室の床の間
    独参室の床の間

     

    工事前の独参室
    工事前の独参室

     

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  • 参禅の感想ー14 アメリカでの禅との出会いから、朽木學道舎まで 2012年10月19日

    30代女性 環境教育 新潟県在住

    禅との出会いは、今から10年ほど前、アメリカでのことでした。

    交換留学でカリフォルニアの Santa Clara University というカトリックの大学へ行き(渡米した日はなんと2001年9月10日でした)、宗教学(Religious Studies)を志望して、様々な授業を受けていました。

    その中の「Zen Spirituality」という授業を受講し、「これだったのか!」と思いました。
    どう生きたらいいのか、どう生きていきたいのか、という悩みに、あるいは何となく予感していたことに、”Zen” は次々と答えと名前をくれるかのような出会いでした。

    その「Zen Spirituality」の授業には40~50人の学生が出席していて、講義の前に必ず15分間の坐禅の時間がありました。
    教授はもとは神父でありながら仏教(禅)に改修した黒人の男性で、その教授の振鈴(チベタンベル)で坐禅が始まります。

    足が組めない人は椅子で、できる人は床で、人種も先祖の国も宗教も違う様々な人たちが、一つの部屋で静かに真面目に坐を組んでいます。
    私はというと日本人でありながら、仏教徒でもなければ坐禅も初めて。まさに「るつぼ」と言った感じの不思議な空間でした。

    毎回の授業ごとに数十ページという何冊もの禅関連のテキストの読書が課題で、今は日本に逆輸入されている「Zen Mind, Beginners Mind」という鈴木俊隆老師の本も英語で読みました。日本で仏教の本を読んでも難解だった教えやお経の意味などが、英語では明快に分かりやすく翻訳されていました。

    授業だけでなく毎日朝晩坐るようになり、バスに自転車を積んで朝の坐禅会へ通ったりもしていました。

    一番の衝撃は、カリフォルニアの南部にあるZen Mountain Centerでの ‘Earth&Sky Sesshin’ に参加したことでした。
    空港から車で2時間ほど入った、街とは隔絶された山のど真ん中にある禅堂で、私は初めての摂心(確か5日間だったと思います)を体験しました。
    もちろん無言の行で肉食もせず、朝は少し山を登っていった所にある開けた岩の上で、蝋燭の明かりを真ん中に置いて、円になって夜明けまで坐禅をしたり、自由時間の間に希望者が集まってヨガをしたり、一人で森の中で坐ったりと、伝統的な禅の摂心とは違うかもしれませんが、本当に心地よく満ち足りた時間を過ごしました。

    指導者はニュージーランド出身の方で、独参を受ける機会もいただきました。
    長期滞在者(resident)と私のような短期の参禅者が混じっており、摂心後に話したところ「大学入学までの半年はここで過ごすんだ」という18歳の男の子や、ヨガをインドなどで一通り学んでから、ここに長期滞在している目のきれいな男性、私の帰り際に遠くから大声で「会えてよかった!」と叫んでくれた快活な女性など、多様な理由で、多様な人たちがそこに集っていました。
    その摂心は括弧づけで retreat(リトリート、隠遁) ともされており、アメリカでは普段の暮らしと瞑想的な “隠遁生活” との間を、こんなに自由に行ったり来たりできるのかと驚きました。

    日本に帰ってからも、アメリカで禅を通して出会った人たちの美しさが忘れられず、あれはどこから来るんだろう?と書物に探し始めて、アメリカの禅と、50~60年代のビート・ジェネレーション、ディープ・エコロジーなどを絡めて「空の心~『アメリカ禅』が呼び覚ます仏教の新たな可能性」という勇敢なタイトルの(笑)卒業論文を書きました。
    その動機の一つになったのは、帰国してから方々の禅寺や禅の会に参加してもアメリカで体験したような感動がなかったことでした。

    坐禅する人の中に若い人は当時はあまりおらず、また作法や読経などが大変重んじられていて、アメリカの「誰もが選べる様々な瞑想法の一つ」のような気軽さとは正反対に、禅は一部の人達のものという感じがしました。

