Tag Archives: 座禅会東京

参禅の感想-9

CSさん 40代前半 男性 福井県在住 会社員(専門は建築)
(摂心前のメール)
御返答ありがとうございます。
5月の連休に参加できれば、とおもっております。
動機を考えていたのですが、禅への関心はひたひたと静かに満ちてきたという感じです。
特段、大きな波が訪れた わけでもないです。

永平寺町のとなり町で生まれ育ちましたので、大きな存在は知っておりました。

ただ 特別な関心は抱いておりませんでした。それがこの2、3年、帰省した折に宝慶寺や 吉峰寺をよく参拝するようになり、いつか心を落ち着けてじっと坐ってみようと、おも うようになってきました。


最初のメールにも書きました通り、私は坐禅の経験がまったくありません。
動機も上記 のように『何となく』という感じです。
そのような者が参加してよいものかどうか、 参加できるかどうか迷いまして、とりあえず一度話だけでも聞いてみようとおもい、訪 問した次第です。
今回は、これで失礼いたします。
連休の近くになりましたら、またメールいたします。
(摂心後のメール)
今回の摂心に参加できて、本当によかったとおもっております。
ありがとうございまし た。
大きな屋根まっさらな食事自身のための時間
現代社会の中で、このようなものに接する機会があることに、感謝しております。
専用禅堂の建設、トイレの建設等でお手伝いできることがあれば、とおもっております。(外断熱構法、ミミズの浄化槽等の情報、日を改めてメールいたします。)
學道舎を出た後、Sさんと小浜、永平寺、宝慶寺を巡りました。
宝慶寺の檜造の僧堂は清々しく、「総檜造り」という言葉の認識をあらたにしました。
(つまり、自分は成金趣味的なマイナスのイメージを抱いていた、ということです。)
いつか坐れたらと、おもいます。
これからも坐り続けるとおもいます。
求めず、ただ坐るのみです。
(二度目の摂心後の便りから)
摂心ありがとうございました。
体が慣れるぶんだけ、難しくなるように感じます。
計らいを取り去り、坐るだけのむずかしさ、
こうして感想を述べることすらも
計らいかとおもわれてきて、こわくなります。
朽木の自然はやはり美しく、すばらしいものです。
その一方で
どんなに鳥の声が美しくとも、我々は鳥にはなれない。
という老師の言葉も心に残ります。
また、テロがおきました。
犠牲者、犯人、社会、
闇がますます広がるような気がします。
8月は、6日から15日まで、私用で東京にいかなければなりません。
摂心には参加でき ませんが、8月中に一度は坐りたいとおもっております。
また、作務にかんしても、 力になれればと考えておりますので、お声かけてください。
2006年5月9日
接心ありがとうございました。
家に戻ってみると、燕がまた巣作りをはじめていました。4月の上旬に一度巣作りを はじめたのですが、猫に襲われてしまい一度離れてしまいました。
車庫の出入り口の上に巣があり、その位置は車があると、猫にしてみればボンネット の上からちょうど飛びつける手ごろな高さなのです。(ボンネットの上には猫の足跡 が)
今度は、大事を取って、近くに駐車場を借りましたが、大家さんに事情を何気なく話 していると、そういう事ならばと、夏の間だけただで貸してくれそうです。
今回外で座れたのは、よい経験でした。実はかなりワクワクして座りはじめたのです が、気分が高ぶってしまった分だけ、落ち着きがなくなったようにおもいます。経験 を重ねればもっと充分に座れると思いますので、是非今後も続けていきたいです。日 没時や林の中でも座ってみたいと思います。
作務は、今回は畑仕事で、畑仕事をやった事ない僕は、その道のプロの2人の足手纏 いにならないように黙々とスコップでほり起こしておりました。

 それにしても二人が いきなり鍬と鋤を手に取り、頭上高くふりかざした姿を見た時は、これはお呼びじゃ ないなとおもいました。(笑)残っていた道具はスコップとツルハシで、「あ-やっ ぱり僕は建設業」とひとりごちした次第です。


