参禅の感想-13 禅との出会い インドから日本へ

K.Yさん 30代男性 理学療法士

禅との出会い インドから日本へ

私はインドとネパールを1年間旅しました。その途中で瞑想することを覚え、そして日本で禅と巡り合うことになりました。

インドを旅していると、宗教や信仰、死生観などについて考える機会が多くあります。私は瞑想やヨガを習い、実践していく中で「自分とは?」ということに向き合っていくことになりました。そして、私の関心は「故郷の日本で培われた精神性とは?」ということに移っていきました。

禅への興味

おそらく、日本での禅への一般的なイメージというのは、厳しい規律の中で集団生活を送ることや、坐禅中の罰則(警策)などではないかと思います。

私の場合は、50年代のビート・60年代のヒッピーと呼ばれた人達が傾倒していたもの、現在では一部のサーファーがヨガと同様に生活に取り入れているもの、というイメージを持っていました。そして、どうして西洋人である彼らが禅に興味を示し、実践するのかに関心がありました。

長い旅の中で知り合う西洋人の中には禅に興味を持っている人もいて、日本人よりも禅について知っている人にも会いました。彼らは、一般的な日本人が抱いているイメージを持っているわけも無く、より精神的なものを禅に求めていると思いました。

ヴィパッサナー体験記

ヴィパッサナーの10日間コースを初めて体験したのは、ダラムサラでした。旅の途中に出会った友人達の勧めがきっかけでした。建物の内外には仏教の装飾がほとんどされていなかったことや、口コミで広がっていることなど、宗教的ではないところが、参加しようと思った理由です。

体験する前に、ヴィパッサナーの入門書を熟読して、その概念は頭に入っていたため、コース中のテープによる解説に対しても、比較的、理解が安易に出来たと思っています。

はじめの3日間は、足の痛みを含めて大変でしたが、少しずつ慣れて、コース半ばは順調に進みました。そして、心に抱えていた鬱憤のようなものが取れているのに気がつき、とても穏やかな気持ちになりました。最後の3日間は疲れてしまったというのが率直な感想です。

このヴィパッサナーは、無言で瞑想に励み、現在の自己を観察することで心が穏やかになる、とても優れた技法だと思いました。また、世界中から集まった何十人もの人々と同時に瞑想することは、とても大きなエネルギーを感じることができ、充実した時間となりました。

その後、再び10日間コースに参加するのは少し億劫に感じたため、3日間のコースを一度行ったに留まりましたが、旅の間はほぼ毎日、短時間ながらこの瞑想を続けていました。継続していると、朝、瞑想をした日としない日では、その日一日の心の状態が随分違うと感じるようになりました。

私はヴィパッサナーのコースを体験し、自分で継続していく中で「同じ仏教を土台としている禅、日本の伝統的な禅、様々な文化圏の人を惹きつける禅というものは、一体どういうものなのだろう?一度体験してみたい」と強く思うようになりました。しかし、寺院などで行われている坐禅会について、インターネットで調べてみたものの、私の気持ちを動かすものは見つかりませんでした。

友との出会い

日本へ帰ったら僧になるために出家する、という友人に出会ったのは、バラナシのガンガー沿いのゲストハウスでした。私がそこで使っていた部屋は、彼も一年前に使っていた部屋だと、別の部屋に長期滞在しているサドゥ(ヒンドゥーの修行僧)から聞いていました。彼は一年経ったこの時、バラナシに戻ってきていて、偶然そのサドゥと再会し、ゲストハウスに一緒に来たのでした。

私はこの時、ちょうど鈴木大拙の著書を持っていたため、彼と話が合い、また、波乗りという共通の趣味を持っていたため、なんとなく波長が合ったのを覚えています。

私が禅に興味があると話すと、この朽木學道舎を教えてくれました。そして、インターネットでそのホームページや老師のインタビューを読みました。老師の言葉にはどれも強く共感を覚え、ここへ行けば禅の本質に出会えると思い、日本に戻ったら行こうと心に決めました。

この學道舎を知ったことは、日本に戻る良い動機になったと思います。また、この友人との出会いの状況から、ここへ行くことは、何らかのメッセージとして受け取ることが出来ました。

摂心体験記

日本に戻ってから、3ヵ月後に摂心に参加しました。楽しみに待っていた、6月の摂心でした。この一週間は晴れの日が多く、過ごしやすい気温で、気持ちの良い中で坐禅に集中できたと思います。禅堂には全体に木材が使われていて、落ち着いた雰囲気を作り出していました。また、自然の音と光の中で坐れる環境になっていたと思います。

摂心で特徴的な食事の作法は、はじめは不慣れなため上手く出来ませんでしたが、慣れてくると一つ一つの動作に集中が行き渡り、落ち着いて作法を行える様になりました。これも1つの禅なのだろうと思いました。

摂心前半の提唱で老師が話されることは、私の坐禅の進行具合にピタリと当たっていたので、このまま進めていけば良いのだと確信を持つことができました。

毎晩の独参では、老師と一対一で坐禅の進行具合を確認でき、それに対する助言をしてもらえるため、摂心を通して安心して坐禅に集中することができました。

休憩中は外で過ごすことが殆どでした。流れる川を見つめたり、森の中を歩いてみたりすることで、移り行く意識の流れや、宇宙との一体感の様なものを体感した気がします。

摂心後半、一度だけ、食後の約一時間に作務を行いました。禅堂の屋根に使う藁をまとめて縛り、一箇所に集めるという作業でした。適度に体を動かすことで、その後の坐禅はより一層深くなったと思います。

摂心が進み、半ばを過ぎた頃から、坐っていることが苦痛ではなくなりました。それに伴い、坐っていられる時間も次第に長くなり、禅定も深くなりました。楽しみさえ覚え、もっと坐っていたいと心から思うようになりました。

最後には、現実的では無いような音が聞こえたり、目の前に虹色の紋様が現れたり、体の感覚が研ぎ澄まされたりと、今まで経験したことのない程に深い禅定に達したと思います。これらの経験は、摂心の成果が出ているという実感が湧き、充実した気持ちになりました。ただし、これらに囚われることなく坐禅を続けるように、と老師から助言を戴きました。

終わってみて、私は禅(特に摂心)とは一つの生活様式だと思いました。それは、本来の自己を発見するために、人里離れた静かな場所で、無言を貫き、完成された共同生活を送ることだと。その中心にあるものが坐禅であると。

そこには、厳しい規律によって管理された生活からかけ離れた、本当の意味での精神の自由が存在していると思います。このような精神的伝統のある日本に生まれたのは本当に幸運だと思います。この學道舎はそう思わせてくれる大変に貴重な場所だと心から思います。

また摂心に参加したいという意欲が、一ヶ月以上経った今でもありますし、摂心後もほぼ毎日、短時間ながら自宅で坐禅を続けています。
私は禅について全てを知ったわけではありませんが、自分とは何者なのかを知るためには、私にはこれが一番合っている方法だと思っています。長い旅の果てに禅と出会いましたが、自己探求の旅はまだまだ続きそうです。

最後に、この素晴らしく貴重な経験をさせて下さった老師、毎日大変美味しい食事を作って下さったご夫人、そして、共に摂心に参加した方々に対し心より感謝申し上げたいと思います。
終わり

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