    その中でも、鎌倉の寺で開かれる居士向けの摂心と土曜坐禅会には度々通っていました。

    年末の鑞八摂心は朝の2時か3時に起きだして、寒いなか窓を全開にして「丹田に力を込めれば寒くない!!」と先達の方に怒鳴られながら体を震えさせて坐ったり、うとうとするとすぐに警策を持った人が飛んで来たり、摂心中は大変辛かったのですが、摂心終了後は達成感と解放感、不思議な昂揚感があり、全身で受けるお日様の光がとても暖かかく感じられたのを覚えています。

    また、坐禅中にふっと自分がいなくなる、内と外を隔てる枠が外れるような感覚になることがたまにありました。

    居士の方の中には老師に公案をもらって独参をされている人もいましたが、当時の私には全くその意味が分かりませんでした。
    ただ自分の中で、あぁこうすればいいかもなぁ、この感じいいなぁ、そんな風にして「気持ちよい理想の状態」つまり、自分勝手な理解による“空”を追い求めて坐っていたように思います。

    他にも在家の会や、兵庫の禅道場、尼寺、屋久島の道場などを訪れました。
    自分がちょっと深く坐禅をしたいと思った時、ご縁のあった所に、曹洞/臨済の別なく片っ端から行ってみるという感じでした。

    また、正直なところ日本の禅の現場を体験して見てみたいという興味もありました。
    そして分かったことは、一口に禅と言っても、場所によって各々のカラーは全然違うということです。
    どんな組織でも独自のカラーを持つものですが、禅が体系づけられた宗派でありその骨となる部分(仏法)が揺るぎないものであるのに、血肉となる部分がこうも変わってくるのかと思いました。

    警策や独参の有無、見性の意味合い(どう見ても至っているようには見えないが、摂心中に次々と見性する人が現れたり)、老師の提唱(現代口語での説明がほとんどなかったり、提唱自体がなかったり)、それに何より坐禅の仕方についての指導が違っていました。

    きちんとこの道で修行しようという時にはこれらは大きな差異になるのかもしれませんが、当時の私には先述の通り「自分にとっての禅」ができることが重要でしたので、それぞれの“カラー” は個性程度にしか気にしていませんでしたし、法が継がれた系譜についての知識も興味もありませんでした。

    また、「この方の下で学んでみたい」と志すような師との出会いもありませんでした。
    先の鎌倉のお寺で、老師の提唱中に隣で居士の方が涙していても、私には響かないような場面もあり、本当に法縁というのは人それぞれだなぁと思います。

    就職活動もしておらず、一度はしばらく禅道場で修行してみようかとも思ったのですが親に泣かれたために止め、もともと自然が好きだったので環境教育を学ぶ大学院に入り、修了後は新潟の自然学校で働くことになりました。
    社会人になって忙しくなると、ほとんど坐禅をすることもなくなり、瞑想はヨガや “スピリチュアル” な世界のものに取って替わられたりして、実質的には禅から離れていましたが、心のどこかにはいつも禅を据えていました。

    学生時代の東京暮らしを経て、それ以降もずっと抱えることになった問題意識は、東京・都市への強烈な違和感にありました。
    言葉にするならば、自我が肥大化し、暴走している人間の在り方に対する違和感ですが、その対局には常に「自然」と「禅」がありました。

    「ほんらい人はどう在るべきか」という答えを、その両者は持っているのだとどこかで確信していました。
    そしてそれを自分が体験することで実践し、自分の仕事として表現していきたいと、今後の道を考え始めた時、朽木學道舎に出会いました。

    ホームページを見て、昨年の年末の成道会摂心に一部参加しました。
    初めてホームページを見た時にすでに「ここで修行していきたい」と腹を決めていました。
    自分が卒論を通して取り組んだテーマのまさにそのものがそこにあり、アメリカから始まった初心と今後の道とが、スーッと一本の線でつながった気がしました。

    楽しみにしていた摂心への参加、安曇川駅から雪の降る真っ白い景色の中を、バスを乗り継いで小入谷に到着しました。
    最初は禅堂の前をそれと気づかずに通りすぎてしまったほどの凄まじい雪の量に、またそんな奥まった土地に禅堂があるということにびっくりしました。