この作務も取り入れていっていいと思います。

Posted in 参禅記・感想 | Tagged , , , , , | Leave a comment

参禅の感想-8

K.Nさん 20代女性 鹿児島在住 有機農業に従事
 學道舎での約半年の参禅を経て、現在、鹿児島で有機農業をしています。
 無農薬・無化学肥料はもちろん、家庭で出る野菜くずなどを全て牛の糞と混ぜて堆肥化し、畑に還すことに徹しています。
 食物は燃えるごみではない、とういことにこだわるようになったのも、参禅の大きな成果です。
 「自分とはどういう存在なのか?」「自然と一つである。」
 それを身をもって実感することができた、ということです。
 参禅をしようと深く決意したのは、一杯のお粥の温もりが、全身に染み渡る体験をしたときでした。
 当時、IT関連の仕事で、朝から晩までPCに向かう暮らしに限界を感じ、心身が病み、アル中になっていました。酒が手放せず、自分を完全に見失っていました。
 「自分とはどういう存在なのか?」「自己とは?本来的に生きるとは?」
 そのような問いかけは、中学生時代からずっとあり、哲学・宗教の本をよく読んできました。禅には特に興味がありました。それでも、知識としてだけでは解決されない、腑に落ちないものを、ずっと抱え続けていました。
 縁あって、自分が最も切実に求めているときに、実践としての禅、学道舎に出会うことになったのです。
 仕事も住処も捨て、というと大袈裟ですが、少なくとも気分としては、もうこれしかないという、切羽詰った状況で学道舎に向かいました。

 月に一度の摂心を中心に、半年間通い続けたのは、坐禅そのものだけでなく、学道舎を取り囲む、本物の自然と一体となって呼吸できる場所を求めたということも、大きな理由です。


 ブナの原生林が広がる芦生の森の麓、鹿の声や山鳥の鳴き声が、カーンと山々に木霊する音が響きます。新緑の躍動感、源流の清澄感、森の呼吸・・静寂に包まれながらも、本当の自然の音が、自分の体内から沸き起こってくるのを実感できる場所です。
 一本の木の影を辿れば太陽があるように、自己を徹底的に探求すれば宇宙がある。
 そんなくさい言葉を、なんの衒いもなく、ただ実感として思うようになりました。
 坐禅、提唱(老師が禅語録などを読んでくださる)、独参(老師との対座)が摂心の三本柱と言われます。

 参禅者の私語は厳禁ですが、禅堂の空気や内的想いに触発され、自己との対話、内面の言葉は、普段よりも膨大になるような気がします。(坐禅に同じ道がある訳ではないので、あくまでも個人的な体験です。)


 無我とか無心の境地というものには、全くこだわりません。何も考えないということもせず、内面に去来することを、手をつけずに、放っておく。

 呼吸そのものになることだけに意識を集中すると、自分が宇宙に放り出される感覚、逆に言えば、雨の滴が落ちる音が、自分の内から聞こえてくる感覚になり、内も外も境界がなく、しがみついている自己もなくなる。

 それでいて、この宇宙に自己が存在しているということが、はっきりと分かるようになります。


 坐禅をすることは、非日常や現実逃避でもなければ、特別な力を得るというのでもありません。当たり前のことが当たり前と分かる、その単純さに気付くものだと思います。
 ここからが禅で、これは別というのではありません。日々の暮らしの中で毎日坐禅をしてはいませんが、私にとっては畑を耕すこと、日々の食事を頂くことが、禅と同じだと思っています。

 得てして日常生活では、宇宙や自然との関係の中での自分の位置を見失いがちですから、学道舎のような場所で、定期的に確認作業をしなければならない、というのはあります。


 ご縁がありましたら、学道舎で道を求める方と一緒に坐ることができたら、そう願っております。

Posted in 参禅記・感想 | Tagged , , , , , | Leave a comment

参禅の感想-2

Hさん 男性 30代前半 ドイツ フライブルク在住

参禅の動機

 私は西洋哲学の研究をはじめて8年になりますが、数年前から、これまでまったく気が付かずにいた、哲学と仏教のつながりが少しずつ見えてまいりました。その後、仏教とくに禅を自分なりに勉強しながら、実際にフライブルクのある禅グループの坐禅会にも、定期的に参加するようになりました。

 禅のみならず仏教では一般にそうでしょうが、教えを単に知識として勉強するのではなく、実践つまり修行がそこに伴わなければまったく不十分だという考えがあってのことです。

 そんななか、昨年の12月に日本に帰った折、東京のあるお寺で集中坐禅会に参加する機会がありました。ところがその指導のあまりの厳しさ、策礼の激しさに、心身ともに耐えられず、途中で脱落せざるを得ませんでした。

 その時は自分の意気込みの甘さを悔いて、今後どのように坐禅に関わっていったら良いかと悩みもしました。その後ドイツに戻ってからも細々と坐禅を続けていましたが、そんななか、偶然にも朽木學道舎のホームページに出会いました。