    もはやかまくらのような茅葺きの道場の扉を明けると、奥の禅堂で坐禅が始まっているようでしたので、土間で待たせていただくことにしました。

    程なくしてガツンと扉が開き、雪の中から30キロの米袋を両腕に抱えて老師が中へ入ってこられました。
    アウトドアのジャケットに冬用のブーツというお姿で、あまりにお若く見えたので「この方だろうか?」と一瞬戸惑いました。

    老師にお部屋に通していただくと、書棚に並ぶ本の数と種類にまず驚きました。
    禅だけでなく、私も大きな影響を受けたゲイリー・スナイダーを含むビート関連の書物、自然系の書物などが大変魅力的だったのと、老師が積んで来られた学識の豊かさに頭が下がる思いでした。

    また、その隣にはビートの詩人であるアレン・ギンズバーグ直筆の學道舎へのメッセージが額に入れてかけられていて、これにもまた驚きました。

    茅葺き古民家の居間を改築したという禅堂はたいへん寒く、白い毛布をかぶって皆さん坐っておられました。
    私もそのようにして坐っておりますと、老師がいらしてご自分の単に坐られました。

    薪ストーブが空気を吸う音がする以外はない静寂の中、突然「バチーン!」と、ものすごい音がしました。老師が警策を床に打ち付けた音でした。
    私はびっくりして、坐ったまま飛び跳ねていたと思います。

    そして、正確にはたどれませんが老師がこのようなことを仰りました。
    「音が鳴った瞬間、それを聞いたのは誰ですか? その間は自分はなく、ただ音そのものだったはずです。それが本来です」。

    摂心中の提唱では、老師がその時に集まった参禅者の様子を見て、曹洞/臨済の別なく禅の語録から一つ選んでお話し下さいました(同じ語録を取り上げる摂心もあります)。
    老師のお話を聞きながら、震えたり涙したりしている自分がいました。

    真っ直ぐに心に届く提唱は初めてでした。「言葉」はとても難しいものだと思います。
    言葉にして概念化することで、元々から離れているのに一人歩きしてしまう言葉があまりにも多いように感じますが、その指の間から零れ落ちるような全てを老師の言葉は掬っていくようなのです。借り物でない言葉で、大概大いに脱線しながら(笑)私たち参禅者に、なんとか伝えてくださろうとする真摯な思いが、びしびしと伝わってきました。

    毎晩の独参では、その時の坐禅の疑問点を相談することができます。
    「私に参じるのではないですよ、ご自分に参じるのです」という老師の言葉の意味が分かったのは後のことで、それまでは独参となると緊張して大変でした。
    独参を続けるうちに、いかに自分が今まで自己流の坐禅を続けてきたかが見えてきて、唖然としました。

    過去の参禅から習った坐禅の仕方(時にはある老師が仰っていた教え)について、ここでは真逆のことが言われることもしばしばでした。
    そして、独参で教わった通りに坐り始めると、今までこんなに楽に坐ったことがないというほど、リラックスして気持ちよく坐禅ができるようになってきました。

    足はもちろん痛いのですが、体のどこにも緊張がなく、摂心が進むにつれ心も自ずと静かになっていきました。
    老師は「集中」ということを仰りません。
    そこには「意識を集中させる」という自意識がすでに働いているからです。

    「自意識をどこにも添えない」と仰ります。「良い坐禅、悪い坐禅というのはない。良い悪いを付けることが悪いのです」と。
    自分の今の坐禅を持っていき、そこで極めて具体的に仏の立場からご指導いただける独参は本当に有難いものだと思います。
    「師なしで禅の修行をすることは、小さな船で大海原に漕いでいくようなものだ」と言われます。

    私は今まで、師に付くということの意義が全く分かっていませんでした。
    しかし學道舎に出会い、飯高老師に出会い、摂心に通い続ける中で、ようやく納得がいきました。

    【本来の自己に目覚める】と言って、言葉上は同じことを言っているようでも、本当にその師が「分かっていること」を話しているのかについては、参禅して体感するしかないと思います。あるいはその師が「分かっている」としても、やはり人それぞれに違う体を持って生まれてきたように、その人に与えられた法縁という不思議な働きがなければ、自分にとって正しい師とのつながりは得られないのでしょう。