 老師の活動や理念について拝読させていただき感銘を受け、そこになにか言い知れぬご縁を感じて、今年(2006年)11月末に7日間の独摂心をさせていただいた次第です。

 【摂心

 摂心中は毎日、独参の時間を設けていただきました。お話の中で印象的だったのは、坐禅における「呼吸」の大切さでした。酸素を取り込み、二酸化炭素を吐くという一見単純な活動に、私たちの生命は支えられており、またそのなかに自然全体とのつながりがあらわれている。

 これまでの参禅では無字の公案が課されましたが、今回こうした呼吸の出入りに意識を集中し、呼吸に成り切ろうとする「随息観」に、初めて取り組みました。まず指摘されたことは、自分の呼吸の「粗さ」でした。

 これまでひたすら気合を入れて無に成り切ろうとする坐禅をしてきた結果、体に余計な力が入っていただけでなく、あまりにも呼吸をないがしろにしていたことに気づかされました。

あたかも針に糸を通すように綿密な呼吸を心掛けて、音や気配すらも出さない位に細やかな呼吸を練っていくように、と老師は注意されました。摂心の最初は、姿勢を保つことや呼吸を調えることに腐心していましたが、4日目を過ぎた頃から体も呼吸も安定しはじめ、同時に呼吸に意識を置くことが容易になってきました。

不思議なことに、こうなると楽れるようになってきます。もちろん体の節々も痛くなっているのですが、それも丁度いい緊張感をもたらしてくれました。摂心5日目になると、かなり深い集中が可能になってきました。

 おそらくそれと関係があるのでしょうが、ある時、呼吸に集中するあまり、突然呼吸の音が聞こえなくなって、静寂のなか、世界と自分の時間がピタッと止まってしまったかのような不思議な経験がありました。

 また、休憩中外に出たときのことですが、ふと見上げると、川岸に立っていた木々の色、形、模様のなかに、瞬間自分の意識がすーっと引き込まれていくような現象も経験しました。

 老師は、大切なことは「正受する」こと、つまり自我を介在させることなく、ものごとを正しく受け取ること・ありのままに受け取ることだとおっしゃっていましたが、坐禅をひたすら続けることで、意識が世界に対して何らかの判断を加える以前に立ち帰り、主観と客観の分離が成立する以前の、ものそのものがありのままに受け取られる場に立ち会うことができる、ということが分かったように思えます。

摂心を終えて

 7日間、これほどまで集中的に坐り続けたことは、私にとって初めての経験でした。坐禅、とくに呼吸の仕方、呼吸への集中の仕方が、この摂心を通じてかなり身についたのではないかと感じています。摂心前に老師からいただいたメールの中で、「できれば7日間坐り続けるように」と言われていました。

今回の参禅で、今後坐禅を進めていくうえでの基礎ができたように思えます。しかし、独参のときに老師がおっしゃった「坐禅をすることは何ら特別なことではありません」という言葉は印象的でした。

 いたずらに厳しさだけを振りかざして、これが坐禅なのだとして、それが何か高尚なことであるかのように考える風潮や、そうしたことが禅を必要としている多くの人々を遠ざけてしまっている現状を嘆いておられました。

 尋常でない厳しさ、苦行を通じて見性を得たとしても、それでは見性した「私」が残ってしまい、こんどは「悟り」の経験に縛られ、自由を失う危険があること、見性や悟りどころか、禅や仏教の跡形も残らなくなるよう「熟すまで待つ」姿勢が大切だということには、大変共感しています。

 釈尊が「苦行によっては悟れない」とお気付きになり山を降りたことには、やはり大きな意味があったのだと感じます。坐禅をすることは何ら特別なことではなく、それどころか世間の目から見ればなんと無駄なこと、愚かなことに見えるかもしれません。しかし、「愚かさに徹する愚者こそが賢者になる」、老師のこの言葉に深く考えさせられています。

 かつての禅の世界では、修行者が優れた師を求めて諸方を訪ね歩くことが行われていると聞きますが、坐禅を進めていく上で、自分にあった見識のある指導者が本当に不可欠であると感じます。何といっても、人は「決して一人では悟ることができない」のですから。

 今回は冬支度でお忙しいにもかかわらず、独摂心の場を設けてくださり、心より感謝申し上げます。ありがとうございました。

Posted in 参禅記・感想 | Tagged , , , , | Leave a comment