    老師から「あなたには『ディープ・エコロジー』を生涯の公案としていただきたい」という言葉をいただきました。

    また「宗教や禅というものは、最後には消えてなくならなくてはいけません」とも。
    在家の身で仏道修行を終えられた老師だからこその、バランス感覚というのでしょうか、決して禅を仏道をおさめることを目的化しない姿勢に、深く共感しています。

    私はことあるごとにアメリカの禅堂を思い出します。自己の成長、あるいは自己の本来を求める全てのご縁ある人たちに、禅がより身近で開かれたものであるようにと願って止みません。

    長文にお付き合い下さりありがとうございました。 合掌

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  • 参禅の感想-13 禅との出会い インドから日本へ 2011年7月23日

    K.Yさん 30代男性 理学療法士

    禅との出会い インドから日本へ

    私はインドとネパールを1年間旅しました。その途中で瞑想することを覚え、そして日本で禅と巡り合うことになりました。

    インドを旅していると、宗教や信仰、死生観などについて考える機会が多くあります。私は瞑想やヨガを習い、実践していく中で「自分とは?」ということに向き合っていくことになりました。そして、私の関心は「故郷の日本で培われた精神性とは?」ということに移っていきました。

    禅への興味

    おそらく、日本での禅への一般的なイメージというのは、厳しい規律の中で集団生活を送ることや、坐禅中の罰則(警策)などではないかと思います。

    私の場合は、50年代のビート・60年代のヒッピーと呼ばれた人達が傾倒していたもの、現在では一部のサーファーがヨガと同様に生活に取り入れているもの、というイメージを持っていました。そして、どうして西洋人である彼らが禅に興味を示し、実践するのかに関心がありました。

    長い旅の中で知り合う西洋人の中には禅に興味を持っている人もいて、日本人よりも禅について知っている人にも会いました。彼らは、一般的な日本人が抱いているイメージを持っているわけも無く、より精神的なものを禅に求めていると思いました。

    ヴィパッサナー体験記

    ヴィパッサナーの10日間コースを初めて体験したのは、ダラムサラでした。旅の途中に出会った友人達の勧めがきっかけでした。建物の内外には仏教の装飾がほとんどされていなかったことや、口コミで広がっていることなど、宗教的ではないところが、参加しようと思った理由です。

    体験する前に、ヴィパッサナーの入門書を熟読して、その概念は頭に入っていたため、コース中のテープによる解説に対しても、比較的、理解が安易に出来たと思っています。

    はじめの3日間は、足の痛みを含めて大変でしたが、少しずつ慣れて、コース半ばは順調に進みました。そして、心に抱えていた鬱憤のようなものが取れているのに気がつき、とても穏やかな気持ちになりました。最後の3日間は疲れてしまったというのが率直な感想です。

    このヴィパッサナーは、無言で瞑想に励み、現在の自己を観察することで心が穏やかになる、とても優れた技法だと思いました。また、世界中から集まった何十人もの人々と同時に瞑想することは、とても大きなエネルギーを感じることができ、充実した時間となりました。

    その後、再び10日間コースに参加するのは少し億劫に感じたため、3日間のコースを一度行ったに留まりましたが、旅の間はほぼ毎日、短時間ながらこの瞑想を続けていました。継続していると、朝、瞑想をした日としない日では、その日一日の心の状態が随分違うと感じるようになりました。

    私はヴィパッサナーのコースを体験し、自分で継続していく中で「同じ仏教を土台としている禅、日本の伝統的な禅、様々な文化圏の人を惹きつける禅というものは、一体どういうものなのだろう?一度体験してみたい」と強く思うようになりました。しかし、寺院などで行われている坐禅会について、インターネットで調べてみたものの、私の気持ちを動かすものは見つかりませんでした。

    友との出会い

    日本へ帰ったら僧になるために出家する、という友人に出会ったのは、バラナシのガンガー沿いのゲストハウスでした。私がそこで使っていた部屋は、彼も一年前に使っていた部屋だと、別の部屋に長期滞在しているサドゥ(ヒンドゥーの修行僧)から聞いていました。彼は一年経ったこの時、バラナシに戻ってきていて、偶然そのサドゥと再会し、ゲストハウスに一緒に来たのでした。

    私はこの時、ちょうど鈴木大拙の著書を持っていたため、彼と話が合い、また、波乗りという共通の趣味を持っていたため、なんとなく波長が合ったのを覚えています。

    私が禅に興味があると話すと、この朽木學道舎を教えてくれました。そして、インターネットでそのホームページや老師のインタビューを読みました。老師の言葉にはどれも強く共感を覚え、ここへ行けば禅の本質に出会えると思い、日本に戻ったら行こうと心に決めました。

    この學道舎を知ったことは、日本に戻る良い動機になったと思います。また、この友人との出会いの状況から、ここへ行くことは、何らかのメッセージとして受け取ることが出来ました。

    摂心体験記

    日本に戻ってから、3ヵ月後に摂心に参加しました。楽しみに待っていた、6月の摂心でした。この一週間は晴れの日が多く、過ごしやすい気温で、気持ちの良い中で坐禅に集中できたと思います。禅堂には全体に木材が使われていて、落ち着いた雰囲気を作り出していました。また、自然の音と光の中で坐れる環境になっていたと思います。

    摂心で特徴的な食事の作法は、はじめは不慣れなため上手く出来ませんでしたが、慣れてくると一つ一つの動作に集中が行き渡り、落ち着いて作法を行える様になりました。これも1つの禅なのだろうと思いました。

    摂心前半の提唱で老師が話されることは、私の坐禅の進行具合にピタリと当たっていたので、このまま進めていけば良いのだと確信を持つことができました。

    毎晩の独参では、老師と一対一で坐禅の進行具合を確認でき、それに対する助言をしてもらえるため、摂心を通して安心して坐禅に集中することができました。

    休憩中は外で過ごすことが殆どでした。流れる川を見つめたり、森の中を歩いてみたりすることで、移り行く意識の流れや、宇宙との一体感の様なものを体感した気がします。

    摂心後半、一度だけ、食後の約一時間に作務を行いました。禅堂の屋根に使う藁をまとめて縛り、一箇所に集めるという作業でした。適度に体を動かすことで、その後の坐禅はより一層深くなったと思います。

    摂心が進み、半ばを過ぎた頃から、坐っていることが苦痛ではなくなりました。それに伴い、坐っていられる時間も次第に長くなり、禅定も深くなりました。楽しみさえ覚え、もっと坐っていたいと心から思うようになりました。

    最後には、現実的では無いような音が聞こえたり、目の前に虹色の紋様が現れたり、体の感覚が研ぎ澄まされたりと、今まで経験したことのない程に深い禅定に達したと思います。これらの経験は、摂心の成果が出ているという実感が湧き、充実した気持ちになりました。ただし、これらに囚われることなく坐禅を続けるように、と老師から助言を戴きました。

    終わってみて、私は禅(特に摂心)とは一つの生活様式だと思いました。それは、本来の自己を発見するために、人里離れた静かな場所で、無言を貫き、完成された共同生活を送ることだと。その中心にあるものが坐禅であると。

    そこには、厳しい規律によって管理された生活からかけ離れた、本当の意味での精神の自由が存在していると思います。このような精神的伝統のある日本に生まれたのは本当に幸運だと思います。この學道舎はそう思わせてくれる大変に貴重な場所だと心から思います。

    また摂心に参加したいという意欲が、一ヶ月以上経った今でもありますし、摂心後もほぼ毎日、短時間ながら自宅で坐禅を続けています。
    私は禅について全てを知ったわけではありませんが、自分とは何者なのかを知るためには、私にはこれが一番合っている方法だと思っています。長い旅の果てに禅と出会いましたが、自己探求の旅はまだまだ続きそうです。

    最後に、この素晴らしく貴重な経験をさせて下さった老師、毎日大変美味しい食事を作って下さったご夫人、そして、共に摂心に参加した方々に対し心より感謝申し上げたいと思います。
    終わり

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  • 2011年「入梅摂心会」の日程 2011年5月9日

    平成23年「入梅摂心会」は、6月6日(月)〜6月12日(日)正午まで。

    6月は連休がありませんので、例年、参禅者も少なく、とても静かな摂心となります。

    夏至を間近に控えた下界では、晴れるととても暑い季節ですが、學道舎のあたりは、まだ新緑の美しい涼しい頃です。

    暑くもなく、寒くもなく、特に初心の方にとっては参禅の好時節です。

     

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